12月24日の夜。クリスマスツリーの下に、赤い封筒に入ったサンタクロース宛の手紙とともに、マカロンと牛乳が置かれていた。数日前から理子は「マカロン」を買うと言っていたのだけど、どうやらそれは、サンタクロースにあげるためのものらしかった。
キラキラと光るツリーと、サンタへのお礼のおやつ。自分が子供の頃とは勝手が違うものなんだな、と思う。
自分は幼稚園の時、園長先生がサンタの格好に着替えているところを見つけてしまったので、現実を知るのは早い方だった。
朝起きた時にサンタからのプレゼントがある、というふうにしたかった。
24日の午前中に実家から届いたプレゼントではそれが叶わなかったので、25日にそれを決行した。
僕はどうせ5時くらいに目がさめるからと、子供の寝かしつけとともに自身も寝落ち。
花さんは復活したようで、そのままクリスマスの支度をしたらしい。
「準備完了」というメールが届いていた。
プレゼントがツリーの下に置かれ、用意されていたマカロンと牛乳は、お皿だけ残して片付けたというわけである。
翌朝、ツリーの下へ駆け寄りプレゼントを見つけた時の喜びようといったらなかった。
やったー!やったー!と言って飛び跳ねていた。
当たり前だけど、テンションが最高潮に達し、朝ごはんどころではない。
腹が減っているなどどこかへ飛んで行ってしまったようだ。
プレゼントとともに、サンタからの手紙が置かれていた。花さんが用意してくれていた。
そういったわけで、平日の朝のバタバタはいつもに増してバタバタしており、
結果的に保育園に行きたくない、靴を履きたくないとなった。
先ほどまでの和やかムードは何処へやら。
ここのところの寒さなのかなんなのか、めっきり保育園に行きたくないモードが続いている。とてもぐずるため、誘拐犯よりも手際が悪そうだけど、最終的には理子を無理やり抱っこし、保育園まで連れて行った。歩いて数分とはいえ、16キロオーバーの暴れる子供を抱えて歩くのはしんどいものである。
しかしながら、園に着くと割とケロっとしている。そして先生にサンタさんにプレゼントをもらったと嬉しそうに話をしている。
友達のお母さんにも「何をもらったの?」と聞かれると、「シルヴァニア!」と自慢げに話していた。
仕事のお昼休み、ミッドタウンのディーン&デルーカで、花さんへのプチプレゼントとして
少し気の利いたお菓子を買う。
この日の夕飯は花さんが頑張ってくれ、ご馳走だった。ご飯の後には、理子と花さんが、玲さんの黄昏泣きと格闘しながら作ってくれたケーキを食べた。
夜の街に繰り出して祝うような派手さはないけれど、親密で温かなクリスマス。
僕が欲しかったウールの靴下を花さんがくれた。
いい1日だった。
2018年12月27日木曜日
2018年12月19日水曜日
懐かしいって何?
懐かしいって何?と理子が我々に聞いてきた。その問いかけは、まるでアンドロイドのようである。とはいえ、3歳から4歳にかけてようやく連続性というのか、昨日こうだったから、今こうだというのを理解し始めたので、「懐かしい」という意味も言葉もわからないわけだ。
懐かしいを説明するのは少し難しい。
どうやって説明しようかと、まず自分に懐かしいって何?と問いかけてみた。
すると、ポジティブな気持ちになったし、それこそ懐かしい気持ちになった。
「前にあった楽しかったことを思い出すことだよ」と理子にいう。
理解したのかどうかはわからないけれど「そうかー」と返事をする理子。
先日家族4人で初めて旅行をした。
飛行機に乗って、ホテルに泊まって、観光してご飯を食べて、みんなでお風呂に入った。
玲さんは2日目に発熱し、外は雨が降っていた。それでも結局4人が一日中いるというのが楽しかった。
玲さんはまだ早いけれど、いつの日か、理子にとってこんな日々を懐かしいと感じてもらえたら嬉しいと思った。
懐かしいを説明するのは少し難しい。
どうやって説明しようかと、まず自分に懐かしいって何?と問いかけてみた。
すると、ポジティブな気持ちになったし、それこそ懐かしい気持ちになった。
「前にあった楽しかったことを思い出すことだよ」と理子にいう。
理解したのかどうかはわからないけれど「そうかー」と返事をする理子。
先日家族4人で初めて旅行をした。
飛行機に乗って、ホテルに泊まって、観光してご飯を食べて、みんなでお風呂に入った。
玲さんは2日目に発熱し、外は雨が降っていた。それでも結局4人が一日中いるというのが楽しかった。
玲さんはまだ早いけれど、いつの日か、理子にとってこんな日々を懐かしいと感じてもらえたら嬉しいと思った。
2018年12月2日日曜日
一家パンデミック
先週金曜日の夜、理子が唐突に嘔吐した。
彼女はむっくりと起きだし、そして吐いた。その一寸前、花さんは母の直感なのか、やりとりがあったのか分からないが、その自分の手を受け手として、理子の口元にさしだした。そして吐瀉物は布団への直撃を免れた。
しかしながら飛沫は当然布団のみならずこの部屋全体として行き渡っている。
どうやって感染源を絶ち、かつ被害を拡大させないかを寝起きの頭で必死に考えて夫婦は行動した。
洗濯すべきものを風呂においやり、シングルの布団セットを別部屋へ移動した。なにせ4ヶ月の娘がいるのである。そちらへ感染してしまってはもう悲劇以外のなにものでもない。
片付けをしながらも、なおも理子は吐いてしまう。胃の中が空になるまで、一番つらいパターン。防水シーツを敷いてももはや意味はなく、ゲロの飛沫は全くロマンティックなそれではなかった。
片付けをしているなか、頭の中では別のことを考えていた。昼間に行った人ごみに溢れた某感謝祭がいけなかったんだろうか。完全にもらってしまったにちがいない。
花さんには玲さんを別室で見てもらい、僕は理子と一緒に寝た。結局のところ、その日、理子は胃液だけになるまで吐き続けた。寝ながらもやはり吐いてしまう。そしてどうしても喉が乾くようで、「口をゆすぐだけにして」といって水を渡して桶にそれを吐かせた。
少し落ち着いて寝に入るのだけど、ふとしたときに起きて、水をこっそり飲んでしまった。するとものの数分後にはそれをまた吐いてしまう。水を飲んだら吐くという因果関係をまだ理解できない。だから僕が理子に嫌がらせをしているとしか思えないようで、「なんで飲んじゃだめなの」と涙ながらに言うのであった。
結局寝付いたのは深夜を大きく過ぎた頃だったように思う。
日付が変わった頃、隣の部屋で花さんは1歳年を重ねた。
翌日病院へ行くと胃腸炎と診断される。
日曜日、今度は玲さんが吐く。
僕の認識では、母乳を通して、赤ちゃんはこういった病気にはならないと思っていたのだけど、花さん自体が胃腸炎的なものの抗体を持っていなかったようだ。
4ヶ月の子がただただ白い液を吐く、ごぼごぼとした音は本当に聞いていて辛かった。そしてやはりこういったことは布団に入って寝静まった頃に起きるのであった。
火曜日、今度は花さんが吐く。
完全に一家パンデミックである。次々に家族を襲っていく。完全隔離体制である。理子を久々に延長保育した。理子には「ママが病気になったから、パパの言うことをちゃんと聞くんだよ」と言い聞かせた。
保育園で先生にママのことを話すと、隣で話を聞いていた理子が泣き出してしまった。
母はいつも優しくて強いというものなのかもしれない。
木曜日、ついに自分が逝ってしまわれる。
木曜に校了のものがあり、それで安心してしまったのかもしれない。夜中に寒気がしてきて、寝て1時間で起きてしまった。吐き気、腹痛、頭痛、発熱。
僕はまた2次災害を避けるべく、布団を隔離部屋へ移して一人で寝た。
金曜日は仕事を休ませてもらい、療養した。
いくら手洗いを細かくしても、マスクをしても、かかってしまうものはかかってしまうようである。
この冬にあと何度こういったことが起こるのか、考えただけでも恐ろしい。
彼女はむっくりと起きだし、そして吐いた。その一寸前、花さんは母の直感なのか、やりとりがあったのか分からないが、その自分の手を受け手として、理子の口元にさしだした。そして吐瀉物は布団への直撃を免れた。
しかしながら飛沫は当然布団のみならずこの部屋全体として行き渡っている。
どうやって感染源を絶ち、かつ被害を拡大させないかを寝起きの頭で必死に考えて夫婦は行動した。
洗濯すべきものを風呂においやり、シングルの布団セットを別部屋へ移動した。なにせ4ヶ月の娘がいるのである。そちらへ感染してしまってはもう悲劇以外のなにものでもない。
片付けをしながらも、なおも理子は吐いてしまう。胃の中が空になるまで、一番つらいパターン。防水シーツを敷いてももはや意味はなく、ゲロの飛沫は全くロマンティックなそれではなかった。
片付けをしているなか、頭の中では別のことを考えていた。昼間に行った人ごみに溢れた某感謝祭がいけなかったんだろうか。完全にもらってしまったにちがいない。
花さんには玲さんを別室で見てもらい、僕は理子と一緒に寝た。結局のところ、その日、理子は胃液だけになるまで吐き続けた。寝ながらもやはり吐いてしまう。そしてどうしても喉が乾くようで、「口をゆすぐだけにして」といって水を渡して桶にそれを吐かせた。
少し落ち着いて寝に入るのだけど、ふとしたときに起きて、水をこっそり飲んでしまった。するとものの数分後にはそれをまた吐いてしまう。水を飲んだら吐くという因果関係をまだ理解できない。だから僕が理子に嫌がらせをしているとしか思えないようで、「なんで飲んじゃだめなの」と涙ながらに言うのであった。
結局寝付いたのは深夜を大きく過ぎた頃だったように思う。
日付が変わった頃、隣の部屋で花さんは1歳年を重ねた。
翌日病院へ行くと胃腸炎と診断される。
日曜日、今度は玲さんが吐く。
僕の認識では、母乳を通して、赤ちゃんはこういった病気にはならないと思っていたのだけど、花さん自体が胃腸炎的なものの抗体を持っていなかったようだ。
4ヶ月の子がただただ白い液を吐く、ごぼごぼとした音は本当に聞いていて辛かった。そしてやはりこういったことは布団に入って寝静まった頃に起きるのであった。
火曜日、今度は花さんが吐く。
完全に一家パンデミックである。次々に家族を襲っていく。完全隔離体制である。理子を久々に延長保育した。理子には「ママが病気になったから、パパの言うことをちゃんと聞くんだよ」と言い聞かせた。
保育園で先生にママのことを話すと、隣で話を聞いていた理子が泣き出してしまった。
母はいつも優しくて強いというものなのかもしれない。
木曜日、ついに自分が逝ってしまわれる。
木曜に校了のものがあり、それで安心してしまったのかもしれない。夜中に寒気がしてきて、寝て1時間で起きてしまった。吐き気、腹痛、頭痛、発熱。
僕はまた2次災害を避けるべく、布団を隔離部屋へ移して一人で寝た。
金曜日は仕事を休ませてもらい、療養した。
いくら手洗いを細かくしても、マスクをしても、かかってしまうものはかかってしまうようである。
この冬にあと何度こういったことが起こるのか、考えただけでも恐ろしい。
2018年11月19日月曜日
表参道
「世界で一番美しいのは誰?」と、隣で寝ている理子が寝言を言った。僕はその時もう起きていて、iPhoneを見ていた。
あまりにクリアに言うものだから、起きたのかな?とも思ったけれど、その後に続く言葉が出てこなかったし、まだ目を瞑っているから、それは完全に寝言であるらしかった。
最初何を言っているのかわからなかったけど、すぐに「鏡よ鏡に続くのね」と理解した。しかし娘よ、よりによって白雪姫ではなくなぜ「お妃さま」のほうなんだ?
11月には花さんの誕生日があり、果たしてなにを送ろうかと考えあぐねていた。先日2017年版の花ブックをようやく上梓することができ、長い2017年を終わらせたばかりだ。
花ブックとプレゼントは別物なので、なにかしらを送るつもりでいたのだけど、何がいいかしら?と3ヶ月前くらいから悩み続けていたのであった。
そういう状況であることを黙っていられないので、つい花さんに「誕生日プレゼントのことなんだけど」と話してしまう。
見当違いのものをあげてしまうことほど虚しいことはないし、使われないまま仕舞われてしまった時は目も当てられない。
しかし花さんというのは「プラダのバッグが欲しい」とかいうような女性ではないのであった。
結局の所、普段の生活を見ていて、リュック難民であることに検討をつけ、「リュックはどう?」と聞くと、それがいいということになった。
少し前、エルベシャプリエのカーキ色のリュックを、花さんはよく使っていたのだけど、二子玉によく行く我々の行動範囲内で、それを使っている人が本当に数多く存在していた。
理子の成長とともにお出かけの際の荷物が減っていったこともあり、リュックは使わなくなっていったのだけど、玲さんの誕生とともにやはりリュックが便利であった。
そうして私はギャルソンのリュックを提案した。リュックのサイズ感は背負ってみないとわからないから、今度の週末にお店に行ってみようと言って、実際に昨日、四半世紀ぶりに家族で表参道へと馳せ参じた。
玲さんがベビーカーに乗り、理子は歩くことになったが、しばらくすると抱っこしてと言う。
表参道に着くと、まずご飯を食べた。たまに行くオープンエアのコミューン2ndという屋台が並んだ場所。
僕はタイカレー、花さんはシーフードフライ。理子はポテトばかり食べるので、僕が食べ終わった後に、近くのコンビニで納豆巻きを買って食べた。
道中、理子はどんぐりを拾って、「誕生日プレゼントね」とママに渡すために僕のポケットにそっと忍ばせていた。
その後ギャルソンへ。一昔前だと子供を連れて店に入ることなどまったく想像の外の話であったけど、ツーリストで溢れた店内は我々が浮いて見えることなどなかった。
お目当のリュックをマイナーチェンジを繰り返して定期的に売られているものなので、当然置いてあった。
そうして花さんに背負ってもらうと、「ではこれを」という話にあいなった。
そんなやりとりをしていると、理子がどうしてもベビーカーに乗りたいというので、仕方なく理子と玲さんを入れ替えた。店内でこんなことをするなど思いもしなかったのだけど。
店を出てしばらくすると、理子は寝た。もはやそのベビーカーに対して体はとても大きく、窮屈に見えたのだけど、彼女にとって表参道など起きているに価値しない町なのであろう。
これを契機とまずは表参道ヒルズで玲さんケアをする。理子がまだ授乳を必要としていた際、よく訪れていた地下のスペースへ。そう思い返してみれば、理子がまだ小さい頃は表参道にもたまには来ていたのだなと思い返す。
玲さんは授乳の際、花さんの顔をじっと見ながら飲む。そうやって繋がっている。
だからなのか、ケープを使って隠しながらやると激しく抵抗するため、結局こういった授乳室の存在が欠かせない。
玲さんの空腹が満たされるとキャットストリートの「6」のお店へ行く。僕が「行ってみたほうがいいよ」と言い続けていたのがようやく果たされる。
花さんは目をキラキラさせている。よくよくラックを見ていると「おや?あれもこれもそれも花さんのクローゼットで見たことある」という程、ここのところ花さんの心をキャッチしているブランドである。
店内には花屋も併設していて、偽りのない花の香りが漂っていていい空間だった。
店を出るとニックナイトの展示が行われているthe massへ行く。ちょうど理子は眠りから目を覚ました。
ベビーカーを入り口で預かってもらい、中に入る。オープ二ングの時は人が多くいたから、今回はゆっくり見ることができた。理子に「どれが好き?」と聞くと、「ピンクの!」という。僕も同じ作品がいいと思っていたから嬉しかった。
東京に住んでいてよかったなと思うのは本物に触れることのできる環境が近くにあるということかな、と思う。
展示を見終わると、動線がイマイチな地下鉄を乗って家に帰る。
プレゼントに買ったリュックを「背負ってみたら?」と僕が言うと「誕生日まで待つよ、理子の誕生日の時にもそう言い聞かせたしね」という。
そんな彼女の誕生日は来週末である。
2018年10月26日金曜日
不在
先週の土曜日、花さんたちは青森の実家に帰った。
「妻が実家に帰りましてね」
「それは大変でしたね、何があったんですか?」となりそうなフレーズである。
上野駅まで3人を見送り、改札を抜けて姿が見えなくなるまでそこに留まったのだけど、あっという間に群衆の中に彼女たちは消えていった。
東北新幹線は予約席だから確実に座れるのだけど、3ヶ月の子と4歳児の組み合わせは、快適な旅が約束されたものとは程遠いことが予想された。どうか無事にと願い、そこを去った。
せっかく上野まで来たから、「デュシャン」を見に行った。フィラデルフィア美術館にある彼の作品群が日本にやってきたようだ。混んでいることもなく、一通りみて、また入り口まで戻って2周見た。展示物の写真撮影が可能だったため、いたるところでパシャ、とiPhoneの音がする。僕も何枚か撮った。
その後、久々に上野を散策し、スカイザバスハウスに行った。天気はとてもよく、着ていた上着はずっと手で持っていた。
アメ横に行くと、中田商店に行った。古本屋を探して覗いたり、気ままに歩いた。
土曜日はそんな風にして終わった。
日曜は部屋の掃除をして、ギャラリーを見て歩き回り、NIKKIで髪を切った。
「誰かと飲んできたら?」と花さんはいったのだけど、普段から誰かを誘って飲みに行くなど滅多にしない僕は、結局のところ、仕事が終わると神保町に行って古本屋を漁ったりしただけだった。
一人になったからといって、いつもとは違うことをするのは少し難しい。
妻と子供がいなくて羽を伸ばせる、という人もいるのだろうけど、そんなことを感じたのは風呂に入っている時と布団の中で理子に寝返りの裏拳チョップを食らわずに寝続けることができた、というくらいだ。
そういったわけで、水曜に彼女たちが帰ってきたときはとても安心した。ようやく日常が戻ってきた。話し相手がいない朝ごはんはとても寂しいし、時間に余裕があるくせに、遅刻をしてしまった。弛緩しているのである。
やっぱり4人で我々なのである。
2018年10月18日木曜日
ピンクをこよなく愛する女
遺伝子に組み込まれているのか知らないけれど、理子はピンクをこよなく愛している。
我々夫婦の遺伝子にはないからおそらく突然変異である。
朝、花さんが理子の着替えを用意している。
秋も深まってきたことだし、えんじ色のズボンを履かせよう。
それに合わせるのは、この間買ったフルーツオブザブルームのロンTにしよう。
