2013年10月30日水曜日

その昔、DCブランドブームなるものがあったとき、
僕は生まれたてのホヤホヤであった。
母の洋服屋での販売員経験も相まって、
僕たち兄弟には挑戦的とも言えるような格好を物心つく前からさせられていた。
人と同じ格好はさせたくないをモットーに、
HYSTERIC GLAMOURのキッズライン(FUCKだのSEXだの書かれた服)を、
母はよく着させていた。

今でも覚えているのは、紫色のスウェットトレーナーに、
HYSTERIC MINIの赤ちゃんのキャラがプリントされたものだ。
まだ赤ちゃんに毛が生えた程度の僕が
赤ちゃんがプリントされた服を着ているのだからおかしな話だ。
幼稚園に着ていくのがとても恥ずかしく、
僕は手で前を隠しながら過ごしていたものだった。

小学校を卒業するまでは、基本的に母親が買った物を着ていた。
学校では友人たちはジャージを着て三歩当てやらドッジボールに励んでいるのだけど
僕はやけにカットがこだわっている服を着ていた。
ジャージを着たのは遠足の時ぐらいである。
小学生というのは、周りととけ込む事を最重要項目としている部分もあるので、
僕は母に普通の服が欲しいと何度も嘆願したものだったが、聞き入れられなかった。
アディダスのTシャツを欲しても、
「うちのじいさんが着ているでしょ!そんなの着させられない!」と
訳の分からない事を言われたりもした。

そんな子供だった僕も、中学に入学するに連れて自尊心やら異性の目やらが
気になり始めており、洋服に関しても母に対して意見するようになった。
そして、当時はスニーカーブームやらビンテージブームなどが起きており、
兄が買ってきたBoonを読んでその世界にのめり込んでいった。
初めて自分の意志で買ったのはリーバイスのジーンズだった。
それから、ためた小遣いでせっせと自分で服を買うようになっていった。
中学三年の時、受験をがんばるからNIKE AIR ZOOM FLIGHTを買ってくれと
おねだりをしたことは恥ずかしい思い出である。
高校に入ると服への熱は勢いを増していき、市内にある古着屋を周り、
買う予定もないのに店に入り浸っていたりもした。

2年生の時、進路相談会があったのだけど、
僕はまったく進路が定まっていなかった。
そんな時、今は亡き山本先生が言った「興味のあることをとりあえず書いておけ」という
何気ない一言に押されて「服飾学校」と記入した。
調べていくうちに、ファッション雑誌に携わる仕事がしたいなどと夢見た結果、
親の反対も全くないままに、文化服装学院に入学し、上京した。
長期休みで実家に帰る度に、母は「東京にいるくせに面白くない格好だ」
などと僕の服装にケチをつけた。
しかし、本当は、僕の帰省時の格好を楽しみにしていたと、
母は僕の結婚式の時に語ったのであった。


結局のところ、父がなりたかったグラフィックデザイナーという職業に就き
母が僕に与えてくれたファッションへの憧憬が
今の僕を形作っている訳である。
なんとうまく配合された息子であろうか。

そんな僕は、今H&Mの服を着ているのだけど、
母にしてみたら、やっぱりつまらなく映るのかもしれない。
「東京にいるんだからもっと攻めた格好しなきゃ」
母の叱咤激励はいつでも若い。

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