2010年2月28日日曜日

週末のできごと

金曜、一人でバーで飲んでいるとhanaさんから連絡があった。誘ってみたら来るというのでビールを飲みながら長島有を読み、待った。しばらくすると小雨が降るなか彼女はやってきた。そのとき僕は林家ぺーの姿を認めた。本当に彼の身につけるものはピンク色なのだ。
しばらく二人で飲んでいると、知人が少しテンション高めでやってきて、我々は帰るタイミングを失いつつあった。でも楽しかった。

翌日、上島珈琲で軽食を済ませ原美術館へと行った。僕が原美術館に行く時は必ずと言っていいほどに雨が降る。ご他聞に漏れずその日も雨が地面を濡らしていた。品川乗り換えて北品川駅を下車する。品川女子校を脇に見ながら原美術館を目指した。展示されていたのはヤンフードンの映像だったが、内容がまったく頭に入らずただ頭を抱えるのみだった。時同じくして中学生の団体が見学に来ていて「渋い選択をする学校だな」と思った。

六本木でもうひとつ見たい展示があったけれど、休日に休館するという西欧人のようなギャラリーだったため、しかたがなくミッドタウンをぶらついた。しかしその結果面白いものに巡り会った。ワーゲンがキャンペーンに合わせてスケートリンクを設置していたのだ。僕たちは最初それを見ているだけだったのだけど、これを逃したら一生スケートをやらないかもしれない、という意見で一致して1500円を払ってやってみることにした。果たして、青森出身の彼女はスケートをしたことがなく、僕自身も15年以上氷上を滑った事が無かった。

小さな子供がカラフルなダウンジャケットを着て転んでいる。大人もスーツで転ぶし、カップルは手をつないで転んでいた。僕もおっかなびっくり滑っていたけれどなかなかに楽しいもので童心にかえってリンクを何周も回っていた。夏場のプールのごとく人が集まっていて、快適に滑れたかといえば、まったく逆なのだけれど楽しかった。吐く息は白くとも体は温かかった。

そこを出ると家に帰りハヤシライスを作って食べた。hanaはスケートで尻餅をつきすぎてベッドから動けないでいた。

日曜日。僕の家にはないテレビを見ていると、津波のニュースがやっていた。ご飯を食べながらそれを見ていた。そのうち雲が一面に広がっていた空から太陽の光が漏れだして外出する気力が出て来た。支度をして家を出た。新宿伊勢丹に向かうと人でごった返しており、それは日本人ではなく、中国人や韓国人などだった。ある店のカウンターに置かれた電卓には39万1500円という表示がされていた。おそるべし伊勢丹である。

僕は女性の服を見る方が好きである。なぜならそこには現実味がないからである。単純にかわいいとか恰好いいという目で見るからだ。逆にメンズを見ると実際に自分が着るという当たり前の見方をするし、Tシャツに2万?無理無理と首を横にふる事になる。

そもそもなぜ伊勢丹に行ったのかと言えば名刺入れを探すためであった。20歳から働いているのに一度も名刺を必要とした機会がなかったが、初めて会社員になったので名刺入れは必要であろうという結論に至ったのであった。あれこれ吟味した結果コズミックワンダーの名刺入れが比較的安くてシンプルだったのでそれを購入した。

その後、バーニーズなどを冷やかしていると友人から電話があって近くにいる事が分かり、合流する事にした。4人となった我々の選択肢は比較的一つに絞られていて、また18時ということもあり、立ち飲み屋に行って酒を飲むことにした。妄想はどこまでも肥大して、どこまでも詩を紡いだ。どうやら僕の緊張感というのは伝染するらしかった。

店員のかなり積極的な接客のもと何杯か飲み続けた。そして帰った。

明日から第二のステップを刻む。「踊り続けるんだよ」羊男がどこかでつぶやいた。

2010年2月25日木曜日

写真日記





都内たちみちやにて。カメラ小僧たち

就職活動の記録2

某日、都内某所。
6年前に買ったギャルソンのジャケット、ワイズの極太なスーツパンツ。一歩間違えたら大阪のおばちゃんが着てそうな柄のニットを勝負服に選び面接に臨んだ。ドアベルを鳴らすと一人の男性が顔を出した。「本日面接の機会をいただきました長橋と申します」「ああ、どうぞ」とその人は言い、促されて部屋に入った。室内は30平米ほどの広さで自然光が入って明るく、窓の外には青山霊園の緑が見える。おそらくTRUCKの大きなテーブル。椅子は6脚。テーブルの横には画材が並んでいた。
電話を受けていたADと他に2人も席に着いた。同時に僕も椅子に座る。お茶の入った洒落たカップが僕の前に出された。前日送っていた僕の書類がテーブルに並び面接がスタートした。
「今いくつなの?」
「この前26歳になりました」
「へー前職は◯◯かー、こういうの大変でしょ?情報いっぱい詰め込んでさ」
「確かにそうですね。でも慣れましたね。」
「俺も前に××のADをやってたけどさ編集と喧嘩したもんだよ、余白の美とかないもんね」
こういった感じで話は進んだ。笑いも含んでいて僕の緊張感もちょうどいい具合だった。

