2012年8月30日木曜日

last day

旅が日常と違うことは、終わりがあるということだ。

トルコの旅も最終日を迎えた。
シャワーを浴び、身支度を整え、荷物を整理する。
旅の途中からはメッセンジャーバッグは使わなくなり小さな手提げバッグのみだった。
旅に慣れると荷物がミニマムになっていくようだ。

日本人の精神に乗っ取り、立つ鳥跡を濁さず。ゴミをまとめベッドのシーツなどを直す。

ホテルの食堂で朝食を食べる。
隣の複数のテーブルには日本人の観光客の姿があった。
どうやらツアーでこのホテルに宿泊しているらしい。
そのほかには、外国人の老夫婦が新聞を広げている姿がある。長い間宿泊している様子だった。
一度部屋に戻り、荷物をロビーに預けチェックアウトをした。

2、3日でイスタンブールのすべてを回ることはむずかしいが
最後に行っておきたいところに行くことにした。

エジプシャンバザールは、グランドバザールと違って食品を多く扱っていた。
ここでも陽気なトルコ人たちがあの手この手で、我々に声をかけてきた。
しばらく歩いていると、えどまっちゃんの店と書かれた土産物屋があった。
そこにはGLAYのTAKUROやサッカー選手の稲本などの写真とサインが飾られ
日本人に対して友好ですよ、とアピールされていた。
果たして、やはり日本語を話すことの出来る店員がおり、僕たちはまたたくまに店の地下へと案内された。

地下では所狭しと陶器が並んでおり、サイズや柄も豊富だった。
お土産をまったく購入していなかったので、この店でまとめて探すことにした。
一人一人の顔を思い浮かべながら、一通り選び終えると、
店員は、達者な日本語でトルコ石のうんちくを語り始めた。
「ここで買わなくても、いずれ買うとしたら知っておいた方が良いですよ」と彼は言った。

トルコ石には大きく分けて3タイプあり、
天然のもの、アンティークのもの、合成ものがある。
彼はそれを一つ一つ丁寧に説明してくれた。
母親にいいものをプレゼントしようと思っていた僕は、
天然のトルコ石を使ったイヤリングを買った。
「そんなに早く決めて大丈夫?」と彼は言ったが
僕には迷いもなく、それに決めた。時間をかければいいということでもないだろう。

彼はここぞとばかりに物腰柔らかく次の商品を売り始めた。
からすみである。
さりげなく試食をさせ、飲み物まで提供する。
ホスピタリティとは違うのだろうけど、なかなかに親切である。
「お酒のおつまみにいいですヨ」
と東京の王子に在住していた際に身につけたディープな日本語で、我々の財布のひもを緩めさせる。

結局、トルコ石、ハンドメイドの陶器類、からすみを購入した。
その後、兄弟がやっているというお店にも案内されたけれど、
冷やかすだけにとどまった。

店を出ると、一通りバザール内を回って、外に出た。
イスタンブールでの楽しみなことの一つに、サバサンドを食べることがあった。
少し甘みのある味付けをして焼いたサバを、
シャキシャキのたまねぎなどと一緒にパンにはさんで食べるもので、テレビ番組でも紹介されていた。
フェリー乗り場の方へ向かうと、フェイクなクラシック感がただよう船の上で
サバが山積みにされ、ひたすらに店員がパンにそれを挟んでいた。
どうしてそれを船の上で作っているのか、謎ではあった。
サバサンドを作る人と、客からの注文を受けて作る人、
それぞれが海の上で対応しているわけで、どんぶらこと揺れ続けているのであった。
体幹が鍛えられるんだろうな、などと思いながら僕たちはそれを注文した。