花さんが選ぶに至る思考が、手に取るようにわかるコーディネートだ。
僕は少し離れたところから、「うんうん、おしゃれだ。用賀一おしゃれだ」などと思いながら見ている。
しかし同時に、こうも思う。「絶対これ着てくれない」と。
「理子ーお着替えしよう!」と花さんが言った。
理子は提示された服を見るなり、「やだ」と言う。たったの2文字だけで気持ちを伝えることに成功している。
花さんも分かっている。着てくれないことくらい。我々にはいつもプランBがあるのだ。
しかし今回はそれすらもダメだった。おそらく服ではないところに不機嫌になる要素があるらしい。面倒な女である。その感情を着替えに持ち込まないでいただきたいものだ。
うすら寒いけど、ピンク色の半袖を選ぶ。そして、ズボンも、ピンク色を選んでしまう理子。
この時期に着ることのできる薄手のアウターは、悲しいかな理子の好きなピンク色のスカジャン。そして靴もピンク色であった。
もう仕方がない。
全身ピンクとなった理子はご満悦で家を出る。マンションの清掃のおじいさんにもご機嫌で挨拶をする。孫が同い年くらいだという彼の目は、優しいおじいちゃんそのもので、全身ピンクだろうが関係なく可愛く映っているようである。
方や、私といえば全身黒。どうしてこうなってしまうのかしら。
「クリストファーネメスの娘も小さな頃はセーラームーンの服を着ていたのよ」
そんな言葉が私の心の支えになっている。
我々夫婦の遺伝子にはないからおそらく突然変異である。
朝、花さんが理子の着替えを用意している。
秋も深まってきたことだし、えんじ色のズボンを履かせよう。
それに合わせるのは、この間買ったフルーツオブザブルームのロンTにしよう。
花さんが選ぶに至る思考が、手に取るようにわかるコーディネートだ。
僕は少し離れたところから、「うんうん、おしゃれだ。用賀一おしゃれだ」などと思いながら見ている。
しかし同時に、こうも思う。「絶対これ着てくれない」と。
「理子ーお着替えしよう!」と花さんが言った。
理子は提示された服を見るなり、「やだ」と言う。たったの2文字だけで気持ちを伝えることに成功している。
花さんも分かっている。着てくれないことくらい。我々にはいつもプランBがあるのだ。
しかし今回はそれすらもダメだった。おそらく服ではないところに不機嫌になる要素があるらしい。面倒な女である。その感情を着替えに持ち込まないでいただきたいものだ。
うすら寒いけど、ピンク色の半袖を選ぶ。そして、ズボンも、ピンク色を選んでしまう理子。
この時期に着ることのできる薄手のアウターは、悲しいかな理子の好きなピンク色のスカジャン。そして靴もピンク色であった。
もう仕方がない。
全身ピンクとなった理子はご満悦で家を出る。マンションの清掃のおじいさんにもご機嫌で挨拶をする。孫が同い年くらいだという彼の目は、優しいおじいちゃんそのもので、全身ピンクだろうが関係なく可愛く映っているようである。
方や、私といえば全身黒。どうしてこうなってしまうのかしら。
「クリストファーネメスの娘も小さな頃はセーラームーンの服を着ていたのよ」
そんな言葉が私の心の支えになっている。
2018年10月16日火曜日
記憶
自分の一番古い記憶の場面は「幼稚園の園庭で、2階から先生に声をかけられている」という場面である。
でもそれは、2階から自分を見ている絵。つまり先生の目線で自分を見ているということなので、例えば夢を見たとかで、勝手に作られた映像を最古の記録としているのかもしれない。
そして、どうしてこんなこと覚えているんだろうということもいくつかある。
ふとした時に蘇ってきたり、かいだ匂いから思い出すこともある。
僕は毎日、日記を書いている時期があったから、記憶に関しては少し色濃く残す傾向があるのかもしれない。
ある日、保育園に行くと先生がピアノの練習をしていて、どうやら弾き間違いをしていたようだった。
そんな場面から、僕は小学校の卒業式当日のことを思い出した。
小学校最後の日、いつもより早く学校に着くと、1階の音楽室の脇を通った。
すると、ピアノの音が聞こえた。
それは「巣立ちの歌」で、定年間近の男の先生が式で弾く予定のものだった。
そのリズムは若干崩れていて、とても滑らかな指使いと言った風ではなかったし、どこか音を外しているような気がした。
当時の僕は、どうせならきちんと弾ける先生がやればいいのに、と思ったし、実際の式でも少し危なっかしい演奏だったと記憶している。
それでも、20年以上経っても、覚えているのはその時の情景である。
どうしてかはわからないけれど、中学の卒業式の時のことはまるで覚えていない。父親が撮影したビデオを繰り返し見たことによって、客観的な映像で覚えているに過ぎない。
新しいことよりも古いことの方が、その時の息遣いすら覚えていることがあるというのは、不思議なものだなと思う。
でもそれは、2階から自分を見ている絵。つまり先生の目線で自分を見ているということなので、例えば夢を見たとかで、勝手に作られた映像を最古の記録としているのかもしれない。
そして、どうしてこんなこと覚えているんだろうということもいくつかある。
ふとした時に蘇ってきたり、かいだ匂いから思い出すこともある。
僕は毎日、日記を書いている時期があったから、記憶に関しては少し色濃く残す傾向があるのかもしれない。
ある日、保育園に行くと先生がピアノの練習をしていて、どうやら弾き間違いをしていたようだった。
そんな場面から、僕は小学校の卒業式当日のことを思い出した。
小学校最後の日、いつもより早く学校に着くと、1階の音楽室の脇を通った。
すると、ピアノの音が聞こえた。
それは「巣立ちの歌」で、定年間近の男の先生が式で弾く予定のものだった。
そのリズムは若干崩れていて、とても滑らかな指使いと言った風ではなかったし、どこか音を外しているような気がした。
当時の僕は、どうせならきちんと弾ける先生がやればいいのに、と思ったし、実際の式でも少し危なっかしい演奏だったと記憶している。
それでも、20年以上経っても、覚えているのはその時の情景である。
どうしてかはわからないけれど、中学の卒業式の時のことはまるで覚えていない。父親が撮影したビデオを繰り返し見たことによって、客観的な映像で覚えているに過ぎない。
新しいことよりも古いことの方が、その時の息遣いすら覚えていることがあるというのは、不思議なものだなと思う。
2018年10月12日金曜日
絵本
「それ、違うよ」と理子は言う。寝る時に読み聞かせをしている絵本の話だ。
理子の成長とともに、絵本の質も変わった。単純なものでなく、きちんとストーリーがあるものになった。
ストーリーがあるということは話自体が長く、毎日読み聞かせるのもしんどくなってくる。それに、理子が選ぶのは大抵毎日同じ絵本なのだ。
だから、というわけでもないのだけど、ちょっと端折ってみたわけである。
一節を抜いてみたところ、冒頭のセリフである。
しかも理子は続けて、端折った部分をそらで言い始めるのであった。
これにはちょっと鳥肌がたった。読んでいた本はラプンツェルで、ちょうど魔女が出ているところだったこともある。
通しで読んだことはおそらく5回にも満たない。それなのにその文章を覚えているわけだ。
3歳の頃、もうすこし単純な絵本を読んでいる時も、こちらが読み聞かせていると、理子がその先を読むということがあって、「うちの子天才なんじゃないだろうか」と思ったものだ。しかし幼児期というのはそういうものらしく、勘違いするべからずとネットの民は語っていた。
とはいえ、このスポンジのような吸収力は凄まじい。
花さんと理子が、図書館に行って、本棚を眺めていたところ、『地球の歩き方』を見て、「ママの好きな本だ!」と言ったらしい。
本当に面白い子である。
理子の成長とともに、絵本の質も変わった。単純なものでなく、きちんとストーリーがあるものになった。
ストーリーがあるということは話自体が長く、毎日読み聞かせるのもしんどくなってくる。それに、理子が選ぶのは大抵毎日同じ絵本なのだ。
だから、というわけでもないのだけど、ちょっと端折ってみたわけである。
一節を抜いてみたところ、冒頭のセリフである。
しかも理子は続けて、端折った部分をそらで言い始めるのであった。
これにはちょっと鳥肌がたった。読んでいた本はラプンツェルで、ちょうど魔女が出ているところだったこともある。
通しで読んだことはおそらく5回にも満たない。それなのにその文章を覚えているわけだ。
3歳の頃、もうすこし単純な絵本を読んでいる時も、こちらが読み聞かせていると、理子がその先を読むということがあって、「うちの子天才なんじゃないだろうか」と思ったものだ。しかし幼児期というのはそういうものらしく、勘違いするべからずとネットの民は語っていた。
とはいえ、このスポンジのような吸収力は凄まじい。
花さんと理子が、図書館に行って、本棚を眺めていたところ、『地球の歩き方』を見て、「ママの好きな本だ!」と言ったらしい。
本当に面白い子である。
2018年8月3日金曜日
きっと多分。
夕飯時、茶碗を3つ用意しようとしてしまうくらい、おかんがいるのが当たり前のようになっていた。
花さんは不思議そうにそんな僕の姿をみて、「寂しいんだね」と言った。
寂しいというよりか習慣になりつつあったんだと思う。そういう意味では2週間は長い時間だ。
でも花さんの体が出産前の体調に戻るにはまだまだ時間が必要だ。
区の制度を利用して、理子の保育園へのお迎えをファミサポの人にお願いすることにした。とはいえ毎日は難しいため、都合がつかないときは理子は休むこととなった。
そういう1週間が終わった。
僕が理子を保育園に送って、ファミサポの人が迎えにいって家まで送り届けてくれる。この酷暑のなか、エレベーターのないマンションを3階まで上ってくれてありがたいことである。
花さんは玲さんに乳を与え続け、その結果順調に体重を増やしているようだった。出産直後は片手で支える体重が本当に軽かったのだけど、ここのところ、少しずっしりと感じる。とはいえまだ3000gちょい。玲さんを見た後だと、理子はもう立派に見える。
理子が小さな時はなにかと余裕がなかったのだけど、今回は19時には家に帰ってこれているし、すこしどっしりと構えていられるような気がする。
僕が家に着く頃には玲さんはお風呂に入った後である。
花さんの作ってくれた夕飯を食べ、花さんか僕が理子をお風呂に入れ、22時に寝る。
理子は玲さんの隣で寝たがるし、とはいえなかなか寝付かない。
多分いつも僕が4人のなかで一番先に眠りにつく。
きっと多分、今日もやっぱりそうなんだろう。
2018年8月2日木曜日
帰沼
まさに台風とともに、沼津から一家がやってきた。姪っ子3人と兄夫婦。
理子は三姉妹と遊べることに一喜一憂しつつも、ばあばが沼津に帰ってしまうことも理解していた。そのことで涙を流してすらいた。
前日までのニュースでは、台風の進路が絶妙であったけれど、彼らは無事にやってきた。
一家5人が移動するのは容易なことではなく、大荷物を抱えていた。
家についてしばらくすると、風が強くなり、雨が降り出し、やがて大嵐となった。じつにタイミングが良い。
姪っ子たちはプリキュアを知らずに育っているので、理子がユーチューブや録画したそれを見ながらダンスレッスンし、また、それに興味のない子たちは、各々理子のおもちゃを使って適当に遊んでいる。
どうしてそれで?と思うような幼児用の単純なおもちゃを、ただただループしてやっていたりする。
玲ちゃんはうるさくなった部屋でもおとなしく寝ている。理子が生まれた頃は少しでも音を立てないようにと忍びのように暮らしていたのは意味がなかったのかもしれない。
雨脚は弱まったり強くなったりを繰り返していた。そんな中、おかんとりえちゃんがコンビニへ行き、飲み物や食料を調達してきた。その時はほぼ雨が止んでいて、家に帰ってきたと思ったらまた降り出した。タイミングの良い人たちである。
しかしあれだ。姪っ子たちは階下に気を使うということを知らずに生きている。部屋の下に誰かが住んでいるということがわからないから、平気で全体重を使って床をドンドンするし、ドタドタ走るし、とにかくやってほしくないことをイチイチする生き物たちだった。
たったの一泊二日のうち僕はいったい何回マジなトーンで怒ったかわからぬ。なんでそういうこと思いつくかなということをさらっとやり、こちらが怒れば怒るほど新しいおもちゃが手に入ったかのように暴れる。
静かにさせようと暗いクローゼットに入れると、キャーと言って喜ぶし、この酷暑の中、エアコンをつけているとはいえまずいと思ってそこから出そうとすると、今度は出てこない。つまりは全てが大人の意図とずれまくっている。
当たり前だけど、昼寝などしなかった。フルスロットル。マスタングAゴーゴーだ。5分に一度誰かが泣いて、大嫌いと罵り合っても数分後にはまた笑顔で遊んでいた。
花さんと玲ちゃんは外に出られないのだけど、その他の8人が食事をするのに外へ行こうともともとは思っていたのだけど、それができるような天候ではなかった。
仕方がないので、ピザをデリバリーしてもらうことにした。Lサイズを2つ頼んだけれど、子供たちはあまり食べなかった。ピザだぞ。きみたちはいったい何だったら食べるのだ?
お風呂に入るのも一苦労であった。当たり前だけどみんなで入りたいと言い出す子供たち。つまり4人だ。僕はまず一番手のかかる三番目から着手し、一人一人風呂の外へ出していった。一番上の羽咲はさすがは小学生。自分で洗い、自分で出て行った。
浴槽のお湯は心なしかもう濁っていた。
風呂が終わると眠るわけだが、誰と寝る、どこで寝るという一悶着がやはりあって、誰かが泣いて、誰かが怒られて、1日の最後はぐずぐずの中終わるのだった。
いつかはこの渦の中に玲ちゃんも加わるのだろうか。ゆっくり大きくなってくれよ、と
思わざるをえない。
翌日、天気は回復していたけれど、羽咲は調子が悪いようで熱を出していた。
朝食は前日の残りのピザを食べたり、チョコクリスピーを食べた。
しばらくして、二子玉へと出かけた。
お祝いの品を買いたいということだったので、高島屋に行ったりツタヤ家電に行った。
子供たちは1ミクロも面白くなさそうだったので、かき氷を食べさせた。ひとつ800円くらいする代物。確かに普通のシロップではなく、ガチな果物の味がするものではあったけど、子供たちは上手に食べることはできず、小さな器からこぼれ落ちた氷はあっという間にテーブルの上で溶けていった。
羽咲は本当に調子が悪いようでまったく食べなかったし、その後ベンチでずっと寝ていた。
H&Mで理子の服を買った。ワンピースのひらひらした服を、プリンセスと呼び、それを身につけたがるので、バリエーションを増やしたかったのだ。へたに選ぶと確実にだれかとかぶるので、慎重に選ぶ。ピンクと白のストライプのノースリーブワンピースを発見し、それを理子の背中にあててみると、本人も気に入ったようだったので買うことにした。700円の値段がついていて、レジに持っていくと600円になった。
一通り買い物が終わって、家に戻ることにした。
家に戻ると、嘘のように羽咲は元気になった。笑顔で溢れている。どういうわけなんだろうか。
僕はなんだか疲れてきていたので、一番奥の部屋で横になってユーチューブでフジロックを見ていた。すごい時代になったものだ。
アンダーソンパークが良かった。オフホワイトのスニーカーを履いていた。
僕はそれを見ながらいつのまにか寝てしまっていたらしい。「帰るって!」という花さんの声で起きた。
いよいよオカンの帰沼である。理子は号泣している。
3姉妹たちといくら泣かして泣かされても、楽しいことには変わりないわけだ。
駐車場まで荷物を運び、玲ちゃんも花さんも見送ってくれた。
車が見えなくなるまで手を振り続ける。台風とともにきて、ともに去っていった彼ら。
僕らはついに4人での生活が始まった。
部屋に戻るととても静かだった。
理子は三姉妹と遊べることに一喜一憂しつつも、ばあばが沼津に帰ってしまうことも理解していた。そのことで涙を流してすらいた。
前日までのニュースでは、台風の進路が絶妙であったけれど、彼らは無事にやってきた。
一家5人が移動するのは容易なことではなく、大荷物を抱えていた。
家についてしばらくすると、風が強くなり、雨が降り出し、やがて大嵐となった。じつにタイミングが良い。
姪っ子たちはプリキュアを知らずに育っているので、理子がユーチューブや録画したそれを見ながらダンスレッスンし、また、それに興味のない子たちは、各々理子のおもちゃを使って適当に遊んでいる。
どうしてそれで?と思うような幼児用の単純なおもちゃを、ただただループしてやっていたりする。
玲ちゃんはうるさくなった部屋でもおとなしく寝ている。理子が生まれた頃は少しでも音を立てないようにと忍びのように暮らしていたのは意味がなかったのかもしれない。
雨脚は弱まったり強くなったりを繰り返していた。そんな中、おかんとりえちゃんがコンビニへ行き、飲み物や食料を調達してきた。その時はほぼ雨が止んでいて、家に帰ってきたと思ったらまた降り出した。タイミングの良い人たちである。
しかしあれだ。姪っ子たちは階下に気を使うということを知らずに生きている。部屋の下に誰かが住んでいるということがわからないから、平気で全体重を使って床をドンドンするし、ドタドタ走るし、とにかくやってほしくないことをイチイチする生き物たちだった。
たったの一泊二日のうち僕はいったい何回マジなトーンで怒ったかわからぬ。なんでそういうこと思いつくかなということをさらっとやり、こちらが怒れば怒るほど新しいおもちゃが手に入ったかのように暴れる。
静かにさせようと暗いクローゼットに入れると、キャーと言って喜ぶし、この酷暑の中、エアコンをつけているとはいえまずいと思ってそこから出そうとすると、今度は出てこない。つまりは全てが大人の意図とずれまくっている。
当たり前だけど、昼寝などしなかった。フルスロットル。マスタングAゴーゴーだ。5分に一度誰かが泣いて、大嫌いと罵り合っても数分後にはまた笑顔で遊んでいた。
花さんと玲ちゃんは外に出られないのだけど、その他の8人が食事をするのに外へ行こうともともとは思っていたのだけど、それができるような天候ではなかった。
仕方がないので、ピザをデリバリーしてもらうことにした。Lサイズを2つ頼んだけれど、子供たちはあまり食べなかった。ピザだぞ。きみたちはいったい何だったら食べるのだ?