ポートフォリオとは別に、自己紹介のための小冊子を作っていた。ADはそれをめくりながら「これ店で印刷したんだ?お金かかったでしょう?」と言った。「いえ、でもポートフォリオだけじゃ伝わらない部分もあると思いまして…」と僕は言った。すると「B型なんだ?」とADは言った。小冊子の中に「静岡生まれのB型」という見出しがあったのだった。「あ、そうなんです」と僕が言うと「うちはB型はとらないようにしてるんだよねー」と愕然とすることを言われた。「書類送られて来た時に『あ、この人B型だ』って言ってたんだよ」言葉を失う僕。
「でもB型っぽくないよね」とADは言った。僕はここをたぐり寄せるしか無いと思い「そうなんですよ、A型っぽいねって言われます。母親がABで父親がOなんで限りなくA型寄りのB型なんだと思います…」と苦し紛れの言葉を紡いだ。それから「俺は何型で父親が何型で…」という話が続いた。

その後「どうして仕事を辞めたのか」とか「フリーで働くつもりは無かったのか」とかを聞かれた。志望動機などは聞かれず「◯◯に住んでたら自転車で通える距離だね」などの話をした。なにか質問があれば聞きますと言われたので、デザインをした現物を見せてもらったり。実際に採用になった場合どのような仕事を担当する事になるのかを聞いた。気がついたら1時間経っていた。

「来週には返事をいたしますので」と言われ、お礼を言って部屋から出るとすれ違いで次の面接者が部屋に入って行った。
僕は思いのたけをすべて出し切り体温が上がっていた。近くにあった喫煙所で煙草を吸うと、1時間前とは少し気分が違った状態になっていた。

1週間後、1通のメールが来て僕はニートじゃなくなった。

就職活動の記録

某出版社のインハウスデザイナー的な存在だった僕は、2009年9月30日にそこを辞職した。翌月から自動車の免許を取りに行った。11月の頭には免許も無事取得できた。すると僕はスーパー暇人になった。

社会とのつながりは、彼女と友人達。しかし四六時中一緒にいるわけでもないので、一人の時間が圧倒的に多かった。起きる時間も昼下がりになったりして、はっきり言って廃人だった。もちろん就職活動はしていた。ポートフォリオ、書類を作って会社に送っていた。返事はまったくなく、ただひたすらに書類を作り直しては送っていた。すると年が暮れた。

見かねた友人は、自身も転職の際に利用したという転職サポートの会社を紹介してくれたりした。前職の給料は辞めてから2ヶ月は支払われていたがお金というのはあっという間に無くなって行く。年も変わって自分の中でもこのままではかなりまずいという意識に苛まれていた。道行く人を見ては「この人もちゃんと仕事してるんだな」とか「お金稼ぐのはほんとに大変なことだな」と思った。そんな時に、毎日見ていた求人サイトに僕の望む仕事をしている会社を見つけた。

求人サイト経由でデザイン会社のサイトを見て、仕事内容に嫉妬したのは初めてだった。こいつは書類を送るしか無いと思い、思いのたけを綴った職務経歴書を作成し送った。1週間が経った頃1通のメールが来た。「書類、作品等を拝見したところ、面接をさせていただきたいと思いますのでご都合の良い時に…」「つ、ついに!」僕の心は小躍りし一番早い時間を希望してメールで返信した。2日後に面接は行われた。

2010年2月17日水曜日

文章を書く事についての考察

文章を書くと心が落ち着くのは、自分と対面する事ができるからだと思う。日記にしても、一つ一つの行動を振り返ることで自分と対面している。難しいことではなく単純に。
人生の中で、こんなにも一人の時間が長い事はなかった。もちろん完璧に一人でいるわけではない。恋人や友達、家族からの電話…そういったものが僕の周りに存在してくれているけれど。

