寝起きの、会話として成立してないようなつぶやきのようなものだった。
それは睡眠の延長線上にあるもので、実体をともなわなず
ただ浮遊するだけの言葉のはずだった。
しかし、hanaはそれを約束されたものとして捉えていたようだった。
丸いテーブルを囲んで遅めの朝食を食べている時の事だった。
「これから小田急線に乗って知らない町にいこうよ」hanaが言った。
「え?」と僕は味の薄いコーヒーを飲みながら言った。
「この前言っていたでしょう?小田急線、各駅停車に乗って
どこか知らない町に行こうって。それを実行するのよ」hanaが言った。
「でも今日は雨が降ってるよ、どうせ遠くに出かけるんだったら
もっと天気のいい日にしたほうがいいんじゃない?」僕は言った。
「傘をさせばいいでしょう、雨の日に外を歩くのもいいものよ」hanaが言った。
「そういうものかな」と僕は言った。
それほど嫌だという気持ちはなかった。
雨の日に二人が知らない遠くの土地に出かける、面白そうじゃないか。
「じゃあご飯をさっさと食べちゃおう、ぐずぐずしてるとお昼になっちゃうからね」
僕はコップに少しだけ残っていたコーヒーを一口で飲み干した。
それぞれが支度をして、家をでたのは午前11時の事だった。
「寒いね」明るい配色の傘をさしながらhanaは言った。
「そうだね、冬がもうすぐそこまで来ているんだ」僕は言った。
工事をしている山手通りは車の通行を鈍らせていて、
車の運転手は気だるそうに煙草を吸って信号を見ていた。
そんな雑踏を抜けて閑静な住宅街に入る。
こじんまりとした、けれど店主の趣向が一目で分かるような店が
住宅と住宅の間にひっそりと居をかまえている。
店先には『closed』の看板が下げられている。まだ午前11時なのだ。
住宅街を抜けると代々木上原駅に着いた。
suicaを使って改札を抜けてホームに行くと、そこで初めてどこへ行くのか
という話がなされた。
「小田原に行こう」hanaが言った。
僕はそれに同意して、各駅停車ではなく急行電車に乗った。
小田急線に乗ると、ある地点から田園風景が続くようになる。
僕はそれを眺めるのが好きだった。今回は隣にhanaがいる。
普段とはどこか違って見える風景をバックにして、
僕はhanaをカメラのファインダーの中に納めた。
12時を回りしばらくすると小田原駅に到着した。
空気の密度が東京とは違うように感じる。寒さは変わらないのだけれど
小田原の方が、東京に比べて寒さがリアルなのだ。自然が作り出したリアルな温度だ。
雨は相変わらず降っていた。傘をさしながら歩いていると
雰囲気のいいイタリア料理の店を見つけた。
「ここでご飯を食べましょう」とhanaは言って木製のドアを開けて中に入った。
僕もそれに続いた。hanaは奥の椅子に腰掛けて、着ていた薄手のコートを脱いだ。
中年の女性がメニューと水を持ってテーブルにやってきた。
ランチのセットを頼むと、その女性は厨房に向かってイタリア語で注文を告げていた。
僕たちの他に2組の客がいた。一組はひっそりと話をしていたが、
もう一組の、おそらくは夫婦であるが、
対岸の人に向かってるかのように女性の方が大きな声で話をしていた。
男性はただ頷くだけであった。
シチュー、サラダ、ライス、牛肉と順番に運ばれてきて、
僕はそれを順序よく胃の中に入れていった。非常においしい料理だった。
最後に砂糖多めのコーヒーを飲んだ。
会計を済ませて外に出る時も、対岸の男性に話しかける女性の声が
雨の音に混ざって聞こえた。男性の声はやはり聞こえなかった。
僕たちは小田原城へと歩みを進めていった。
城は駅近くにあった。城を囲んでお堀があり、
城内に入るための赤い橋が雨で白くかすんだ中で静かに浮かんでいた。
入場料を払って中に入ると、戦国時代の甲冑や刀が
巨大なしゃちほこなどとともに並んでいた。
天守閣には土産物屋があった。威厳もなにもない天守閣だった。
城を後にすると、海まで歩く事にした。
地図を頼りに歩いて行くと、風に乗って潮の香りがするようになった。
「海が近くなって来たね」hanaは言った。
国道が海よりも高い位置にあって防波堤の役割をしていた。
その道路の下の一部に小さなトンネルがあって、その先に海が見えた。
それはまるで額縁に入れられた絵のように見えた。
トンネルの暗がりを抜けていくと人がまるでいない広い海があった。
小さく控えめに作られた階段を降りて浜辺に降り立った。
細かく波が立ち、右前方にはカモメの大群が身を寄せあって羽を休めていた。
カモメの世界にも彼らの秩序がありそこで生きているのだと思った。
あまりにも巨大で静かな海だった。
まるで手つかずの生まれたばかりのような海だった。
僕たちは口数も少なくただただ遠くを見ていた。
海の向こうはかすんでいて何も見えなかった。
このような海は今まで見た事が無かった。
「もう行こうか」と僕は言ってその場を後にした。
ふと振り返ってみるとカモメはまだ羽を休めていた。
彼らはこれからどこまで飛んでいくのだろう。
僕の知らない風景を彼らは見るのだろうか。
彼らの秩序は保たれ続けるのだろうか。
僕たちは僕たちの世界へ、傘をさして戻っていった。
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