お風呂に入るのも一苦労であった。当たり前だけどみんなで入りたいと言い出す子供たち。つまり4人だ。僕はまず一番手のかかる三番目から着手し、一人一人風呂の外へ出していった。一番上の羽咲はさすがは小学生。自分で洗い、自分で出て行った。
浴槽のお湯は心なしかもう濁っていた。
風呂が終わると眠るわけだが、誰と寝る、どこで寝るという一悶着がやはりあって、誰かが泣いて、誰かが怒られて、1日の最後はぐずぐずの中終わるのだった。
いつかはこの渦の中に玲ちゃんも加わるのだろうか。ゆっくり大きくなってくれよ、と
思わざるをえない。
翌日、天気は回復していたけれど、羽咲は調子が悪いようで熱を出していた。
朝食は前日の残りのピザを食べたり、チョコクリスピーを食べた。
しばらくして、二子玉へと出かけた。
お祝いの品を買いたいということだったので、高島屋に行ったりツタヤ家電に行った。
子供たちは1ミクロも面白くなさそうだったので、かき氷を食べさせた。ひとつ800円くらいする代物。確かに普通のシロップではなく、ガチな果物の味がするものではあったけど、子供たちは上手に食べることはできず、小さな器からこぼれ落ちた氷はあっという間にテーブルの上で溶けていった。
羽咲は本当に調子が悪いようでまったく食べなかったし、その後ベンチでずっと寝ていた。
H&Mで理子の服を買った。ワンピースのひらひらした服を、プリンセスと呼び、それを身につけたがるので、バリエーションを増やしたかったのだ。へたに選ぶと確実にだれかとかぶるので、慎重に選ぶ。ピンクと白のストライプのノースリーブワンピースを発見し、それを理子の背中にあててみると、本人も気に入ったようだったので買うことにした。700円の値段がついていて、レジに持っていくと600円になった。
一通り買い物が終わって、家に戻ることにした。
家に戻ると、嘘のように羽咲は元気になった。笑顔で溢れている。どういうわけなんだろうか。
僕はなんだか疲れてきていたので、一番奥の部屋で横になってユーチューブでフジロックを見ていた。すごい時代になったものだ。
アンダーソンパークが良かった。オフホワイトのスニーカーを履いていた。
僕はそれを見ながらいつのまにか寝てしまっていたらしい。「帰るって!」という花さんの声で起きた。
いよいよオカンの帰沼である。理子は号泣している。
3姉妹たちといくら泣かして泣かされても、楽しいことには変わりないわけだ。
駐車場まで荷物を運び、玲ちゃんも花さんも見送ってくれた。
車が見えなくなるまで手を振り続ける。台風とともにきて、ともに去っていった彼ら。
僕らはついに4人での生活が始まった。
部屋に戻るととても静かだった。
2018年7月26日木曜日
理子ファースト
「4歳 長女 次女 生まれる」
とりあえずグーグル先生に上記の言葉を入力する。
理子は昼間はいい子なのだけど、睡眠時だけが異様になる。そういった人たちの経験談を探してみる。
通勤時間の30分、昼食時など、とりあえず眺めまわしたところ、答えがわかった気がした。
それはつまり「まだ生まれて4年しか経ってないのです。まだ赤ちゃんなんです」ということであった。れいちゃんが生まれる前のときのように、「理子が一番。」という姿勢を強調することに尽きるようだった。
そういったわけで、僕は帰宅するなり、まず「理子ただいま」「理子理子理子ー!」となった。とにかく理子の近くにいて、理子を抱きしめ、理子への愛を言葉にして伝えた。
すると笑顔の数も増えた。これはいける!と思い、「じゃあ今日はパパとお風呂入ろうか?」というとそっけなく「ばあばと入る」という。
それはそれで構わぬ。
理子が母と風呂に入っている間にれいちゃんとの親睦を図る私。オムツを替えた途端にまたうんちをする。へその緒はまだついたままで、少し血のようなものが見える。オムツに当たっていたそうである。
今のところれいちゃんは、母乳だけで生きているので、お腹が空いたようなそぶりを見せたら花さんにバトンタッチした。
ばあばと理子が出てきて、我々も風呂を済ませると、寝床をつくる。
相変わらず入眠までは時間がかかるけれど、この日は夜中に目を覚ますことはなかった。作戦成功であった。
理子ファースト。
我々はこれを肝に銘じて日々を過ごすことにした。
とりあえずグーグル先生に上記の言葉を入力する。
理子は昼間はいい子なのだけど、睡眠時だけが異様になる。そういった人たちの経験談を探してみる。
通勤時間の30分、昼食時など、とりあえず眺めまわしたところ、答えがわかった気がした。
それはつまり「まだ生まれて4年しか経ってないのです。まだ赤ちゃんなんです」ということであった。れいちゃんが生まれる前のときのように、「理子が一番。」という姿勢を強調することに尽きるようだった。
そういったわけで、僕は帰宅するなり、まず「理子ただいま」「理子理子理子ー!」となった。とにかく理子の近くにいて、理子を抱きしめ、理子への愛を言葉にして伝えた。
すると笑顔の数も増えた。これはいける!と思い、「じゃあ今日はパパとお風呂入ろうか?」というとそっけなく「ばあばと入る」という。
それはそれで構わぬ。
理子が母と風呂に入っている間にれいちゃんとの親睦を図る私。オムツを替えた途端にまたうんちをする。へその緒はまだついたままで、少し血のようなものが見える。オムツに当たっていたそうである。
今のところれいちゃんは、母乳だけで生きているので、お腹が空いたようなそぶりを見せたら花さんにバトンタッチした。
ばあばと理子が出てきて、我々も風呂を済ませると、寝床をつくる。
相変わらず入眠までは時間がかかるけれど、この日は夜中に目を覚ますことはなかった。作戦成功であった。
理子ファースト。
我々はこれを肝に銘じて日々を過ごすことにした。
2018年7月23日月曜日
日曜日
日曜日の朝は静かだった。理子がいないのである。布団に対して自分の体を大きく広げて寝られる幸せを噛み締める。
夜のうちにタイマーをかけておいた洗濯機はまだ稼働していなかった。朝の5時である。僕は一度スイッチを切り、予約を解除してからまた洗濯機のスイッチを押した。
洗濯が終わるまで、プリキュアではなく、朝の情報番組を見る。2、3年前はこんな感じだったなと思いながら、お気に入りのアイスコーヒーを飲む。
洗濯を終えるブザーが鳴ると、ベランダで洗濯物を干した。いつもより洗濯物が少ない。理子の分がないのだ。
花さんとれいちゃんが起きてくる。れいちゃんは朝のおっぱいを飲んだら眠りにつく。そしてうんちをして、また眠りにつく。腹圧が強いのか、れいちゃんのおならは立派だ。
お昼。
ソーメンを茹で終わったあとに、めんつゆがないことに気がついた。仕方がないのでごましゃぶのたれを使って昼食とした。
お昼を食べて少ししてから、沼津に帰っていたおかんと理子を迎えに品川へ行くことにする。リビングの扉を開けるとそこはもう熱帯雨林気候。自分の体に不快という名の湿気がまとわりつく。花さんはもうここでよいと言って制して、リビングのドアを閉め、家を出た。
こころなしか外を歩いている人は少ないようだ。電車に乗っても然りだった。
大井町線に乗って品川へ。コンビニで買ったお茶はもうぬるくなっていた。
品川駅に着くと、ここは人でごった返していた。なにもこんな時季に日本に来なくても、と外国人旅行者を見て思う。しかし日本から四季はなくなってしまったようなものだからいつ来ても同じようなものなのかもしれない。寒いときはクソ寒く、暑いときはクソ暑い。
新幹線の改札で待ち合わせしようかと思ったのだけど、到着まで少し時間があったので、せっかくだからホームまで行くことにした。見送り用の切符を買い、東京駅方面のホームへ。品川から東京は一駅だから、ホームで待っている人はいなかった。
ベンチに座って到着を待った。
しばらくすると、アナウンスとともに新幹線がホームへと滑り込んできた。ぞろぞろと降りてくる乗客のなかに、母と理子の姿を探した。
新幹線がまた走り出した時、左手に二人の姿を見つけた。僕がそちらのほうへと歩いて行くと、理子も僕に気がついたようだった。「パパー!」と言って全力で走ってくる。
僕も近づいていき、膝をつき、力一杯抱きしめた。
「おかえり!楽しかったか?」と聞くと理子は笑顔でそれに答えてくれた。
母には「甘やかして困るわ」と言われても抱っこして歩いた。普段とは違うシャンプーの香りに、理子が自分とは離れたところにいたんだなと感じた。
親と離れて過ごすのはまったくの初めてのことだったのだ。
来た道を逆に行き、家まで帰った。
家に着くと数日ぶりに会うママに甘える理子。
れいちゃんにも理子なりに優しく接し、変わりなくいたのだけど、夜になると一変する。とにかく寝ないのである。絵本を2冊読んで、これでおしまいねと言っても自分で電気をつけたり消したりする。
いきなり立ち上がってみたり、足をバタバタしたりして、一つの部屋で寝ているれいちゃんの身の危険を感じてしまう。
こういったとき、思わず、弱者のれいちゃんを優先してしまい、理子を叱ってしまうのだけど、それに比例してヒートアップしてしまう。
ようやく寝たかと思えば2時頃に唐突に叫び出す。
「ヤダヤダヤダー」とのたうちまわる。手足をバタバタさせて全身で不満を訴えている。
目は閉じているのだけどとにかくヤダヤダという。
当然僕も花さんも起きて、二人がかりでなだめるのだけど、本人もどういったわけでそう暴れているのか、理解しているとも思えない。
10分以上そんなことが続き、スイッチが切れたようにまた眠りにつく。
ググれば色々なことが書いていあるのだけど、結局十人十色。色々な体験談から自分に近しいものを選んで納得するしかない。
朝、起きしな理子にはっきりとした口調で言われる。「パパどうしてここに足があるのよ。パパ嫌い」
悪夢は現実でも続いている。しかたがなく僕はまた眠りについた。
夜のうちにタイマーをかけておいた洗濯機はまだ稼働していなかった。朝の5時である。僕は一度スイッチを切り、予約を解除してからまた洗濯機のスイッチを押した。
洗濯が終わるまで、プリキュアではなく、朝の情報番組を見る。2、3年前はこんな感じだったなと思いながら、お気に入りのアイスコーヒーを飲む。
洗濯を終えるブザーが鳴ると、ベランダで洗濯物を干した。いつもより洗濯物が少ない。理子の分がないのだ。
花さんとれいちゃんが起きてくる。れいちゃんは朝のおっぱいを飲んだら眠りにつく。そしてうんちをして、また眠りにつく。腹圧が強いのか、れいちゃんのおならは立派だ。
お昼。
ソーメンを茹で終わったあとに、めんつゆがないことに気がついた。仕方がないのでごましゃぶのたれを使って昼食とした。
お昼を食べて少ししてから、沼津に帰っていたおかんと理子を迎えに品川へ行くことにする。リビングの扉を開けるとそこはもう熱帯雨林気候。自分の体に不快という名の湿気がまとわりつく。花さんはもうここでよいと言って制して、リビングのドアを閉め、家を出た。
こころなしか外を歩いている人は少ないようだ。電車に乗っても然りだった。
大井町線に乗って品川へ。コンビニで買ったお茶はもうぬるくなっていた。
品川駅に着くと、ここは人でごった返していた。なにもこんな時季に日本に来なくても、と外国人旅行者を見て思う。しかし日本から四季はなくなってしまったようなものだからいつ来ても同じようなものなのかもしれない。寒いときはクソ寒く、暑いときはクソ暑い。
新幹線の改札で待ち合わせしようかと思ったのだけど、到着まで少し時間があったので、せっかくだからホームまで行くことにした。見送り用の切符を買い、東京駅方面のホームへ。品川から東京は一駅だから、ホームで待っている人はいなかった。
ベンチに座って到着を待った。
しばらくすると、アナウンスとともに新幹線がホームへと滑り込んできた。ぞろぞろと降りてくる乗客のなかに、母と理子の姿を探した。
新幹線がまた走り出した時、左手に二人の姿を見つけた。僕がそちらのほうへと歩いて行くと、理子も僕に気がついたようだった。「パパー!」と言って全力で走ってくる。
僕も近づいていき、膝をつき、力一杯抱きしめた。
「おかえり!楽しかったか?」と聞くと理子は笑顔でそれに答えてくれた。
母には「甘やかして困るわ」と言われても抱っこして歩いた。普段とは違うシャンプーの香りに、理子が自分とは離れたところにいたんだなと感じた。
親と離れて過ごすのはまったくの初めてのことだったのだ。
来た道を逆に行き、家まで帰った。
家に着くと数日ぶりに会うママに甘える理子。
れいちゃんにも理子なりに優しく接し、変わりなくいたのだけど、夜になると一変する。とにかく寝ないのである。絵本を2冊読んで、これでおしまいねと言っても自分で電気をつけたり消したりする。
いきなり立ち上がってみたり、足をバタバタしたりして、一つの部屋で寝ているれいちゃんの身の危険を感じてしまう。
こういったとき、思わず、弱者のれいちゃんを優先してしまい、理子を叱ってしまうのだけど、それに比例してヒートアップしてしまう。
ようやく寝たかと思えば2時頃に唐突に叫び出す。
「ヤダヤダヤダー」とのたうちまわる。手足をバタバタさせて全身で不満を訴えている。
目は閉じているのだけどとにかくヤダヤダという。
当然僕も花さんも起きて、二人がかりでなだめるのだけど、本人もどういったわけでそう暴れているのか、理解しているとも思えない。
10分以上そんなことが続き、スイッチが切れたようにまた眠りにつく。
ググれば色々なことが書いていあるのだけど、結局十人十色。色々な体験談から自分に近しいものを選んで納得するしかない。
朝、起きしな理子にはっきりとした口調で言われる。「パパどうしてここに足があるのよ。パパ嫌い」
悪夢は現実でも続いている。しかたがなく僕はまた眠りについた。
2018年7月22日日曜日
7月22日
陣痛促進剤をいれ、痛みが出てきたタイミングで背中に麻酔を入れる管を入れる。そして胎児の心音を常時測定できるようにセットした。
これが今回の出産の肝であった。
なにが誘発させたのかはわからないけれど、胎児の心拍が弱まって行ってしまったのは、胎盤の一部が剥がれかかったことが原因だったようだ。
もしかしたら、そもそも陣痛促進剤を入れなかったら、こういった事態は起きなかったのかもしれないけれど、なにが正解だった、なんてもはや関係なく、結果が全てだった。
胎児の心拍が低下した兆候が見られてから帝王切開の決定、施術に至るまで、実に30分ほど。もし、金曜に入院していたら、花さんが痛みを我慢していたら、胎児の心拍低下などにだれも気づかず、大事になっていたかもしれない。
れいちゃんが生まれて1週間が経った。
初日のうんちは黒かった。こういってはなんだけど、タールみたいに見えた。2日目のうんちも同様だった。それから、緑色、黄色と変わっていった。
体に対してオムツがまだまだ大きい。履かせるタイプではなく、マジックテープを前で合わせるオムツの扱いが懐かしい。
理子は毎夜ヒートアップしたテンションを抑えることができずにいた。そんな中、姪っ子の保育園で行われる祭の準備のため、おかんは理子を連れて金曜日に沼津へと帰って行った。理子は意外にもあっさりママとバイバイしたらしい。
初日のうんちは黒かった。こういってはなんだけど、タールみたいに見えた。2日目のうんちも同様だった。それから、緑色、黄色と変わっていった。
体に対してオムツがまだまだ大きい。履かせるタイプではなく、マジックテープを前で合わせるオムツの扱いが懐かしい。
理子は毎夜ヒートアップしたテンションを抑えることができずにいた。そんな中、姪っ子の保育園で行われる祭の準備のため、おかんは理子を連れて金曜日に沼津へと帰って行った。理子は意外にもあっさりママとバイバイしたらしい。
花さんは腹を切っても、4日での退院は変わらず、痛みがあるなか理子の16キロの巨体と向き合わなくてはならず、体への負担があった。
そんな中、おかんは気を使ってくれたものと思われる。
本当に家族の協力は絶大だ。
理子がいないと部屋は静かだ。
まず、プリキュアがテレビに映っていない。
我が家にもたらされた静けさの代償はもちろん実家で披露されているようだ。3姉妹のなかに放り込まれた理子。想像を絶する無秩序ワールド。
れいちゃんは、まだ基本的に寝ている時間が長い。おっぱいを飲み、うんちをし、寝る。それを繰り返している。理子がまだ生まれて間もない頃、「意外と赤ちゃんは寝てばかりで静かなもんだ」と思っていたけれど、数ヶ月もするとその認識は間違っていたということに気がついた。今回もそうなるだろうから、この平和を鵜呑みにしてはならない。
今年の暑さは異常だ。エアコンをつけて寝ないととてもじゃないけれどいられない。
2週間検診を控える花さんにはタクシーで病院まで行ってくれ、と打診した。
2018年7月17日火曜日
長子の葛藤
夜中に理子はうなされている。ママは会いに行ける距離にいるのに、家に帰ってこないことが理解できていないということのようだ。
それと夜中の寝苦しさもある。エアコンはタイマーで3時間セットしているけれど、ちょうどタイマーが切れる頃にもぞもぞとしている。そして起きてしまう。「ママ、ママー」と叫ぶ。暴れる。
最近は体が成長してきたために、蹴り上げられると結構痛い。だから必死になだめる。
そのうちに、口で言ってなだめるよりも、エアコンをさっさとつけて室温を下げたほうが寝ることに気がつく。もう日本の気候は変わってしまったと認めざるをえない。世代的なのか、生まれた地域性なのか、僕はエアコンを使うことが悪のように染み付いてしまっている。初めて住んだ東中野のワンルームには、エアコンは付いていたけれど、ほぼ使わなかった気がする。
しかしもう時代は変わってしまった。そして気候すらも変わった。エアコンは使わなくてはならない。
朝、起きてパンを食べる。理子は一枚を食べきることができないでいる。
父はテレビの一週間まるごと録画にいたく感動している。そして地上波で放送していたジュラシックワールドを見て、理子に非難されている。
昼ごはんは母が懐かしい味のする焼き飯をつくってくれた。特別な何かをしているわけでもないのだろうけど、僕が作るそれとは違って、きちんと昔から作ってくれていた母の味がする。
ご飯を食べ終えると、父が運転する車で病院へと行く。昨日とは違う顔のれいちゃん。だんだん皮膚の色が変わって、表情に落ち着きが出てくる。まだなかなか目を開けてはくれない。花さんに聞くと昼間は寝ていることが多いのだけど、夜中に起きているようだった。