外は雨が降っていて、おまけにすごく寒くてどこにもでかけたくなくなるような、そう、今日みたいな日。家族からの電話で「いつも何をしているの?」って聞かれる。自分が何もしてなくても時間は経つし地球は回転しながら太陽の周りをぐるぐるぐる。宇宙のなかの地球という小さな星の小さな日本のなかで僕は何をしているんだろう。
今はみんなと歩調が合ってないかもしれない。もしかしたら1周遅れてるかもしれない。
けど何かしてる。生きてる。音楽を聴いたり、料理を作ったりしている。
改まって人に言うような事では無いけどそんなことをしている。何かをしている。人が日常で送ることを、その人より丁寧に時間を使ってやってるだけ。

ようやく決まった一つの面接。まだ面接の段階だけれどそういったものを大事にしていきたいと思った。今とは違う場所でなにかをやる。なにかをやることには変わりない。
場所にこだわりをもつよりもなにをやるか。肩書きよりもなにかをできる、なにかを成せるようになりたい。結局裸一貫になったときに残るのは会社の名前じゃなくて自分だから。
もしかしたら大企業に勤められない人間のひがみかもしれないけれど、実際そうなのかもしれないけど、それを認めて自分の足りない部分を認めてから先に進むようにしようと思う。

「下が決まれば上に行くだけだよ」僕が行ってる美容室のおばちゃんが言ってた。
つまりそういうこと。
That's all

2010年2月16日火曜日

ありがとう

2月14日、hanaと二人、新宿の映画館で「抱擁のかけら」を見た。
こういった日常の切り取り方いいなと思わせる描写と、非現実的な部分のバランスの良さというものを絶妙に織り交ぜていた。スペインの映画の傾向なのかこの監督の傾向なのかは分からないのだけど、物語の終わらせ方が不思議だった。
のっけから始まるラブシーンに対して主人公の男性は盲目という、どこか「静と動」を自分なりには感じた映画だった。一番好きなシーンは親子が朝食を食べるシーン。果物や花の鮮やかな色に囲まれていてとてもきれいだった。
映画を見た後、銀座に行った。こじゃれたブティックに入ったりあてもなく歩いたりした。夕飯の予約時間までしばらく時間があったのでエルメスギャラリーに行った。初めてエルメス店内に入った。8階にギャラリーはあった。店員の案内でエレベーターに乗る。新作のオードトワレがあるらしくその香りを楽しんだ。会場にはロウのようなもので作られた人体と思われるオブジェが10点ほどあった。外国人が作品を指差しながらなにやら会話をしていた。

カメラを持った集団が、COACHのショップ前でロゴを色んな角度から撮ってるのを尻目に、隣にあるマツモトキヨシで軽食を買って食べながら、電車に乗って人形町へ行った。「今半本店」である。hanaが予約をしてくれていて個室に通された。私の誕生日会である。
和服を召した妙齢の方が部屋まで案内してくれたのだけれど、他の部屋からはおじさんたちの笑い声が聞こえた。

「この度はお誕生日だそうで、、、」と言って仲居さんが僕にラッピングされたシャンパンを
くれた。その心遣いに驚いた。料理はまず、もずくとショウガの和え物から始まった。一つ一つが丁寧で上品。美味しくいただいた。メインのすき焼きまでいい具合に僕の胃の中を準備してくれて行った。この店はすき焼きを美味しくいただくために仲居さんが取り分けてくれる。その間僕たちは固唾を飲んでその様子を見ているわけだ。

果たして、小皿に取り分けられたそのお肉は生卵と絡まって口のなかでとろけ、しかし噛めば肉汁が広がる絶品であった。味を引き立てるネギなども忘れてはならぬ。「残った卵をご飯にかけていただいても美味しく召し上がって頂けます」仲居さんは素晴らしい情報を我々に提供した。hanaは生卵が苦手であったために僕だけ食したが、肉汁と生卵のかかったご飯はとても美味しいものだった。
高級なお店だと言うのは様々な事に行き届いてるもので、ああ、そろそろお茶が欲しいなと思うタイミングでお茶が出て来たりする。そういったところも抜かりが無い。そしてそのお茶が非常にうまかった。ほうじ茶のような緑茶だった。

デザートに林檎のシャーベットを取り、食事を終えた。店を出ると仲居さんは僕たちが角を曲がるまで見送りを続けてくれた。接客というのはこういうことなんだなと思った。
ほろ酔いの中、家に帰った。

家には、プレゼントされたプレゼントとバレンタインのチョコレート。
happy birthday&happy valentine's day
26歳をお祝いしてくれてありがとう

ありがとう

メモ





2010年2月13日土曜日

26年前のバレンタイン

26年前の沼津では、珍しい雪が降った。バレンタインデーだった。
母親は富士市の病院で帝王切開をして僕を生んでくれた。病室には祖父母4人、父親、2歳の兄がいた。「女の子が生まれてくると思って女の子の名前しか考えてなかったのよ」母親は何年かした後に僕に教えてくれた。果たして生まれて来たのは2900グラムの男だったわけだ。
それでも両親は僕に「優」という名前を付けてくれた。「優しくて明るい男の子になりますように。お兄ちゃんが『翼でたすく』だから、あなたも3文字で『すぐる』ね」名前は願いだ。僕は両親の願いを叶える事ができただろうか?

先日、実家にいる祖父母から荷物が届いた。新聞にくるまれた野菜や果物だった。早速祖父母にあてて電話をかけた。
「おぅ荷物は届いたか?こっちも寒いけどそっちはどうだ?」と祖父が言った。
「こっちも寒いよ、雪が降るしね」僕は答えた。
「就職はどうだ?決まりそうか1.2個送って駄目だからって諦めるんじゃないぞ」と祖父が言った。
「うん、がんばるよ」と僕は言った。祖父が時折小さな咳をするのが気になった。
「また何か送ってやるよ」と祖父は言ったけど僕はいいよと言った。実家の離れで暮らす祖父母の姿が浮かんだ。なんだかとても申し訳ない気持になった。
今年の祖父母の誕生日には何かを送ろうと思ったけど誕生日を忘れてしまった。僕の誕生日は覚えてくれているのにね。
明日は家族に感謝する日にしよう。マイバースデーバレンタイン。
明日は雪が降るのだろうか。

妄想日記

目を覚まして窓の外を見ると世界は雨で濡れていて僕は少し憂鬱な気分になった。
自分の体温で温かくなったベッドの、小さな世界から外に出る事ができないまま僕はサイドテーブルに置いてあったipadを手元にたぐり寄せた。
ホームボタンを押すと、僕が寝てから起きるまでに世界で起きた様々な事象が文字と写真と映像で液晶に映し出される。
どうせ昨日と今日のニュースを入れ替えても対して変わらないいつもと同じ、2018年だ。
部屋の扉の向こうからは煎れたての珈琲の香りがしてくる。母親が朝食の用意をしているようだ。僕はipadを電源プラグに差し込み、スリッパを履いてキッチンへと向かった。
「おはよう」母親は僕に優しい笑みを向ける。「おはよう」僕も答え珈琲を飲む。一日がようやく起動し始める。hello world。
父親はリビングの椅子に腰掛けて珈琲を飲んでいた。寝癖が少し残った髪をかきあげて僕に挨拶をする。「おはよう、調子はどう?」僕はそれにはうまく答えられない。先日テストの事で父親と喧嘩をしてしまったのだ。しかし大人はずるい。昨日の事はまるでなにもなかったかのようにふるまう。僕はまだそのように器用に生きられない。
父親は僕の返事を特に期待していた様子もなくディスプレイをタッチしてページをめくっている。毎朝5時に自動的にダウンロードされるニュースを流し読みしているようだ。
テレビがない我が家ではいつもの光景だ。
母親が用意してくれた朝食を胃の中に流し込む。最後に必ず果物を摂る。今日は林檎だった。
父親は相変わらずディスプレイを睨んでいる。僕はキッチンの流しに食器を置いてさっと洗う。洗面台に行き鏡を見ると父親と同じように寝癖がついていて、鏡の向こうの自分を見て笑ってしまった。
先週の金曜日、テストが終わった後に僕のクラスでは席替えが行われた。ずっと気になっていた女の子の隣の席になったのだ。恥ずかしくて寝癖なんてつけていけない。席替えをして初めての月曜日。今日からあの子とどんな話が出来るんだろう?
少し香料の入った整髪料を髪先につけて、父親の53番をこっそりと首元につける。僕はこの匂いが好きだった。
自分の部屋に戻ってパジャマから洋服に着替える。ipadに宿題のデータをコピーして鞄に入れる。それと体操着、給食着。今週は給食当番だ。支度を済ませるとリビングに顔を出して「行ってきます」と声をかけた。「いってらっしゃーい」間延びした二人の声が揃って聞こえる。
今日からはきっと、いつもとちょっと違う世界。隣の席のあの子にうまく挨拶できるだろうか。先週のテストの結果よりも、僕にとってはそちらのほうが気がかりだった。
玄関の扉を開ける。小鳥の鳴き声が聞こえる。一日が始まる。まだ手つかずの、少しだけ憂鬱な月曜日。