しばらくすると、花さんのお父さんがくる。どうやら駅から歩いてきたらしく汗びっしょりだった。父親同士はかなり久々に会ったんじゃないかと思う。理子の100日のお祝いの時だったか。孫きっかけで親同士が顔をあわせるのはいいことだと思う。
しかし父親同士というのは照れ臭いのか、あまり言葉をかわすこともなく、帰って行った。うちの父はれいちゃんを抱っこしてから帰ったのは意外だった。
理子はれいちゃんの世話をしようとするのだけど、どうしていいのかわからないといったふうだ。メルちゃんとは違うから仕方がない。けれど一生懸命さは伝わって来る。
うまくいかないことで嫌気がさしたのか、花さんのiPhoneでユーチューブを見はじめてしまった。
理子にとっては花さんに甘えたいけどなかなかそれも出来ず、なにかお世話をしようとすると止められるし、ふて寝してしまった。我々は理子をベビーカーに乗せて歩いて帰った。
それと夜中の寝苦しさもある。エアコンはタイマーで3時間セットしているけれど、ちょうどタイマーが切れる頃にもぞもぞとしている。そして起きてしまう。「ママ、ママー」と叫ぶ。暴れる。
最近は体が成長してきたために、蹴り上げられると結構痛い。だから必死になだめる。
そのうちに、口で言ってなだめるよりも、エアコンをさっさとつけて室温を下げたほうが寝ることに気がつく。もう日本の気候は変わってしまったと認めざるをえない。世代的なのか、生まれた地域性なのか、僕はエアコンを使うことが悪のように染み付いてしまっている。初めて住んだ東中野のワンルームには、エアコンは付いていたけれど、ほぼ使わなかった気がする。
しかしもう時代は変わってしまった。そして気候すらも変わった。エアコンは使わなくてはならない。
朝、起きてパンを食べる。理子は一枚を食べきることができないでいる。
父はテレビの一週間まるごと録画にいたく感動している。そして地上波で放送していたジュラシックワールドを見て、理子に非難されている。
昼ごはんは母が懐かしい味のする焼き飯をつくってくれた。特別な何かをしているわけでもないのだろうけど、僕が作るそれとは違って、きちんと昔から作ってくれていた母の味がする。
ご飯を食べ終えると、父が運転する車で病院へと行く。昨日とは違う顔のれいちゃん。だんだん皮膚の色が変わって、表情に落ち着きが出てくる。まだなかなか目を開けてはくれない。花さんに聞くと昼間は寝ていることが多いのだけど、夜中に起きているようだった。
しばらくすると、花さんのお父さんがくる。どうやら駅から歩いてきたらしく汗びっしょりだった。父親同士はかなり久々に会ったんじゃないかと思う。理子の100日のお祝いの時だったか。孫きっかけで親同士が顔をあわせるのはいいことだと思う。
しかし父親同士というのは照れ臭いのか、あまり言葉をかわすこともなく、帰って行った。うちの父はれいちゃんを抱っこしてから帰ったのは意外だった。
理子はれいちゃんの世話をしようとするのだけど、どうしていいのかわからないといったふうだ。メルちゃんとは違うから仕方がない。けれど一生懸命さは伝わって来る。
うまくいかないことで嫌気がさしたのか、花さんのiPhoneでユーチューブを見はじめてしまった。
理子にとっては花さんに甘えたいけどなかなかそれも出来ず、なにかお世話をしようとすると止められるし、ふて寝してしまった。我々は理子をベビーカーに乗せて歩いて帰った。
2018年7月16日月曜日
続・家族
深夜の出産劇から、タクシーに乗って自宅に帰った。結局4時くらいに寝たんだと思う。頭が妙に冴えてるのに体がついていかないといったふうだ。僕たちの木曜日がようやく終わった。
寝たのも朝方ではあるけれど、起きたのも朝方だった。6時前に母親からの電話が鳴ったのである。やはりマナーモードは解除してあったので、フル音量で着信したのであった。
僕は昨夜、「帝王切開になった、今タクシーにのって病院に向かっている」というメールを母親に送ったきり、そのあと連絡をしていなかったから、それを朝起きて見て、びっくりして電話をしてきたのだと思われた。
ことの顛末を寝ぼけながら話をした。それに納得したのかどうかはわからないけれど、花さんもれいちゃんも無事ということは理解したようだ。
電話を切ったあと、再び眠ることはできなかった。人に話したことによって、あれは現実だったんだなと改めて実感したところもある。
しばらくすると、理子がうなされて起きた。エアコンが切れて部屋が暑くなったこともあるし、おそらく昨夜の様々な出来事がフラッシュバックしたのだと思われる。うなされながらママ、ママと叫んでいた。
エアコンをつけるとまたすーっと眠ったのだけど、体がとても熱い。昨日体調が悪そうだったこともあり、また起きたタイミングで午前中の間に小児科に行くことにした。
午後には僕の両親が来ることになっていたので、布団の準備をしたり、掃除をした。そのうち理子は起きてきたのだけど、機嫌が悪い。
「朝ごはんはなにを食べる?」と聞くと、「いらない」と思春期の輩みたいなことを言う。「パンにチョコレート塗る?」と言っても「いらない、お茶漬けがいい」と言う。
あいにくご飯のストックはなかったので、早炊きモードでご飯を炊くことにした。
炊けるまでの間、プリキュアの録画を見ているとだんだん機嫌が直ってきた。
30分後くらいにご飯が炊け、いざお茶漬けを出しても案の定食べない。
半分も食べずに「もういらない」という。仕方がないのでもうご飯を食べさせるのは諦めて自分が食べた。茶碗のなかでアンパンマンの顔がむなしく浮かんでいる。濡れてちゃ力も出ないだろう。
11時半頃ベビーカーで小児科まで行った。12時に閉まるので道を急いだ。
焼けるようなアスファルト。ベビーカーで感じる気温は大人以上だと思われる。
小児科に着くと患者は誰もおらず、診察券を出すとすぐに診察室に通された。
診てもらってもとくに特化して悪いところもなく、ホクナリンテープと、熱をさますシロップを処方してもらった。
向かいの薬局で薬を受け取り、駅前のスーパーで買い物をして帰った。
焼きそばを作って食べると、支度をしてママのいる病院へと向かった。早くママのところに行きたいと理子がいうのだった。
しかしいざバスで向かおうとすると、理子は歩かなかった。そして抱っこしてバスを待っている間に眠ってしまった。やはり体が疲弊しているようだ。
16キロの体を抱っこし、バスから降りると、炎天下の中日陰のない道を歩いた。
病院に入ると受付をし、手の消毒をした。待合室にいた人たちが一斉にこちらを見ている視線を感じた。1階が診察室で2階が入院している部屋だったので、階段を上がるのだけど背中にも視線を感じる。待合室にいる人たちはこれから産む人達なわけで、興味深かったのかと思われる。
花さんの部屋に入る。れいちゃんが透明なケースのなかですやすやと寝ている。
昨夜は暗がりの部屋の中でしか姿を見ていなかった。改めて明るい部屋の中で対面すると、出産してまだ10時間程度しか経っていないため、まだ皮膚が赤紫といったふう。
「れいちゃん、パパだよ、お姉ちゃんもいるよ」などと声を掛ける。
花さんは少しは眠ることができているようで、元気そうだった。
しかしながら一月前くらいから続いている手足のむくみはまだ解消されていない。
昨夜は看護師さんに手渡された、という形で抱っこをしただけだったので、ベッドに寝ているれいちゃんを改めて抱っこすることにした。
しかし4年近く前のあの感覚はもう忘れてしまった。なにもかもおぼつかないぎこちなさだった。本当に2児の父なのか?といった感じだった。
その後16時過ぎに、僕の両親がやってきた。彼らにとっては5人目の孫である。しかも全員女なのだ。
父親はビデオカメラで記録することをやめ、ソニーのデジカメで5人目を記録している。
映像は編集しないといけないから、またカメラ自体が重いからだという。
僕も記録する。こうやって家族が集まって無事に新しい家族を迎えられることを幸せに思う。
花さんが疲れてしまう前に帰ることにする。
両親は車で来ていたので、車で家まで帰り、家の近所の串カツ田中でご飯をたべた。この店の客層は家族づれが多く、安心してくることができる。最近全席禁煙になったのもうれしい限りだった。
久々に居酒屋に行き、両親と酒を飲みながら過ごせるというのもいいものだった。
家に帰ると理子はばあばとお風呂に入り、ばあばと寝た。
僕にとっても、理子にとっても、もちろん花さんにとっても、ものすごく長い長い1日が終わった。
寝たのも朝方ではあるけれど、起きたのも朝方だった。6時前に母親からの電話が鳴ったのである。やはりマナーモードは解除してあったので、フル音量で着信したのであった。
僕は昨夜、「帝王切開になった、今タクシーにのって病院に向かっている」というメールを母親に送ったきり、そのあと連絡をしていなかったから、それを朝起きて見て、びっくりして電話をしてきたのだと思われた。
ことの顛末を寝ぼけながら話をした。それに納得したのかどうかはわからないけれど、花さんもれいちゃんも無事ということは理解したようだ。
電話を切ったあと、再び眠ることはできなかった。人に話したことによって、あれは現実だったんだなと改めて実感したところもある。
しばらくすると、理子がうなされて起きた。エアコンが切れて部屋が暑くなったこともあるし、おそらく昨夜の様々な出来事がフラッシュバックしたのだと思われる。うなされながらママ、ママと叫んでいた。
エアコンをつけるとまたすーっと眠ったのだけど、体がとても熱い。昨日体調が悪そうだったこともあり、また起きたタイミングで午前中の間に小児科に行くことにした。
午後には僕の両親が来ることになっていたので、布団の準備をしたり、掃除をした。そのうち理子は起きてきたのだけど、機嫌が悪い。
「朝ごはんはなにを食べる?」と聞くと、「いらない」と思春期の輩みたいなことを言う。「パンにチョコレート塗る?」と言っても「いらない、お茶漬けがいい」と言う。
あいにくご飯のストックはなかったので、早炊きモードでご飯を炊くことにした。
炊けるまでの間、プリキュアの録画を見ているとだんだん機嫌が直ってきた。
30分後くらいにご飯が炊け、いざお茶漬けを出しても案の定食べない。
半分も食べずに「もういらない」という。仕方がないのでもうご飯を食べさせるのは諦めて自分が食べた。茶碗のなかでアンパンマンの顔がむなしく浮かんでいる。濡れてちゃ力も出ないだろう。
11時半頃ベビーカーで小児科まで行った。12時に閉まるので道を急いだ。
焼けるようなアスファルト。ベビーカーで感じる気温は大人以上だと思われる。
小児科に着くと患者は誰もおらず、診察券を出すとすぐに診察室に通された。
診てもらってもとくに特化して悪いところもなく、ホクナリンテープと、熱をさますシロップを処方してもらった。
向かいの薬局で薬を受け取り、駅前のスーパーで買い物をして帰った。
焼きそばを作って食べると、支度をしてママのいる病院へと向かった。早くママのところに行きたいと理子がいうのだった。
しかしいざバスで向かおうとすると、理子は歩かなかった。そして抱っこしてバスを待っている間に眠ってしまった。やはり体が疲弊しているようだ。
16キロの体を抱っこし、バスから降りると、炎天下の中日陰のない道を歩いた。
病院に入ると受付をし、手の消毒をした。待合室にいた人たちが一斉にこちらを見ている視線を感じた。1階が診察室で2階が入院している部屋だったので、階段を上がるのだけど背中にも視線を感じる。待合室にいる人たちはこれから産む人達なわけで、興味深かったのかと思われる。
花さんの部屋に入る。れいちゃんが透明なケースのなかですやすやと寝ている。
昨夜は暗がりの部屋の中でしか姿を見ていなかった。改めて明るい部屋の中で対面すると、出産してまだ10時間程度しか経っていないため、まだ皮膚が赤紫といったふう。
「れいちゃん、パパだよ、お姉ちゃんもいるよ」などと声を掛ける。
花さんは少しは眠ることができているようで、元気そうだった。
しかしながら一月前くらいから続いている手足のむくみはまだ解消されていない。
昨夜は看護師さんに手渡された、という形で抱っこをしただけだったので、ベッドに寝ているれいちゃんを改めて抱っこすることにした。
しかし4年近く前のあの感覚はもう忘れてしまった。なにもかもおぼつかないぎこちなさだった。本当に2児の父なのか?といった感じだった。
その後16時過ぎに、僕の両親がやってきた。彼らにとっては5人目の孫である。しかも全員女なのだ。
父親はビデオカメラで記録することをやめ、ソニーのデジカメで5人目を記録している。
映像は編集しないといけないから、またカメラ自体が重いからだという。
僕も記録する。こうやって家族が集まって無事に新しい家族を迎えられることを幸せに思う。
花さんが疲れてしまう前に帰ることにする。
両親は車で来ていたので、車で家まで帰り、家の近所の串カツ田中でご飯をたべた。この店の客層は家族づれが多く、安心してくることができる。最近全席禁煙になったのもうれしい限りだった。
久々に居酒屋に行き、両親と酒を飲みながら過ごせるというのもいいものだった。
家に帰ると理子はばあばとお風呂に入り、ばあばと寝た。
僕にとっても、理子にとっても、もちろん花さんにとっても、ものすごく長い長い1日が終わった。
2018年7月14日土曜日
前夜
出産を確実に、翌日に控えているという時点で、理子の出産の時とは全く違うんだよな、と電車に揺られながら考えていた。
花さんは今日の午後に入院し、明日の出産の準備をしていた。
その出産方法によってこうも理子の時と違うのだなと思い、また二人目だからということもあり、さらには日常で理子の世話をしていて忙しないから、という色々なことが相まって、明日出産を迎えているというリアリティがどこか遠い。
誇張でなく日に日に大きくなっていった花さんのお腹。そのお腹にそっと手を当てると、直前までは暴れまわっていたのに、なりをひそめる。理子はお腹の赤子に向かって「おねえちゃんだよ」と呼びかけ、その姿が愛らしかった。
毎週土曜日は定点観測を行なった。大きくなったなと思ってたあの頃の腹も、今の腹に比べればまだまだだったな、と振り返ってみてみるとおもう。
理子が生まれた病院とは違うところにしたのだけど、そこでは4Dエコーでも診察をしそれをプリントしてくれた。顔を見せてくれなかったね、といってまったくよく分からない姿のそれを見ても、どこか理子の顔に似てるねなどと言って花さんと笑って話した。
診察の帰り道、駅までのバスの時間が合わず、歩いて帰った日。理子はベビーカーに乗っていて、今度からは4人家族なんだなって実感した。
出産までの日が、一ヶ月、2週間、1週間と近づくにつれ、一つずつのことが3人ではなくなるんだなって、いつも以上に感傷的だ。
花さんは今日の午後に入院し、明日の出産の準備をしていた。
その出産方法によってこうも理子の時と違うのだなと思い、また二人目だからということもあり、さらには日常で理子の世話をしていて忙しないから、という色々なことが相まって、明日出産を迎えているというリアリティがどこか遠い。
誇張でなく日に日に大きくなっていった花さんのお腹。そのお腹にそっと手を当てると、直前までは暴れまわっていたのに、なりをひそめる。理子はお腹の赤子に向かって「おねえちゃんだよ」と呼びかけ、その姿が愛らしかった。
毎週土曜日は定点観測を行なった。大きくなったなと思ってたあの頃の腹も、今の腹に比べればまだまだだったな、と振り返ってみてみるとおもう。
理子が生まれた病院とは違うところにしたのだけど、そこでは4Dエコーでも診察をしそれをプリントしてくれた。顔を見せてくれなかったね、といってまったくよく分からない姿のそれを見ても、どこか理子の顔に似てるねなどと言って花さんと笑って話した。
診察の帰り道、駅までのバスの時間が合わず、歩いて帰った日。理子はベビーカーに乗っていて、今度からは4人家族なんだなって実感した。
出産までの日が、一ヶ月、2週間、1週間と近づくにつれ、一つずつのことが3人ではなくなるんだなって、いつも以上に感傷的だ。
7月13日
7月12日木曜日、花さんは入院した。その後、進捗をメールで送ってくれ、だんだんとその準備に向けていることが分かった。
理子を連れて家に帰り、食事の支度をした。20時だった。いつもは僕が帰ってくる19時頃には花さんが支度をしてくれた食事を食べていたわけだから、だいぶ遅い。
第二子をもし授かったら無痛分娩で、という思いが花さんにはあったようで、今回はそうすることにしていた。
また、それを実践している病院が近くにあった、ということも背中を押した一つの理由と言えた。
花さんの入院した部屋は個室で、送ってくれた写真を見てみたら、まるでホテルの夕食のようなものを食べさせてくれるようだった。翌日の出産に向けて思いを馳せているといった感じだった。
また、それを実践している病院が近くにあった、ということも背中を押した一つの理由と言えた。
花さんの入院した部屋は個室で、送ってくれた写真を見てみたら、まるでホテルの夕食のようなものを食べさせてくれるようだった。翌日の出産に向けて思いを馳せているといった感じだった。
僕は僕で、金曜日と翌週の火曜日に休みを取った穴埋めをするため、仕事を進めた。
ようやくなんとか先が見えた夕方、コンビニでおにぎりとサンドイッチを買って食べた。
18時過ぎに仕事を終え、保育園へと向かった。理子にとっては久々の延長保育だった。
理子を連れて家に帰り、食事の支度をした。20時だった。いつもは僕が帰ってくる19時頃には花さんが支度をしてくれた食事を食べていたわけだから、だいぶ遅い。
レトルトのハンバーグを食べたのだけど、理子は完食しなかった。咳も出ているし、体調が思わしくない。
食事が一区切りつくと、花さんから電話があった。理子は嬉しそうに話をしていた。
花さんは時折下腹部に痛みがあるようだった。
その後21時頃に風呂に入り、洗濯物干したりして22時半に布団に入った。結局寝付いたのは23時頃だったと思われる。
時同じくして、翌日に出産をするはずの花さんのお腹のなかでは様々な事態が起こっていたようだった。
陣痛が強まり、子宮口が5センチほど開いていて、かつ赤ちゃんの心拍が落ち始めていたようだった。
そして帝王切開が行われることが決定したとラインが入っていた。
なにかあった時のためにマナーモードは解除していたけれど、メールの着信音では気づくことはなかった。