2010年2月12日金曜日

oneday

今朝、マックイーンが死んだ。
ツイッターをやっていると、自分から取りに行かなくても
向こうから情報がやってくる。
今回は哀しいものだった。


週に1度、実家の祖父から電話がかかってくる。
就職はどうなった?
いつも何時に寝るんだ?
決まってこれを聞く。
二つ目の質問に関しては毎回聞くようなものではないので
もしかしたらじいちゃんはボケて来てしまったのかもしれない。
非常に哀しい。


先日、久しぶりに三軒茶屋に行って飲んだ。
具体的には分からないけどかなり久々だった。
店内はいつもの感じで、いつものメンツ。
「久しぶり、元気にしてた?」という会話が何回も繰り返された。
テキーラを数杯飲み、煙草を吸った。
閉店の頃になって、カラオケに行こうという話が出て久々に行った。
しかし、既に朝方だったため、1時間しか使用できなかった。
赤いタンバリンを歌った。
「夕暮れ時って哀しいな」
帰りは渋谷で電車を降りて、歩いて帰った。
その日はカラスもいなくて静かな朝だった。
閉じたままの傘を持って、ひたすら歩いた。

2010年2月8日月曜日

from iPhone














アイフォヌにはいってた画像を載せてみますけどね。
といってもほとんどチームフリスビーですけどね。
順不動なんですけどね。

いまだかつてマニアックラブとオンちゃんが
同じフレームに収まる事があったでしょうか。

2010年2月3日水曜日

おにぎり

僕は冷たいおにぎりが好きだ
別に、コンビニのつめたいおにぎりに慣れているから
というわけではない

小学生の頃のスイミングスクールに、話はさかのぼる

小学生の頃、バス通学だった僕は
バス停で同じ町内の人と戯れながらバスを待っていた
田舎のバスは、何十分も待たなくてはならないのだ

緑色のバスに揺られ自宅近くのバス停で降りる

しばらくしてから、スイミングスクールに行く用意をする
このときに、母親から、100円のお小遣いと
アルミホイルにくるまれたおかかのおにぎりを渡される

大抵それは、帰りのバスのなかで食べることになる
ごはんの水分で海苔がしっとりしているそのおにぎりは、
形は丸く、そして冷たい

しかしそれを家に帰る途中のバスで食べるのは、
ある種の至福を感じる物だった

2010年2月1日月曜日

餃子

僕が通っていた文化服装学院というところは
女の子が多い学校なんだけれども。
必然と女の子の友達が増えるわけであります。
今の僕があるのも、この女性陣たちの荒波、大海に揉まれた結果だと言っても
過言ではな、、いや過言です。

女性の多いところに、「飯」というコンテンツは切っても切り離せないわけで。
いつの頃から、みんなで飯を食べようぜという会が発足しました。
男たちはだまって指定された店に赴くのです。
今年で何度目になるのか蒲田の「歓迎」に行きました。
そろそろマンネリ化しはじめてはいるものの、久しく会う友人もいるので
やはり楽しいものです。

昨年までは一度もでてこなかった単語「婚活・結婚・出産」のワードがでてきました。
そして、下ネタのグレードもかなり変わっていて
人というのは変わるものなのだと思いました。
12時前には、歓迎された店を出て新宿へと向かいました。
道中、数人の友人はそれぞれのロードを歩き出し帰りました。
結果4人で新宿のワタミに行きました。
気の置けなさ爆発。
一人は歴史話に華を咲かせました。古墳についての話。
一人は本当の世界は俺らが見てる世界ではないのかもしれないぜ。という話。
僕はそれらをウンウンと聞いていました。
3時を過ぎた頃だったか、
昼間に2キロ泳いでパンプアップさせてた男の目がうつろになり始め
案の定寝ました。
意外にもその隣に座っていた古墳の彼も寝ました。埴輪にでもなったんでしょうか。

結局その後、埴輪の奥さんと二人で延々とちょっと濃いめの話をしていました。
うーん。人の思考は興味深い。
4時を過ぎた頃店がお開きとなり、スイマーと埴輪を起こしたのだけれど
なかなか目を覚ましませんでした。

奥さんに、無職には払わせられんと言われ、その言葉に甘えさせていただきました。
ありがとうございました。

埴輪夫婦はタクシーで
スイマーもタクシーで
僕は電車で帰りました。
家ではもう一人の酔っぱらいが、すやすやと寝息を立てていました。