まさに日付が変わった0時に電話が鳴った。100パーセントなにかが起こったことを伝える電話だ。文字どおり飛び起きた。
着信は花さんからだった。落ちついた口ぶりのなかにも緊迫感が伝わる、少し震えた声で、赤ちゃんの心拍が落ち帝王切開することになったと改めて花さんは言った。当然僕はラインを読んでいなかったので、寝起きの頭をフル回転させても理解ができずにいた。無痛分娩とは程遠い「帝王切開?どうして?」
とにかく早く来て欲しいと言われ、どれぐらいで来れるか、との質問に1時間以内には、と伝えた。いつもはバスで10分強くらいの距離。時間は深夜だからタクシーを配車し、理子を起こして行かねばならない。電話口の向こうではそれより先に生まれてしまうという助産師さんらしき人の声がする。
電話を切ると、とんでもないことが起きたと右往左往した。理子が生まれた時も、深夜に自宅で破水してバタバタしていたけれど、今回は離れたところで事態は起きていた。
まず理子を起こすために部屋の電気をつけ、自身も着替え、どういうわけか理子の着替えをカバンに突っ込み、ペットボトルのお茶とカメラを持った。
「れいちゃんに会いに行くぞ!」と理子にいうと意外なほど、さっと起きた。
アプリで配車したタクシーはあと10分で到着するということだったけど、気が気でないので家を飛び出した。理子を抱っこして外に出ると、ちょうど「迎車」のライトが灯ったタクシーがゆっくりとやってきた。
名前を確認され乗り込んだのだけど、小さな子供も一緒だったためか、運転手は少し動揺しているようだった。夜中の12時。子供はあきらかにパジャマを着ているのだ。
病院の住所を告げ、急いでください。と言った。
病院に行くいつもの道なのに今回は暗く、いちいち止まる信号にもどかしさを感じ、急いでくれって言ったじゃないかと理不尽なことを思ったりした。
病院に到着し1300円だと告げられると2000円を渡し「お釣りはいらないです」と口走っている僕がいた。460円の富士そばを昼飯に食べているような僕がどうしてそんなことを言ってしまったのか。運転手は「本当にいいんですか?」と聞き返すほどだった。
夜間インターホンを押すと名前を告げ中に入った。僕の声は震えていた。
静寂に包まれた病院の廊下や階段を、スニーカーがキュっと音を立てる。
ナースステーションには人はおらず、新生児室、分娩室にも人影は無かった。
本当にこの静けさのなかで手術が行われるのだろうか?と思った時、助産師らしき人影があった。僕は声をかけたけど、それは届かなかったようで、また足早にどこかへ消えていった。
静寂。
僕は訳も分からず受付や個室が並んでいる廊下を歩いてみた。そしてまた分娩室があるほうに行くと名前を呼ばれた。
緊急で手術が行われることを改めて告げられると、先ほどまで花さんがいたであろう分娩室に通された。ベッドの脇のテーブルには、見慣れた花さんの携帯が置かれていた。
ベッドのシーツには血痕があって、それが妙に静寂さを感じさせていた。
ここでお待ち下さい
と伝えられると、先ほどは耳に入ってこなかった金属音やモニターの何かを知らせる音などが聞こえ始めた。自分の感覚が体に戻ってきたようだ。しかしそれらは不気味なほどに、不吉なことを想起させた。目の前には血痕のついたベッドもあるのだ。
ソファに腰を下ろしたけど、背もたれに体を預けることなどできず、本当に色々なことを考えていた。
心拍が低下しているという言葉がもたらす破壊力はすさまじく「死」のイメージを直結させた。だから僕はもう随分前に亡くなったじいちゃんに「まだそっちに連れて行かないでくれ」と本当に何度もお願いした。こういう時、ポジティブに産後のことを考えるというよりも、とにかく花さんもれいちゃんも無事でいてほしい、そのことしか思えなくなる。
しばらくすると、理子は、今まで見たことのないような表情で僕の顔をじっと見つめてきた。よほど僕が頼りない顔をしていたんだろうなと思った。
「大丈夫だよね?」口には出さないけれど、そう聞かれているようだった。
いつも診察をしてくれていた先生が部屋に入ってきて説明をしてくれた。今から帝王切開します、大丈夫ですから待っていてくださいと彼は言った。
よろしくお願いしますと言ってからどれくらいの時間が経ったろうか。
いまさら帝王切開のことをネットで調べる気も起きず、ただただ誰かに祈っていた。ほぼ無宗教のように生きているのに虫のいい話だ思われても仕方がない。でもこういうときにすがる者があるのは安心するのだろうなと思った。
理子も眠たい目をこすりながら、この空気を感じ取っているようだった。静かに前をみていた。
赤ちゃんの泣き声がする。でもここは新生児室のすぐ近くだ。ある意味完全なる沈黙の状況の中ただひたすら扉が叩かれるのを待っていた。
そして「トントントン」と扉をノックする音がした。
助産師さんが「おめでとうございます、母子ともに無事ですよ」と教えてくれた。
それと同時に涙が出てきた。全身の力が抜けてへなへなになってしまった。
本当に良かった、本当に。
放心するなかありがとうございますと頭を下げた。
「ママがんばったよ、理子。もうすぐ会えるよ」と理子に伝えた。
本当に出産は千差万別だ。「絶対」がありえない。
ただ無事に生まれたことだけが事実として残った。
助産師さんは理子の顔をみると「お顔はお姉ちゃんにそっくりだよ」と教えてくれた。
しばらくして、先生からも説明があり、最後に「お姉ちゃんにそっくりですよ」と言った。
後々分かったのだけど0時28分に生まれたようだった。それは僕が病院に到着してほんとにすぐ後のことだった。体感的にはもっと後のことのように思えるのだけど、時間の流れが異質だったのかもしれない。
花さんは個室に戻っていた。僕と理子が部屋に入ると花さんは安心したのか涙を流していた。ほんとうに不安だったんだろうなと思った。心細いその瞬間に近くにいれなかったことを悔やんだ。
それを見て僕もまた涙が出てきた。部屋にはまだれいちゃんの姿はなく、色々と検診を受けているようだった。
お腹を切った後にもかかわらず、意外と意識がはっきりとしていてきちんと話すことができた。「ありがとう、お疲れ様。ほんとうに大変だったね」気の利いた言葉がなかなか出てこなかったけど、素直な気持ちだった。
そのうち助産師さんによってれいちゃんは連れてこられた。生まれたばかりの理子にそっくりなれいちゃんだ。ベッドで横になる花さんにそっと抱かれた。生まれたてってこんなに小さくて、こんなにかわいいんだったっけ?
4年ぶりの新生児の匂い。あまり泣くこともなく、でもまだ短いその腕を懸命にのばして母親に触れようとしている。
理子は少し離れたところで嬉しそうに見ていた。
保育園からの帰り道「明日れいちゃんに会えるけど、どんな気持ちがするの?」と理子に聞いたら、理子はすごく素直な言葉で「やさしい気持ち」と答えてくれた。
そんなやさしい気持ちで部屋は満たされていた。
ママに甘えたいけどそれをしていいのか分からずもぞもぞしているのも、きっと理子なりの優しい部分の表れなんだと思う。
花さん、ほんとうにありがとう、お疲れ様でした。
僕らは4人家族になった。
食事が一区切りつくと、花さんから電話があった。理子は嬉しそうに話をしていた。
花さんは時折下腹部に痛みがあるようだった。
その後21時頃に風呂に入り、洗濯物干したりして22時半に布団に入った。結局寝付いたのは23時頃だったと思われる。
時同じくして、翌日に出産をするはずの花さんのお腹のなかでは様々な事態が起こっていたようだった。
陣痛が強まり、子宮口が5センチほど開いていて、かつ赤ちゃんの心拍が落ち始めていたようだった。
そして帝王切開が行われることが決定したとラインが入っていた。
なにかあった時のためにマナーモードは解除していたけれど、メールの着信音では気づくことはなかった。
まさに日付が変わった0時に電話が鳴った。100パーセントなにかが起こったことを伝える電話だ。文字どおり飛び起きた。
着信は花さんからだった。落ちついた口ぶりのなかにも緊迫感が伝わる、少し震えた声で、赤ちゃんの心拍が落ち帝王切開することになったと改めて花さんは言った。当然僕はラインを読んでいなかったので、寝起きの頭をフル回転させても理解ができずにいた。無痛分娩とは程遠い「帝王切開?どうして?」
とにかく早く来て欲しいと言われ、どれぐらいで来れるか、との質問に1時間以内には、と伝えた。いつもはバスで10分強くらいの距離。時間は深夜だからタクシーを配車し、理子を起こして行かねばならない。電話口の向こうではそれより先に生まれてしまうという助産師さんらしき人の声がする。
電話を切ると、とんでもないことが起きたと右往左往した。理子が生まれた時も、深夜に自宅で破水してバタバタしていたけれど、今回は離れたところで事態は起きていた。
まず理子を起こすために部屋の電気をつけ、自身も着替え、どういうわけか理子の着替えをカバンに突っ込み、ペットボトルのお茶とカメラを持った。
「れいちゃんに会いに行くぞ!」と理子にいうと意外なほど、さっと起きた。
アプリで配車したタクシーはあと10分で到着するということだったけど、気が気でないので家を飛び出した。理子を抱っこして外に出ると、ちょうど「迎車」のライトが灯ったタクシーがゆっくりとやってきた。
名前を確認され乗り込んだのだけど、小さな子供も一緒だったためか、運転手は少し動揺しているようだった。夜中の12時。子供はあきらかにパジャマを着ているのだ。
病院の住所を告げ、急いでください。と言った。
病院に行くいつもの道なのに今回は暗く、いちいち止まる信号にもどかしさを感じ、急いでくれって言ったじゃないかと理不尽なことを思ったりした。
病院に到着し1300円だと告げられると2000円を渡し「お釣りはいらないです」と口走っている僕がいた。460円の富士そばを昼飯に食べているような僕がどうしてそんなことを言ってしまったのか。運転手は「本当にいいんですか?」と聞き返すほどだった。
夜間インターホンを押すと名前を告げ中に入った。僕の声は震えていた。
静寂に包まれた病院の廊下や階段を、スニーカーがキュっと音を立てる。
ナースステーションには人はおらず、新生児室、分娩室にも人影は無かった。
本当にこの静けさのなかで手術が行われるのだろうか?と思った時、助産師らしき人影があった。僕は声をかけたけど、それは届かなかったようで、また足早にどこかへ消えていった。
静寂。
僕は訳も分からず受付や個室が並んでいる廊下を歩いてみた。そしてまた分娩室があるほうに行くと名前を呼ばれた。
緊急で手術が行われることを改めて告げられると、先ほどまで花さんがいたであろう分娩室に通された。ベッドの脇のテーブルには、見慣れた花さんの携帯が置かれていた。
ベッドのシーツには血痕があって、それが妙に静寂さを感じさせていた。
ここでお待ち下さい
と伝えられると、先ほどは耳に入ってこなかった金属音やモニターの何かを知らせる音などが聞こえ始めた。自分の感覚が体に戻ってきたようだ。しかしそれらは不気味なほどに、不吉なことを想起させた。目の前には血痕のついたベッドもあるのだ。
ソファに腰を下ろしたけど、背もたれに体を預けることなどできず、本当に色々なことを考えていた。
心拍が低下しているという言葉がもたらす破壊力はすさまじく「死」のイメージを直結させた。だから僕はもう随分前に亡くなったじいちゃんに「まだそっちに連れて行かないでくれ」と本当に何度もお願いした。こういう時、ポジティブに産後のことを考えるというよりも、とにかく花さんもれいちゃんも無事でいてほしい、そのことしか思えなくなる。
しばらくすると、理子は、今まで見たことのないような表情で僕の顔をじっと見つめてきた。よほど僕が頼りない顔をしていたんだろうなと思った。
「大丈夫だよね?」口には出さないけれど、そう聞かれているようだった。
いつも診察をしてくれていた先生が部屋に入ってきて説明をしてくれた。今から帝王切開します、大丈夫ですから待っていてくださいと彼は言った。
よろしくお願いしますと言ってからどれくらいの時間が経ったろうか。
いまさら帝王切開のことをネットで調べる気も起きず、ただただ誰かに祈っていた。ほぼ無宗教のように生きているのに虫のいい話だ思われても仕方がない。でもこういうときにすがる者があるのは安心するのだろうなと思った。
理子も眠たい目をこすりながら、この空気を感じ取っているようだった。静かに前をみていた。
赤ちゃんの泣き声がする。でもここは新生児室のすぐ近くだ。ある意味完全なる沈黙の状況の中ただひたすら扉が叩かれるのを待っていた。
そして「トントントン」と扉をノックする音がした。
助産師さんが「おめでとうございます、母子ともに無事ですよ」と教えてくれた。
それと同時に涙が出てきた。全身の力が抜けてへなへなになってしまった。
本当に良かった、本当に。
放心するなかありがとうございますと頭を下げた。
「ママがんばったよ、理子。もうすぐ会えるよ」と理子に伝えた。
本当に出産は千差万別だ。「絶対」がありえない。
ただ無事に生まれたことだけが事実として残った。
助産師さんは理子の顔をみると「お顔はお姉ちゃんにそっくりだよ」と教えてくれた。
しばらくして、先生からも説明があり、最後に「お姉ちゃんにそっくりですよ」と言った。
後々分かったのだけど0時28分に生まれたようだった。それは僕が病院に到着してほんとにすぐ後のことだった。体感的にはもっと後のことのように思えるのだけど、時間の流れが異質だったのかもしれない。
花さんは個室に戻っていた。僕と理子が部屋に入ると花さんは安心したのか涙を流していた。ほんとうに不安だったんだろうなと思った。心細いその瞬間に近くにいれなかったことを悔やんだ。
それを見て僕もまた涙が出てきた。部屋にはまだれいちゃんの姿はなく、色々と検診を受けているようだった。
お腹を切った後にもかかわらず、意外と意識がはっきりとしていてきちんと話すことができた。「ありがとう、お疲れ様。ほんとうに大変だったね」気の利いた言葉がなかなか出てこなかったけど、素直な気持ちだった。
そのうち助産師さんによってれいちゃんは連れてこられた。生まれたばかりの理子にそっくりなれいちゃんだ。ベッドで横になる花さんにそっと抱かれた。生まれたてってこんなに小さくて、こんなにかわいいんだったっけ?
4年ぶりの新生児の匂い。あまり泣くこともなく、でもまだ短いその腕を懸命にのばして母親に触れようとしている。
理子は少し離れたところで嬉しそうに見ていた。
保育園からの帰り道「明日れいちゃんに会えるけど、どんな気持ちがするの?」と理子に聞いたら、理子はすごく素直な言葉で「やさしい気持ち」と答えてくれた。
そんなやさしい気持ちで部屋は満たされていた。
ママに甘えたいけどそれをしていいのか分からずもぞもぞしているのも、きっと理子なりの優しい部分の表れなんだと思う。
花さん、ほんとうにありがとう、お疲れ様でした。
僕らは4人家族になった。
2018年7月9日月曜日
7月6日の出来事
基本的に3人で行動する我々。休日も、どちらかが一人で出かけるということはほぼない。
それは夜、寝る時もそう。
今ではご飯を食べ、お風呂に入り、就寝するまでが3人。それがルーティン。
子供というのは、それが当たり前になると、そうでなかった時に違和感を覚えるらしい。
ほぼバラエティ番組やらニュース番組を見ることなく1日が終わるので、たまの週末の夜、テレビでも見たいなと思い、リビングに残ってテレビを見ていた。
すると、すべての寝支度を終え、寝室にいた理子がやってきて、「パパ、もう寝るよ」という。
「今日はパパは夜更かしするからここにいるね」というと「そうか!分かったー」と言って寝室に戻る。
それから数十秒後、またやってきて「パパ寝ないの?」という。
「パパは今日はまだネンネしないからママとネンネしてね。」というと、「分かったー」と言って寝室に戻る。
そうしたらやっぱりまた戻ってきて、「どうしてネンネしないの?」というので「参りました」と言って私も寝室に行った。
どうして夜更かししてテレビ見る必要があるのかわからなくなってしまった。
シングルとダブルの布団が敷かれた寝室。
もはやキングサイズの布団を理子は縦横無尽にローリンローリンする。
ママの顔を蹴り上げ、私の腹部をかかと落とし。
暗闇の中で立ち上がり、のそのそと歩き危うく股間を踏まれそうになる。
どうしてネンネしないの?と僕が理子に聞きたいところである。
それは夜、寝る時もそう。
今ではご飯を食べ、お風呂に入り、就寝するまでが3人。それがルーティン。
子供というのは、それが当たり前になると、そうでなかった時に違和感を覚えるらしい。
ほぼバラエティ番組やらニュース番組を見ることなく1日が終わるので、たまの週末の夜、テレビでも見たいなと思い、リビングに残ってテレビを見ていた。
すると、すべての寝支度を終え、寝室にいた理子がやってきて、「パパ、もう寝るよ」という。
「今日はパパは夜更かしするからここにいるね」というと「そうか!分かったー」と言って寝室に戻る。
それから数十秒後、またやってきて「パパ寝ないの?」という。
「パパは今日はまだネンネしないからママとネンネしてね。」というと、「分かったー」と言って寝室に戻る。
そうしたらやっぱりまた戻ってきて、「どうしてネンネしないの?」というので「参りました」と言って私も寝室に行った。
どうして夜更かししてテレビ見る必要があるのかわからなくなってしまった。
シングルとダブルの布団が敷かれた寝室。
もはやキングサイズの布団を理子は縦横無尽にローリンローリンする。
ママの顔を蹴り上げ、私の腹部をかかと落とし。
暗闇の中で立ち上がり、のそのそと歩き危うく股間を踏まれそうになる。
どうしてネンネしないの?と僕が理子に聞きたいところである。
2018年6月24日日曜日
指ちゅっちゅ
理子の基本的な、落ち着くスタイルというのは、親指をしゃぶり、もう片方の手で誰かの耳をつかむというものである。テレビに映っているのがプリキュアだったら完璧。彼女が生まれてきて3年ちょっとで確立したスタイル。
意を決して、我々夫婦はそれを壊そうとしている。
大抵の子供は4歳までにそれを止めるという。しかし理子は8月に4歳の誕生日を迎えるというのに、指しゃぶりにさらに磨きをかけている。指しゃぶりをし、足の指先で我々の耳を触るというアグレッシブなプレイに興じている。
それはきっと、胎児の頃、母体の中にいたことを想起しているにちがいないと思われる。
しかし君はもう4歳になろうかとしている!
ある時「ゆびたこ」という名の絵本を使い、指しゃぶり撲滅作戦を敢行したのだ。夜、寝る前にその絵本を読んだところ、効果覿面。思わず大人もびっくりの絵面に理子は恐怖におののき、指をしゃぶらなくなった。
ところが効果が強すぎたようで、夜中に理子はうなされてしまった。夢の中にまでゆびたこが現れてしまったのだろうか。そのうなされている姿があまりに可哀想で、ついつい「ゆびたこはパパが遠くに連れて行ったから、理子のところにはこないよ。安心して」と言ってしまったのだった。
すると彼女は神を見るかのような眼差しで僕を見て感謝を述べるのであった。
当然のことながら指しゃぶりは継続されることとなる。
それから数ヶ月。
保育園の同じクラスの子達もだんだんと指しゃぶりをしなくなったらしいこともあり、ついに科学の力に頼ることとなった。
「 MVX マヴァラ SDネイル マヴァラヴァイターストップ10 ml (並行輸入品)」である。
舐めるとものすごく苦い味のする薬を指先に塗るわけである。随分前から花さんが買っておいたのだけど、奥の奥の手として考えていたものだった。
それをついに使わざるをえないようだ。
どれだけ強力なのか、試しに匂いを嗅いでみると除光液をさらに強烈にしたような匂いが鼻をつんざく。
これを塗ったら子供はひとたまりもなさそうであるが、健康には害がないのであろうから、理子に承諾を得て塗ってみることにした。「理子ちゃん塗る!」と勇ましい。
花さんも、理子を安心させるために、自身の指にも塗った。
ネイルを塗るようにそれを塗るので、ちょっとお姉さんになったような気分にもなったのかもしれない。
実際、しゃぶるそぶりは見せなかった。寝る前に絵本を読む時、指を少し口元に運ぶ気配も見せつつも我慢していた。
これはいけそうだ、と思ったのだけど、入眠し深夜になると、うなされる理子の声が聞こえる。
どうやら寝ている間に指をしゃぶったようだ。
飲み物を求める声がする。ペットボトルに入ったお茶をごくごくと飲み、それはそれでおねしょをしそうで怖いのだが、今はとにかく口の中が苦みでいっぱいなのだ。
ゆびたこの時のように、苦味をどこかに連れて行くことのできないパパは、がんばれとしか言うことができない。
のたうちまわる理子。
こう言ってはなんだけど、『トレインスポッティング』で薬抜きをするレントンが、ベッドの上でのたうち回ってるのを両親がケアしているようなものだった。
ここが踏ん張りどきだ。
しばらくすると、落ち着きを取り戻し、苦悶に満ちた表情でまた眠りに入った。落ち着くための指は反旗を翻しているのだ。
朝、おねしょをすることなく目覚めた理子。
この日から、指しゃぶりをすることはなくなった。
これをしつけと言ってしまうともどかしい部分もあるのだけど、実力行使も仕方がない。
とある日、花さんと理子がお出かけをしている時、メールが届いた。
「マックでポテト食べてうっかり親指なめて2人で悶絶している」
かなり高度なギャグに、仕事中にも関わらず僕は笑ってしまった。
薬の注意書きには効果は3日ほど続くと書かれているのだった。
理子が指しゃぶりを止めた代償に、抑圧を別の形として解消するようになった。
指で口を塞いでいたのから解放されて、口数が異様に増えたのである。
マシンガンのように紡ぎ出される言葉たち。
育児とは実に面白いものである。
意を決して、我々夫婦はそれを壊そうとしている。
大抵の子供は4歳までにそれを止めるという。しかし理子は8月に4歳の誕生日を迎えるというのに、指しゃぶりにさらに磨きをかけている。指しゃぶりをし、足の指先で我々の耳を触るというアグレッシブなプレイに興じている。
それはきっと、胎児の頃、母体の中にいたことを想起しているにちがいないと思われる。
しかし君はもう4歳になろうかとしている!
ある時「ゆびたこ」という名の絵本を使い、指しゃぶり撲滅作戦を敢行したのだ。夜、寝る前にその絵本を読んだところ、効果覿面。思わず大人もびっくりの絵面に理子は恐怖におののき、指をしゃぶらなくなった。
ところが効果が強すぎたようで、夜中に理子はうなされてしまった。夢の中にまでゆびたこが現れてしまったのだろうか。そのうなされている姿があまりに可哀想で、ついつい「ゆびたこはパパが遠くに連れて行ったから、理子のところにはこないよ。安心して」と言ってしまったのだった。
すると彼女は神を見るかのような眼差しで僕を見て感謝を述べるのであった。
当然のことながら指しゃぶりは継続されることとなる。
それから数ヶ月。
保育園の同じクラスの子達もだんだんと指しゃぶりをしなくなったらしいこともあり、ついに科学の力に頼ることとなった。
「 MVX マヴァラ SDネイル マヴァラヴァイターストップ10 ml (並行輸入品)」である。
舐めるとものすごく苦い味のする薬を指先に塗るわけである。随分前から花さんが買っておいたのだけど、奥の奥の手として考えていたものだった。
それをついに使わざるをえないようだ。
どれだけ強力なのか、試しに匂いを嗅いでみると除光液をさらに強烈にしたような匂いが鼻をつんざく。
これを塗ったら子供はひとたまりもなさそうであるが、健康には害がないのであろうから、理子に承諾を得て塗ってみることにした。「理子ちゃん塗る!」と勇ましい。
花さんも、理子を安心させるために、自身の指にも塗った。
ネイルを塗るようにそれを塗るので、ちょっとお姉さんになったような気分にもなったのかもしれない。
実際、しゃぶるそぶりは見せなかった。寝る前に絵本を読む時、指を少し口元に運ぶ気配も見せつつも我慢していた。
これはいけそうだ、と思ったのだけど、入眠し深夜になると、うなされる理子の声が聞こえる。
どうやら寝ている間に指をしゃぶったようだ。
飲み物を求める声がする。ペットボトルに入ったお茶をごくごくと飲み、それはそれでおねしょをしそうで怖いのだが、今はとにかく口の中が苦みでいっぱいなのだ。
ゆびたこの時のように、苦味をどこかに連れて行くことのできないパパは、がんばれとしか言うことができない。
のたうちまわる理子。
こう言ってはなんだけど、『トレインスポッティング』で薬抜きをするレントンが、ベッドの上でのたうち回ってるのを両親がケアしているようなものだった。
ここが踏ん張りどきだ。
しばらくすると、落ち着きを取り戻し、苦悶に満ちた表情でまた眠りに入った。落ち着くための指は反旗を翻しているのだ。
朝、おねしょをすることなく目覚めた理子。
この日から、指しゃぶりをすることはなくなった。
これをしつけと言ってしまうともどかしい部分もあるのだけど、実力行使も仕方がない。
とある日、花さんと理子がお出かけをしている時、メールが届いた。
「マックでポテト食べてうっかり親指なめて2人で悶絶している」
かなり高度なギャグに、仕事中にも関わらず僕は笑ってしまった。
薬の注意書きには効果は3日ほど続くと書かれているのだった。
理子が指しゃぶりを止めた代償に、抑圧を別の形として解消するようになった。
指で口を塞いでいたのから解放されて、口数が異様に増えたのである。
マシンガンのように紡ぎ出される言葉たち。
育児とは実に面白いものである。
2018年6月7日木曜日
2018年5月19日土曜日
交差点
朝、理子を保育園に送りに行くのは大抵花さんで、家をでて下り坂を進み、小さな交差点を渡ったところでバイバイする。
後ろ姿をしばらく見送ったあと、駅へと向かう。イヤホンをつけsoundcloudを立ち上げる。そして特にどの曲をというわけでもなく、誰かの曲を聴いて駅まで歩く。
道中、建設途中のマンションがあって、朝から工事をしている。工事が始まったばかりのころ、防音シートが張り巡らされ、関係者入り口のところに、工事の人向けと思われる飲料自動販売機が一台設置された。それから、今では3台目が設置されていた。伊藤園 、ダイドー、コカコーラ。次はコンビニでもできるんじゃなかろうかと思う。
駅のホームに着くと、鞄から文庫をとりだす。今読んでいる本は、ヘミングウェイの『移動祝祭日』。エッセイというのか日記というのか、パパのパリでの日常などが書かれている。話の中にピカソが出てきたりして、映画『ミッドナイトインパリ』の情景が思い浮かぶ。時代背景が立体化して面白い。
とはいえこの本は10年近く前に、当時の職場でもらった本。当初はパラパラと何項目かを読んだだけで終わっていたものを、掘り返して今読んでいるというわけだ。
翻訳物にどうしても抵抗があるので、ショートストーリーを読むのは気持ち的に楽だった。
電車の乗り換えを一度して、一駅。駅直結のビルに職場はあり、そこでデザインの仕事をする。外出は食事の時くらいなもので、18時までほぼ机の前に座っている。
仕事はウィークリーの媒体で、内容は特集、ニュース、連載などとある。時折、下版のタイミングで大きなニュースが流れてきて、記事を差し変える、などということもある。ここのところで一番職場がざわついたのは、リカルドティッシがバーバリーのクリエイティブディレクターに就任したときだろうか。
18時に会社を出て、電車に乗って保育園にお迎えに行く。以前の生活リズムでは気づくことはなかったのだけど、この時間帯に帰宅している人たちが意外にも多いように思う。自宅の最寄駅でも、スーパーで買い物をしているサラリーマンの姿をよく見かける。こういう生活をちゃんと手にしている人もいるのだなと思う。
18時50分、理子のお迎えに行く。「まるでシャワーでも浴びたかのように汗だくだった」と先生に言われる。まだ5月だというのに、これからどうなってしまうんだろうと思う。
「今日は何をして遊んだの?」
「ここちゃんと遊んだよ!」
話をしながら歩いて行くと、朝、花さんと別れた交差点。そこに花さんがいる。
「ママー!」と駆け寄る理子。
交差点を渡り、坂道を登って家に帰った。
後ろ姿をしばらく見送ったあと、駅へと向かう。イヤホンをつけsoundcloudを立ち上げる。そして特にどの曲をというわけでもなく、誰かの曲を聴いて駅まで歩く。
道中、建設途中のマンションがあって、朝から工事をしている。工事が始まったばかりのころ、防音シートが張り巡らされ、関係者入り口のところに、工事の人向けと思われる飲料自動販売機が一台設置された。それから、今では3台目が設置されていた。伊藤園 、ダイドー、コカコーラ。次はコンビニでもできるんじゃなかろうかと思う。
駅のホームに着くと、鞄から文庫をとりだす。今読んでいる本は、ヘミングウェイの『移動祝祭日』。エッセイというのか日記というのか、パパのパリでの日常などが書かれている。話の中にピカソが出てきたりして、映画『ミッドナイトインパリ』の情景が思い浮かぶ。時代背景が立体化して面白い。
とはいえこの本は10年近く前に、当時の職場でもらった本。当初はパラパラと何項目かを読んだだけで終わっていたものを、掘り返して今読んでいるというわけだ。
翻訳物にどうしても抵抗があるので、ショートストーリーを読むのは気持ち的に楽だった。
電車の乗り換えを一度して、一駅。駅直結のビルに職場はあり、そこでデザインの仕事をする。外出は食事の時くらいなもので、18時までほぼ机の前に座っている。
仕事はウィークリーの媒体で、内容は特集、ニュース、連載などとある。時折、下版のタイミングで大きなニュースが流れてきて、記事を差し変える、などということもある。ここのところで一番職場がざわついたのは、リカルドティッシがバーバリーのクリエイティブディレクターに就任したときだろうか。
18時に会社を出て、電車に乗って保育園にお迎えに行く。以前の生活リズムでは気づくことはなかったのだけど、この時間帯に帰宅している人たちが意外にも多いように思う。自宅の最寄駅でも、スーパーで買い物をしているサラリーマンの姿をよく見かける。こういう生活をちゃんと手にしている人もいるのだなと思う。
18時50分、理子のお迎えに行く。「まるでシャワーでも浴びたかのように汗だくだった」と先生に言われる。まだ5月だというのに、これからどうなってしまうんだろうと思う。
「今日は何をして遊んだの?」
「ここちゃんと遊んだよ!」
話をしながら歩いて行くと、朝、花さんと別れた交差点。そこに花さんがいる。
「ママー!」と駆け寄る理子。
交差点を渡り、坂道を登って家に帰った。
2018年5月16日水曜日
2018年5月15日火曜日
育児
日々がめまぐるしく過ぎていく。自分が週刊で発行する媒体の仕事をしているから、「何曜日に何があって、あれをしなくてはならない」という働き方をすることも、平日があっという間に過ぎていく要因と言える。
親になるというのは子供の分の生活までをすることらしい、ということに気がついたのはつい最近のことだ。食事の用意や着替え、お風呂に歯磨き。どれも諸々を用意して与えなくてはならない。花さんと二人で連携して、阿吽の呼吸でそれらを行っていく。
自分だけだったら妥協してもいいけど、それだと子供がアレだから、と言った理由で重い腰を上げることもある。
思い通りにいかないのがデフォルト。この子は生まれてからまだ3年しか経っていない、と思えば、パジャマをなかなか着ないで遊び始めてしまう理子に怒っていたことが馬鹿バカしくなって、好きにせい、と思ってしまう。
朝の7時過ぎに起きてくる理子を9時に保育園に預け、何事もなければ19時にお迎えに行く。それから就寝する22時までが親子の時間となる。
そう考えると、24時間のうちのほんの数時間しかコミュニケーションを取れない。
時折ネットで子育てについて調べることがあるのだけど、そういうのを見ると自分はなにか子供にできているのか不安になる。
子供と生活はしているけれど、果たして育児はできているのか。成長できるようなことを補助してあげられているのか、と悩む、というほどではないけれど、どこかでいつも引っかかっていた。
とある日、理子と一緒に道を歩いていると、信号無視して横断歩道を渡っている人がいた。すると理子は「信号は青にならないと渡っちゃだめなんだよね」と僕に言ったことがあった。それは僕がいつも理子に言い聞かせていることだった。
とても些細なことではあったのだけど、理子の身についたんだなと思って嬉しくなった。何か体験を通して成長することじゃなくても、日々の繰り返しの生活で浸透させてあげることも育児ということなんだろうと妙に腑に落ちた。
親になるというのは子供の分の生活までをすることらしい、ということに気がついたのはつい最近のことだ。食事の用意や着替え、お風呂に歯磨き。どれも諸々を用意して与えなくてはならない。花さんと二人で連携して、阿吽の呼吸でそれらを行っていく。
自分だけだったら妥協してもいいけど、それだと子供がアレだから、と言った理由で重い腰を上げることもある。
思い通りにいかないのがデフォルト。この子は生まれてからまだ3年しか経っていない、と思えば、パジャマをなかなか着ないで遊び始めてしまう理子に怒っていたことが馬鹿バカしくなって、好きにせい、と思ってしまう。
朝の7時過ぎに起きてくる理子を9時に保育園に預け、何事もなければ19時にお迎えに行く。それから就寝する22時までが親子の時間となる。
そう考えると、24時間のうちのほんの数時間しかコミュニケーションを取れない。
時折ネットで子育てについて調べることがあるのだけど、そういうのを見ると自分はなにか子供にできているのか不安になる。
子供と生活はしているけれど、果たして育児はできているのか。成長できるようなことを補助してあげられているのか、と悩む、というほどではないけれど、どこかでいつも引っかかっていた。
とある日、理子と一緒に道を歩いていると、信号無視して横断歩道を渡っている人がいた。すると理子は「信号は青にならないと渡っちゃだめなんだよね」と僕に言ったことがあった。それは僕がいつも理子に言い聞かせていることだった。
とても些細なことではあったのだけど、理子の身についたんだなと思って嬉しくなった。何か体験を通して成長することじゃなくても、日々の繰り返しの生活で浸透させてあげることも育児ということなんだろうと妙に腑に落ちた。
2018年5月14日月曜日
家族写真
狭っ苦しい都内では考えられないのだけど、BBQをやろうといって自宅の敷地内でやれてしまうのが地元のよさである。
隣近所と近接していないし、問題ないようである。とはいえ僕が子供のころは自宅でBBQをやるという文化はなかった。
完成したばかりの庭で、それをするのに抵抗があったかもしれないのだけど、思いっきり肉を焼いている。祖父母も加わっていたので、アウトドア用の簡易テーブルでは足りず、近所のカインズホームで買い足しにいった。父の運転する車に乗って僕も付き添った。僕も免許はあるのだけど完全なるペーパードライバーだ。
僕はホームセンターと呼ばれる店が好きである。今の僕の生活圏内ではなかなか見つからない。東急ハンズというのはまた種類が違うように思う。
近所にこんな店があったら、木の板を買ってきて、棚を取り付けたり簡易的なDIYなどを楽しめそうなのに、と思う。
このホームセンターが出来たばかりのときはなぜこんな町の外れのようなところにつくるのだろうと思っていたけれど、今ではその敷地を拡張し食材を扱うスーパーまで出来たようである。当然のことながら店内は馬鹿広い。目的の商品を見つけるまでかなり右往左往してしまった。結局父がそれを見つけた。
家に戻って組み立てる。ここのところ風の強い日が続いており、この日も御多分に洩れずであった。紙皿は吹き飛び煙はまっすぐ上に伸びていかず、隣近所に撒き散らしていた。
子供達は庭を駈け回りなかなか食べようとしない。風も吹いていて寒さすら感じるということで、僕はあまりビールを飲むこともなく、それなりの時間に終了した。
僕は屋根裏部屋にもぐりこみ、漫画を読みふけった。昔はかなり大量の漫画があったのだけど、今ではその数はだいぶ減っていた。とはいえ車庫として使っていたガレージに大量に保管されている。
僕は幽遊白書の仙水編から読み始める。それが読み終わると飽き足らず、レベルEを読む。
子供達はもう寝室で寝始めている。この日も理子の争奪編が繰り広げられているようで、一人の女を奪い合う怒号が聞こえ、泣き叫ぶ声が聞こえ、「理子なんて大嫌い!」となんだか恋愛の縮図のようなものが行われていたようだった。
彼女たちが寝静まった頃寝室に入ると、めいめいがマティスの絵にでも出てきそうな格好をして寝ていた。いずれも布団から大きくはみ出し、どうしてそこに留まることに決めたのか、という場所で。僕はその合間を縫って布団に体をうずめた。眠りにつくまでには時間がかかった。誰かに蹴られるからだ。
夜更かししたせいで朝は遅かった。
この日の昼過ぎには帰ることになっていたので、食事を済ませると、荷造りをした。
帰る前に、田子の浦にある公園に連れて行ってくれた。この場所は初めてきたのだけど、かなりいい場所だった。広大な土地はきちんと整備され、遊具があり、船を模したアスレチックがあった。海のすぐ近くということで景色がよかった。結婚衣装を着たカップルが写真撮影もしていた。抜群のロケーションだった。
シンボルチックな高い建物に上ると、富士山の裾野まで見渡せた。地元の良さを再発見できるようなそんなスポットだった。当然のことながら子供達はその辺を駆け回った。
お昼が近くなると、漁港に行き、しらすを食べることにした。併設された食堂があり、そこは長テーブルがいくつも並べられた場所だった。なんだかとってもグッとくる場所。綺麗とは程遠い雰囲気だけど、とてつもなく美味しいものが食べられる予感がする
すでに完売したメニューもあったのだけど、僕が食べたのは釜揚げしらすと生しらすの丼だった。生しらすを食べたのは初めてのことではないのだけど、ここで食べたのはまるで「うに」のような味がするものだった。当たり前のことを言うとかなり美味しかった。
美味しさとは別に、贅沢な味がした。
食事を終えると車に乗って家に戻った。そして家族写真を撮ることにした。
新しい家を背景として、今ある家族の姿を撮っておきたかった。それは今あることがいつまでも続くわけではないという想いがあるからだった。
家族と離れて暮らしていると、特にそう思う。祖父母は高齢だし、ここ最近入院もしていた。年老いていく姿も半年単位で見ることになり、予感もなくなにかが起きてしまうことがあるかもしれない。家族に会うのは、日にちではなく、回数でしか数えることができないといっても過言ではない。
そういったわけで、父とともに三脚をセッティングし、カメラを構えた。
兄は新しい家を建てた一家の主としての顔。
子供達は強く照らす日差しに文句を言ってる顔。
それぞれの母たちはそんな子供たちを優しく見つめていた。
そんなそれぞれの顔が写真に映し出されていた。
写真を撮ったあと駅まで送ってもらった。その直前、お世話になった近所の(もう一人の父たち)が顔を見せに来てくれた。あまり喋ることはできなかったけれど、会えてよかった。
帰るたびに「結局地元」って思う。
花さんにとっては本当の地元ではないけれど、そのように思ってくれてたら嬉しい。
僕たちは東京に帰って行った。
隣近所と近接していないし、問題ないようである。とはいえ僕が子供のころは自宅でBBQをやるという文化はなかった。
完成したばかりの庭で、それをするのに抵抗があったかもしれないのだけど、思いっきり肉を焼いている。祖父母も加わっていたので、アウトドア用の簡易テーブルでは足りず、近所のカインズホームで買い足しにいった。父の運転する車に乗って僕も付き添った。僕も免許はあるのだけど完全なるペーパードライバーだ。
僕はホームセンターと呼ばれる店が好きである。今の僕の生活圏内ではなかなか見つからない。東急ハンズというのはまた種類が違うように思う。
近所にこんな店があったら、木の板を買ってきて、棚を取り付けたり簡易的なDIYなどを楽しめそうなのに、と思う。
このホームセンターが出来たばかりのときはなぜこんな町の外れのようなところにつくるのだろうと思っていたけれど、今ではその敷地を拡張し食材を扱うスーパーまで出来たようである。当然のことながら店内は馬鹿広い。目的の商品を見つけるまでかなり右往左往してしまった。結局父がそれを見つけた。
家に戻って組み立てる。ここのところ風の強い日が続いており、この日も御多分に洩れずであった。紙皿は吹き飛び煙はまっすぐ上に伸びていかず、隣近所に撒き散らしていた。
子供達は庭を駈け回りなかなか食べようとしない。風も吹いていて寒さすら感じるということで、僕はあまりビールを飲むこともなく、それなりの時間に終了した。
僕は屋根裏部屋にもぐりこみ、漫画を読みふけった。昔はかなり大量の漫画があったのだけど、今ではその数はだいぶ減っていた。とはいえ車庫として使っていたガレージに大量に保管されている。
僕は幽遊白書の仙水編から読み始める。それが読み終わると飽き足らず、レベルEを読む。
子供達はもう寝室で寝始めている。この日も理子の争奪編が繰り広げられているようで、一人の女を奪い合う怒号が聞こえ、泣き叫ぶ声が聞こえ、「理子なんて大嫌い!」となんだか恋愛の縮図のようなものが行われていたようだった。
彼女たちが寝静まった頃寝室に入ると、めいめいがマティスの絵にでも出てきそうな格好をして寝ていた。いずれも布団から大きくはみ出し、どうしてそこに留まることに決めたのか、という場所で。僕はその合間を縫って布団に体をうずめた。眠りにつくまでには時間がかかった。誰かに蹴られるからだ。
夜更かししたせいで朝は遅かった。
この日の昼過ぎには帰ることになっていたので、食事を済ませると、荷造りをした。
帰る前に、田子の浦にある公園に連れて行ってくれた。この場所は初めてきたのだけど、かなりいい場所だった。広大な土地はきちんと整備され、遊具があり、船を模したアスレチックがあった。海のすぐ近くということで景色がよかった。結婚衣装を着たカップルが写真撮影もしていた。抜群のロケーションだった。
シンボルチックな高い建物に上ると、富士山の裾野まで見渡せた。地元の良さを再発見できるようなそんなスポットだった。当然のことながら子供達はその辺を駆け回った。
お昼が近くなると、漁港に行き、しらすを食べることにした。併設された食堂があり、そこは長テーブルがいくつも並べられた場所だった。なんだかとってもグッとくる場所。綺麗とは程遠い雰囲気だけど、とてつもなく美味しいものが食べられる予感がする
すでに完売したメニューもあったのだけど、僕が食べたのは釜揚げしらすと生しらすの丼だった。生しらすを食べたのは初めてのことではないのだけど、ここで食べたのはまるで「うに」のような味がするものだった。当たり前のことを言うとかなり美味しかった。
美味しさとは別に、贅沢な味がした。
食事を終えると車に乗って家に戻った。そして家族写真を撮ることにした。
新しい家を背景として、今ある家族の姿を撮っておきたかった。それは今あることがいつまでも続くわけではないという想いがあるからだった。
家族と離れて暮らしていると、特にそう思う。祖父母は高齢だし、ここ最近入院もしていた。年老いていく姿も半年単位で見ることになり、予感もなくなにかが起きてしまうことがあるかもしれない。家族に会うのは、日にちではなく、回数でしか数えることができないといっても過言ではない。
そういったわけで、父とともに三脚をセッティングし、カメラを構えた。
兄は新しい家を建てた一家の主としての顔。
子供達は強く照らす日差しに文句を言ってる顔。
それぞれの母たちはそんな子供たちを優しく見つめていた。
そんなそれぞれの顔が写真に映し出されていた。
写真を撮ったあと駅まで送ってもらった。その直前、お世話になった近所の(もう一人の父たち)が顔を見せに来てくれた。あまり喋ることはできなかったけれど、会えてよかった。
帰るたびに「結局地元」って思う。
花さんにとっては本当の地元ではないけれど、そのように思ってくれてたら嬉しい。
僕たちは東京に帰って行った。
2018年5月10日木曜日
kids are alright
半袖で歩くには肌寒いから、玄関脇にある簡易クローゼットのところにあるジャケットを拝借して着ることにした。時刻は朝の7時前。だれもが寝静まっている時間である。ゴールデンウィーク中であるから当然のことと言える。でも日中あれだけうるさいのに、生活音がまるでしないから他人の家にでもいるかのようだ。
子供の寝かしつけに合わせて自分自身が寝てしまうため、(むしろ一番に寝てしまうので)起きるのも必然的に早い。10時半には寝てしまうから7時間寝たとしても、早朝に目が覚めてしまう。昔は何時間でも眠り続けることができたけれど、歳をとるというのはこういうことなのかもしれない。
この前もそうだったように、やはり海へと散歩に行くことにしたのだった。
自分が子供の頃は、魚屋の脇を通ってフェンスのない線路を渡って海へと行ったものだった。それがいい悪いというわけではないけれど、そういう時代だった。今では踏切を渡って以前よりは迂回することとなる。
国道はまるで車が走っていない。それでも押しボタン式の信号を使ってきちんと渡るのは理子が生まれてからの癖だ。
防風林である松林を抜ける。海岸線に沿って造られている防波堤を登ると、ランニングしている人やサイクリングしている人たちがいた。
波打ち際には釣りをしていると思しき人たちの姿が等間隔で続いていた。遊泳禁止のこの海岸線では遊んだ記憶はほとんどなく、初日の出を見る時くらいしか来たことがない。
だけど、一度だけこの場所にこようと思ってきたことがある。それは20代半ばの時に突発性難聴になったときだ。ちょうどこのくらいの時季のことで、耳が聞こえない恐怖心を消すために、海を見に来たのだった。
今回は、西の方角に歩いてみることにする。海を歩いていてもまるで景色など変わらないから、自分が満足したところでやめることになる。やめたところで引き返さなくてはならないからその辺のことも考える。
しばらく歩いていると、モーター音が聞こえ、数人が上を向きながらなにやら話をしていた。その視線の先にはドローンがあった。彼らはそれを沖の方に飛ばしていた。
さらに歩いて行くと、小さな看板が立てかけられていた。『ゲラティック号』というのが座礁した場所らしい。なんとなく話は聞いたことがあったけれど、実際にその場所に来たのは初めてのことだった。世の中知らないことばかりだ。これ以上進んでいくと深みにはまりそうだったので戻ることにした。
来た道をただ戻るのもつまらないので、防波堤を降りて、松林の中を歩いて帰った。しまいに行きどまりになったり墓があったり、家が唐突にあったりと、松林の中は不思議なところだった。当然初めて歩いた道だった。
そのうち県道にでて、行きにも通った踏切を渡り、家に帰った。だけど、起きている人は誰もいなかった。
家族が起きだして食事を済ませると、富士市のとあるお店に行った。そこは個人が経営している韓国製の子供服を売っている店だった。義姉がよくこの店で買い物をしているらしく、連れて行ってもらったのだった。
6畳くらいのスペースに所狭しと服が積まれている。デザイン性の高さの割に値段が比較的安い。トンデムンででも仕入れてきたのだろうか。
子供達にとって洋服屋ほどつまらないものはないわけで、彼女たちは敷地内にある遊びスペースで戯れていたのだけど、3分に一度は誰かが泣いていた。自分が使い終わって手を離したとして、誰かがそれを手にするのが嫌なのだ。店のお姉さんは、場数を踏んでいるようで、そういった子供の対処の仕方を熟知しており、いとも簡単にあしらっていた。そのおかげで親たちの手には服がいくつも収められていた。
花さんは数着購入していた。本当は韓国に行って買い物をしたいのだろうな、と思わざるをえない。
お昼時になったのだけど、そのまま祖母の家に行く。当然のことながらみんなは食事の最中だった。
仏壇におみやげを供え、線香をあげる。この家に来た時は手を洗うより先にそれをすることが身についている。祖父が亡くなってからは、祖父に向けて手をあわせるようになった。来るたびに話をすることがいくつもあるのだ。
一通り挨拶を終えると、子供達はお腹が減ったとわめき、大人も腹を鳴らしていた。
おばちゃんは、手際よく複数品作ってくれた。まず子供達が食べ、その後に親たちが続いた。まるでご飯を食べに来たかのようだった。
子供達はお腹を満たすと暴れだすので、おじちゃんと一緒に子供を連れて近所の公園へと行く。公園といっても神社の脇にいくつか遊具がある場所。自分が子供の頃から遊ぶ場所。どれもこれもあの頃と同じものがそこにある。今ではそれで自分の子供が遊んでいる。
滑り台を何往復もして、鉄棒でただぶら下がって、ブランコに乗りたがるのにいざ乗せると怖がって降りたがる。勝手気ままなキッズたち。
誰かが帰りたいと行って、みんなで仲良く手をつないで家に戻った。そして沼津に帰った。本当にご飯を食べに寄ったみたいだった。9人もの大人数で!祖母の前ではみんなが子供だったということだろうか。
帰り道、スーパーに寄って夕飯の食材を買った。夜は BBQだ。
子供の寝かしつけに合わせて自分自身が寝てしまうため、(むしろ一番に寝てしまうので)起きるのも必然的に早い。10時半には寝てしまうから7時間寝たとしても、早朝に目が覚めてしまう。昔は何時間でも眠り続けることができたけれど、歳をとるというのはこういうことなのかもしれない。
この前もそうだったように、やはり海へと散歩に行くことにしたのだった。
自分が子供の頃は、魚屋の脇を通ってフェンスのない線路を渡って海へと行ったものだった。それがいい悪いというわけではないけれど、そういう時代だった。今では踏切を渡って以前よりは迂回することとなる。
国道はまるで車が走っていない。それでも押しボタン式の信号を使ってきちんと渡るのは理子が生まれてからの癖だ。
防風林である松林を抜ける。海岸線に沿って造られている防波堤を登ると、ランニングしている人やサイクリングしている人たちがいた。
波打ち際には釣りをしていると思しき人たちの姿が等間隔で続いていた。遊泳禁止のこの海岸線では遊んだ記憶はほとんどなく、初日の出を見る時くらいしか来たことがない。
だけど、一度だけこの場所にこようと思ってきたことがある。それは20代半ばの時に突発性難聴になったときだ。ちょうどこのくらいの時季のことで、耳が聞こえない恐怖心を消すために、海を見に来たのだった。
今回は、西の方角に歩いてみることにする。海を歩いていてもまるで景色など変わらないから、自分が満足したところでやめることになる。やめたところで引き返さなくてはならないからその辺のことも考える。
しばらく歩いていると、モーター音が聞こえ、数人が上を向きながらなにやら話をしていた。その視線の先にはドローンがあった。彼らはそれを沖の方に飛ばしていた。
さらに歩いて行くと、小さな看板が立てかけられていた。『ゲラティック号』というのが座礁した場所らしい。なんとなく話は聞いたことがあったけれど、実際にその場所に来たのは初めてのことだった。世の中知らないことばかりだ。これ以上進んでいくと深みにはまりそうだったので戻ることにした。
来た道をただ戻るのもつまらないので、防波堤を降りて、松林の中を歩いて帰った。しまいに行きどまりになったり墓があったり、家が唐突にあったりと、松林の中は不思議なところだった。当然初めて歩いた道だった。
そのうち県道にでて、行きにも通った踏切を渡り、家に帰った。だけど、起きている人は誰もいなかった。
家族が起きだして食事を済ませると、富士市のとあるお店に行った。そこは個人が経営している韓国製の子供服を売っている店だった。義姉がよくこの店で買い物をしているらしく、連れて行ってもらったのだった。
6畳くらいのスペースに所狭しと服が積まれている。デザイン性の高さの割に値段が比較的安い。トンデムンででも仕入れてきたのだろうか。
子供達にとって洋服屋ほどつまらないものはないわけで、彼女たちは敷地内にある遊びスペースで戯れていたのだけど、3分に一度は誰かが泣いていた。自分が使い終わって手を離したとして、誰かがそれを手にするのが嫌なのだ。店のお姉さんは、場数を踏んでいるようで、そういった子供の対処の仕方を熟知しており、いとも簡単にあしらっていた。そのおかげで親たちの手には服がいくつも収められていた。
花さんは数着購入していた。本当は韓国に行って買い物をしたいのだろうな、と思わざるをえない。
お昼時になったのだけど、そのまま祖母の家に行く。当然のことながらみんなは食事の最中だった。
仏壇におみやげを供え、線香をあげる。この家に来た時は手を洗うより先にそれをすることが身についている。祖父が亡くなってからは、祖父に向けて手をあわせるようになった。来るたびに話をすることがいくつもあるのだ。
一通り挨拶を終えると、子供達はお腹が減ったとわめき、大人も腹を鳴らしていた。
おばちゃんは、手際よく複数品作ってくれた。まず子供達が食べ、その後に親たちが続いた。まるでご飯を食べに来たかのようだった。
子供達はお腹を満たすと暴れだすので、おじちゃんと一緒に子供を連れて近所の公園へと行く。公園といっても神社の脇にいくつか遊具がある場所。自分が子供の頃から遊ぶ場所。どれもこれもあの頃と同じものがそこにある。今ではそれで自分の子供が遊んでいる。
滑り台を何往復もして、鉄棒でただぶら下がって、ブランコに乗りたがるのにいざ乗せると怖がって降りたがる。勝手気ままなキッズたち。
誰かが帰りたいと行って、みんなで仲良く手をつないで家に戻った。そして沼津に帰った。本当にご飯を食べに寄ったみたいだった。9人もの大人数で!祖母の前ではみんなが子供だったということだろうか。
帰り道、スーパーに寄って夕飯の食材を買った。夜は BBQだ。
2018年5月9日水曜日
帰り道
GW中、事前にどこに行きたいかを兄に聞かれていた。GW中なんてどこに行っても人の背中しか見えなそうなのだけど、子供の気持ちになって「動物園」と答えた結果、兄は我々を日本平動物園へと連れて行ってくれた。
車2台に乗り込み、家を出た。僕は父親が運転する車に乗った。二人きりだった。タクシードライバーの父は、至極丁寧に運転した。そして兄が運転するワゴン車の尻を丁寧に追いかける。
たわいもない話を目的地に着くまでしていたのだけど、父とそのような会話をすることはとても久しぶりのことだった。内容は大したことないけれど、穏やかな時間だ。
道路は思っていたほど混んでおらず、スムーズに進んでいく。
車のなかではラジオがかかっており、一昔前の、僕が生まれる前の邦楽を流す番組が選ばれていた。
聴くともなくきいていると、妙に耳に残る歌が流れてきた。
「くたばっちまえ」「アーメン」
女性ボーカルで、そのように歌っている。
きちんと聴いてみると、どうやら結婚を題材にした歌らしいが興味を持った途端に曲が終わってしまった。
すぐさまiPhoneでググる。
「くたばっちまえ」「アーメン」
途中コンビニで昼食の食料を調達し、トレイ休憩をした。子供達は皆オムツをしていないので、トイレ休憩は重要な項目である。
東静岡駅から、日本平動物園行きのシャトルバスが運行しているということを義姉が調べてくれていたのでそこに向かった。
駐車場から乗り場まで行くと、100人くらいの人の列ができていた。当然のことながらそれはシャトルバスを待つ人々だ。
GWを実感させる人の列の最後尾に並ぶ。しばらく待っていると、意外にもバスは何便も到着し、1時間もしないうちにバスに乗って動物園に行くことができた。中には待ちきれずタクシーに乗り込んでいく人たちもいたけれど、経済を活性化させてよろしいことだと思った。
チケットも割とすぐに購入できた。入場してすぐにしたことは、子供達の記念撮影だ。しかし上は6歳、下は3歳の子供たち4人は、立ち止まって写真を撮らせてくれなどしない。
誰かがポーズを決めると誰かはひっくり返っている。諦めることを覚えないと次に進むことはできない。
芝生でゆったりした場所があるらしく、ご飯を食べるためにそこに向かった。みんな腹を空かせているのである。風が少し吹いているけれど、穏やかな陽気だった。
ビニールシートを持ってこなかったが、芝生の上に直接座るのは気持ちがいい。
おにぎりやサンドイッチをあっという間に食べ終えた子供達は、あてもなく走り出して行った。僕もすぐに食べ終え、追いかけた。追いかけていたつもりが、いつの間にか追われていた。もう動物たちを見に行かなくてもここで十分楽しめるのではないかと思ってしまうほど、子供達はめいめい遊んでいる。走るだけでも楽しいのである。
親たちはそんな姿を見つめていた。
しばらくしてから重い腰を上げ、順路に沿って動物たちを眺めた。
理子は地図を見ながら歩いていた。大人のように振る舞いたいのである。
様々な種類の動物がいる中で、とても良いなと思ったのはキリンの見せ方だ。
通常のアングルもあるけれど、キリンの目線の位置にまで上がって見ることができて、
餌を食べに来る姿が目と鼻の先で、息遣いまで聴こえてきた。
広い園内で、くまなく見て回っても誰も寝る気配がない。抱っこして欲しいとせがまれることはあるけれど、子供達は全力で楽しんでいるようだった。
出口付近の休憩所でソフトクリームを買ってみんなで食べた。結局夕方までしっかりと動物園を堪能することとなった。
帰りの車には羽咲も同乗した。小学校一年生の、かなりおませな女の子だ。話をしていると、どこで覚えたのかと思わせる絶妙な言い回し。大人顔負けな彼女は車に乗ると「ゆずで知ってる曲ある?」と僕に聞いてきた。
どうやら羽咲が通っていた保育園の先生が、ゆずを好きだったらしく、園で歌う曲の中にゆずがあったようだ。
僕が知っているのは「ゆずえん」までだった。
「灰皿の上にためいきをふきかけて〜」と歌ってみても、羽咲は「なにそれしらない」とつれない返事だ。
「もう日は暮れたー薄暗い辺りをぼんやり 街灯が照らしたー」と歌ってみても、羽咲は「なにそれしらないつまらない」と冷たくあしらった。
仕方がないので駐車場の猫の歌を歌ったところ「この前長いくだり坂をたまたま車で走ってたらね、この曲が流れたんだよ!すごくない!?」と彼女は嬉しそうに言った。
世代を超えて歌われるゆずの凄さを知る。
「ブレーキいっぱいにぎりしめてーゆっくりーゆっくりーくだってくぅ」
帰り道は心なしか早く家に着いた気がした。
車2台に乗り込み、家を出た。僕は父親が運転する車に乗った。二人きりだった。タクシードライバーの父は、至極丁寧に運転した。そして兄が運転するワゴン車の尻を丁寧に追いかける。
たわいもない話を目的地に着くまでしていたのだけど、父とそのような会話をすることはとても久しぶりのことだった。内容は大したことないけれど、穏やかな時間だ。
道路は思っていたほど混んでおらず、スムーズに進んでいく。
車のなかではラジオがかかっており、一昔前の、僕が生まれる前の邦楽を流す番組が選ばれていた。
聴くともなくきいていると、妙に耳に残る歌が流れてきた。
「くたばっちまえ」「アーメン」
女性ボーカルで、そのように歌っている。
きちんと聴いてみると、どうやら結婚を題材にした歌らしいが興味を持った途端に曲が終わってしまった。
すぐさまiPhoneでググる。
「くたばっちまえ」「アーメン」
すると便利なもので、きちんと曲名を教えてくれた。
sugarというグループの「ウエディングベル」という曲であることがわかった。
くたばっちまえ
途中コンビニで昼食の食料を調達し、トレイ休憩をした。子供達は皆オムツをしていないので、トイレ休憩は重要な項目である。
東静岡駅から、日本平動物園行きのシャトルバスが運行しているということを義姉が調べてくれていたのでそこに向かった。
駐車場から乗り場まで行くと、100人くらいの人の列ができていた。当然のことながらそれはシャトルバスを待つ人々だ。
GWを実感させる人の列の最後尾に並ぶ。しばらく待っていると、意外にもバスは何便も到着し、1時間もしないうちにバスに乗って動物園に行くことができた。中には待ちきれずタクシーに乗り込んでいく人たちもいたけれど、経済を活性化させてよろしいことだと思った。
チケットも割とすぐに購入できた。入場してすぐにしたことは、子供達の記念撮影だ。しかし上は6歳、下は3歳の子供たち4人は、立ち止まって写真を撮らせてくれなどしない。
誰かがポーズを決めると誰かはひっくり返っている。諦めることを覚えないと次に進むことはできない。
芝生でゆったりした場所があるらしく、ご飯を食べるためにそこに向かった。みんな腹を空かせているのである。風が少し吹いているけれど、穏やかな陽気だった。
ビニールシートを持ってこなかったが、芝生の上に直接座るのは気持ちがいい。
おにぎりやサンドイッチをあっという間に食べ終えた子供達は、あてもなく走り出して行った。僕もすぐに食べ終え、追いかけた。追いかけていたつもりが、いつの間にか追われていた。もう動物たちを見に行かなくてもここで十分楽しめるのではないかと思ってしまうほど、子供達はめいめい遊んでいる。走るだけでも楽しいのである。
親たちはそんな姿を見つめていた。
しばらくしてから重い腰を上げ、順路に沿って動物たちを眺めた。
理子は地図を見ながら歩いていた。大人のように振る舞いたいのである。
様々な種類の動物がいる中で、とても良いなと思ったのはキリンの見せ方だ。
通常のアングルもあるけれど、キリンの目線の位置にまで上がって見ることができて、
餌を食べに来る姿が目と鼻の先で、息遣いまで聴こえてきた。
広い園内で、くまなく見て回っても誰も寝る気配がない。抱っこして欲しいとせがまれることはあるけれど、子供達は全力で楽しんでいるようだった。
出口付近の休憩所でソフトクリームを買ってみんなで食べた。結局夕方までしっかりと動物園を堪能することとなった。
帰りの車には羽咲も同乗した。小学校一年生の、かなりおませな女の子だ。話をしていると、どこで覚えたのかと思わせる絶妙な言い回し。大人顔負けな彼女は車に乗ると「ゆずで知ってる曲ある?」と僕に聞いてきた。
どうやら羽咲が通っていた保育園の先生が、ゆずを好きだったらしく、園で歌う曲の中にゆずがあったようだ。
僕が知っているのは「ゆずえん」までだった。
「灰皿の上にためいきをふきかけて〜」と歌ってみても、羽咲は「なにそれしらない」とつれない返事だ。
「もう日は暮れたー薄暗い辺りをぼんやり 街灯が照らしたー」と歌ってみても、羽咲は「なにそれしらないつまらない」と冷たくあしらった。
仕方がないので駐車場の猫の歌を歌ったところ「この前長いくだり坂をたまたま車で走ってたらね、この曲が流れたんだよ!すごくない!?」と彼女は嬉しそうに言った。
世代を超えて歌われるゆずの凄さを知る。
「ブレーキいっぱいにぎりしめてーゆっくりーゆっくりーくだってくぅ」
帰り道は心なしか早く家に着いた気がした。
2018年5月7日月曜日
あの頃と同じ場所
僕の故郷は沼津で、花さんは青森だ。大型連休の際は、どちらかの実家に帰省するか旅行に行くかとなるのだけど、今年のGWは沼津に帰ることにした。
理子の成長は荷造りをする時にも感じる。めっきり荷物が減ったのである。
年始には、宿泊数よりも余分に着替えとオムツ(日中用と寝る用)を持って行ってたのだけど、それらは今回の帰省に関しては不要だった。3人分の着替えは、ミッションワークショップのリュックサックにすっぽりと収まった。子供の成長は荷物を減らしてくれる。
GWの後半初日は荒れた天気だった。風が強く、それに雨が煽られていた。8時には家を出たいと思っていたけれど、とても無理そうだった。珍しく理子が早起きしたというのに。
天気は次第に良くなっていった。雨が止んだタイミングで出かけた。
GWの新幹線乗客率は100パーセントを超えているとニュースで見ていたため、花さんは東京駅から乗ることを提案した。始発ならいくらなんでも乗ることができるだろう、というわけだ。しかしそんな我々をあざ笑うかのように、東京駅では洗礼をうける。まず乗車券のチケットを買うための行列があり、また改札を通るために行列もできていた。
ホームに出れば、自由席を求めてそれぞれの乗車口のところに10人以上並んでいる。
乗れなそうだったら一本遅らせようということで意見は一致し、とりあえず並んだ。
新幹線が到着すると、意外にもすんなりと席に座ることができた。理子は、もはや東海道新幹線に乗ることに喜びなど感じなくなっていた。一年で何度も乗るからである。
品川、横浜と到着するに連れて、デッキからはみ出た人たちが通路を塞ぐようになった。三島までは40分強。到着したら在来線に乗り換える。新幹線の乗り場から在来線までは少し距離があるので、乗り換えまでの7分は素早く行動しなくてはならない。周りの客も早足である。ホームに着くとほぼ同時に電車が滑り込んできた。
まるで東京にいるかのように満員だった。
すし詰めの電車に乗り、車窓から故郷を眺める。高校生の頃、部活をしていたときは電車で通っていた。もう20年近くも前のことだ。
その時見ていたものとまるで違うのかと言われればそうでもない景色が流れていく。車は空を飛んでいないし、バックトゥーザフューチャーのように3Dの広告もない。
だけど、僕の隣には花さんがいて理子がいた。
原駅に着くと、兄一家が迎えに来てくれていた。車に乗り込むと3姉妹が「理子ー!」と叫ぶ。
実家に着くと、新築の家の前に庭ができていた。施工が終わったばかりらしく、まだカラーコーンが置かれていた。
まだ慣れぬ新築の家にお邪魔すると犬の蓮が出迎えてくれた。吠えないところをみると、ちゃんと僕だということを覚えてくれているらしい。
父母と、祖父に挨拶をする。祖母はデイケアに行ってるらしかった。
荷物をおろし、仏壇にお土産を備えて、お線香をあげた。
子供達は我も我もと線香を手に取り、ポキっと折りながらもなんとか火を点け一丁前に手を合わせている。
そうこうしてる間に手早く昼食が作られ僕たちはご馳走になった。
お昼ご飯を食べると、家の裏に行き、自転車を漕いだりボールで遊んだりする。僕が子供の頃も同じ場所で遊んでいた。車が滅多に通らない道。そこからは大きな鯉のぼりが空を泳いでいるのが見える。あの頃と同じ景色だ。
畑仕事をしていた近所のおばちゃんが僕の姿を見て「優くん?」と声をかけてくれた。
あの頃と同じ場所で、自分の子供が遊んでいる場所で、あの頃面倒を見てくれた近所のおばちゃんと話しをすることの不思議さよ。
3姉妹と理子は、隙あらば使っていた自転車を奪い合い、その度に負けた者の泣き声が響いていた。
夕飯は僕がリクエストしたもんじゃ焼きだった。その頃には祖母も帰宅していて、総勢12名での食卓となった。12人!
誰がこんな姿を想像できただろう。
子供達4人を風呂に放り込み、カラスの行水がごとくかたっぱしから片付けると、布団に入るまで、怒涛の時間を過ごす。
「理子と寝る!」と3人が言い、叶わなかった者は泣いた。
奪い合いの末、結局「ママと寝る」と言う理子に「理子なんて大嫌い!」とふてくされる者あり。
寝入ったと思いきや寝相の悪い子供たちに顔や腹を蹴られ、耳をつねられ3時に目がさめ、そのままなかなか眠ることができなかった。
僕も歳をとったものである。
理子の成長は荷造りをする時にも感じる。めっきり荷物が減ったのである。
年始には、宿泊数よりも余分に着替えとオムツ(日中用と寝る用)を持って行ってたのだけど、それらは今回の帰省に関しては不要だった。3人分の着替えは、ミッションワークショップのリュックサックにすっぽりと収まった。子供の成長は荷物を減らしてくれる。
GWの後半初日は荒れた天気だった。風が強く、それに雨が煽られていた。8時には家を出たいと思っていたけれど、とても無理そうだった。珍しく理子が早起きしたというのに。
天気は次第に良くなっていった。雨が止んだタイミングで出かけた。
GWの新幹線乗客率は100パーセントを超えているとニュースで見ていたため、花さんは東京駅から乗ることを提案した。始発ならいくらなんでも乗ることができるだろう、というわけだ。しかしそんな我々をあざ笑うかのように、東京駅では洗礼をうける。まず乗車券のチケットを買うための行列があり、また改札を通るために行列もできていた。
ホームに出れば、自由席を求めてそれぞれの乗車口のところに10人以上並んでいる。
乗れなそうだったら一本遅らせようということで意見は一致し、とりあえず並んだ。
新幹線が到着すると、意外にもすんなりと席に座ることができた。理子は、もはや東海道新幹線に乗ることに喜びなど感じなくなっていた。一年で何度も乗るからである。
品川、横浜と到着するに連れて、デッキからはみ出た人たちが通路を塞ぐようになった。三島までは40分強。到着したら在来線に乗り換える。新幹線の乗り場から在来線までは少し距離があるので、乗り換えまでの7分は素早く行動しなくてはならない。周りの客も早足である。ホームに着くとほぼ同時に電車が滑り込んできた。
まるで東京にいるかのように満員だった。
すし詰めの電車に乗り、車窓から故郷を眺める。高校生の頃、部活をしていたときは電車で通っていた。もう20年近くも前のことだ。
その時見ていたものとまるで違うのかと言われればそうでもない景色が流れていく。車は空を飛んでいないし、バックトゥーザフューチャーのように3Dの広告もない。
だけど、僕の隣には花さんがいて理子がいた。
原駅に着くと、兄一家が迎えに来てくれていた。車に乗り込むと3姉妹が「理子ー!」と叫ぶ。
実家に着くと、新築の家の前に庭ができていた。施工が終わったばかりらしく、まだカラーコーンが置かれていた。
まだ慣れぬ新築の家にお邪魔すると犬の蓮が出迎えてくれた。吠えないところをみると、ちゃんと僕だということを覚えてくれているらしい。
父母と、祖父に挨拶をする。祖母はデイケアに行ってるらしかった。
荷物をおろし、仏壇にお土産を備えて、お線香をあげた。
子供達は我も我もと線香を手に取り、ポキっと折りながらもなんとか火を点け一丁前に手を合わせている。
そうこうしてる間に手早く昼食が作られ僕たちはご馳走になった。
お昼ご飯を食べると、家の裏に行き、自転車を漕いだりボールで遊んだりする。僕が子供の頃も同じ場所で遊んでいた。車が滅多に通らない道。そこからは大きな鯉のぼりが空を泳いでいるのが見える。あの頃と同じ景色だ。
畑仕事をしていた近所のおばちゃんが僕の姿を見て「優くん?」と声をかけてくれた。
あの頃と同じ場所で、自分の子供が遊んでいる場所で、あの頃面倒を見てくれた近所のおばちゃんと話しをすることの不思議さよ。
3姉妹と理子は、隙あらば使っていた自転車を奪い合い、その度に負けた者の泣き声が響いていた。
夕飯は僕がリクエストしたもんじゃ焼きだった。その頃には祖母も帰宅していて、総勢12名での食卓となった。12人!
誰がこんな姿を想像できただろう。
子供達4人を風呂に放り込み、カラスの行水がごとくかたっぱしから片付けると、布団に入るまで、怒涛の時間を過ごす。
「理子と寝る!」と3人が言い、叶わなかった者は泣いた。
奪い合いの末、結局「ママと寝る」と言う理子に「理子なんて大嫌い!」とふてくされる者あり。
寝入ったと思いきや寝相の悪い子供たちに顔や腹を蹴られ、耳をつねられ3時に目がさめ、そのままなかなか眠ることができなかった。
僕も歳をとったものである。
2018年5月6日日曜日
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