屋外に並べられたテーブルに座っていると、子供たちがティッシュを売りにきた。
彼らにとっては生きるすべなのだろうが、断った。
中には強者がいて、いらないと言ってもテーブルに置いていくという技を使っていた。
客のなかには、(特にフランス人っぽいのだけど)露骨に嫌な顔をして
鬱陶しそうに追い払っていた。
そんななかでも、仕組みというものが存在するらしく、
ゴミ掃除をする店員と、その子供たちが絶妙に協力しあっていたり
なんとも不思議な光景だった。
肝心なサバサンドの味はというと、日本風のいわゆるサバであり、
日本で流通させても流行るのではないかと思った。


その後、ホテル付近の土産物屋を物色し、ガラスでできたランプを二つ購入した。
もはやトルコリラの大処分である。
ホテルへ戻ると荷物をピックアップし、空港まで送ってもらった。
来た時とは逆の流れで景色を眺める。
海辺の芝の上では家族が手をつなぎ歩いている。
ゆるりと流れる時間のなかを僕たちは逆走していく。

空港につくと、荷物検査を通って中へと入る。
日本では手荷物検査でフィルムをハンドチェックしてもらっていたのだけど、
もはやトルコの人にはなにを言っても通じない。
ハンドチェックプリーズと言っても無言で赤外線チェックのベルトコンベアーに載せられてしまった。


トルコ空港のチェックインカウンターで手続きを済ませると、
アイリッシュバーでビールを飲んだ。
ここでもエフェスビールは美味しい。
長かったような、短いような、思い出を反芻する。
僕にとっては、片時も離れる事なく1週間一緒だったという事自体が素晴らしい時間であった。


搭乗の時間となって、機内に乗り込むと、また12時間のフライトが始まった。
僕はなぜかなかなか眠ることができず、3本も映画を見てしまった。
隣ではHANAがトルコのガイドブックを読み直していた。
なんともかわいらしい姿だった。まだまだ楽しみたかったのだと思う。


果たして飛行機は無事に我々を日本へと運んだ。
飛行機を降り、荷物をピックアップする間、母親に電話をし、無事に帰国したことを伝えた。

都内へ戻るバスで家の近くまで行くのはウェスティンホテル行きだった。
その手配をし、外に出ると日本特有の湿度の高い世界が僕たちを待っていた。
しかし思いのほか暑くはなかった。バスには数組しか乗車しなかった。
ウェスティンホテルにつくと、タクシーで家まで帰った。
家に着いた頃には、僕の眠気もマックスに達しており、
ラーメンを食べに行こうなどと言っていたのにベッドに突っ伏してしまった。


旅が終わると日常が待っている。
住み慣れた家、使い慣れた家具。
旅に出る前と、帰ってきてからの我々を包む空気は、
同じように見えて少し変わったかもしれない。
見た目ではわからない部分で、静かに鼓動を始める。


これからは旅にも似た日常を送ろう

2012年8月16日木曜日

7th day



世界の観光地として、イスタンブールが高いランクに位置している理由はいくつかあるのだろうけど、実際に訪れてみて思ったのは、町中にある歴史的建造物が多くあるなかで、適度に近代化され、ツーリトを受け入れる体制が、ホスピタリティが備わっていること。そしてまた、トルコ人たちの明るさに他ならないと思う。
トルコは自給率が100%とも言われている。
広大な土地に加えて、海もある。
また、政教分離を取り入れているという事から、イスラム教国でありつつ、適度に自由な部分があるようである。
国の豊かさが、人の表情に現れている。
微笑みの国はタイかもしれないけれど、トルコもなかなかである。


イスタンブールの魅力はモスクなどの歴史的建造物ばかりではない。
若者が集う町もある。
新市街と呼ばれるそのエリアでは、オールドスクールなトラムが路面を走っている。
イスティクラール通りには、欧米のアパレルショップや、デパート、おしゃれなカフェなどがいっぱい並んでいた。
僕は靴屋に入って、みた事のないニューバランスの型を見て興奮したり、
老舗のロクムの店で乙女と化していた。
しかしながら、原因不明の腹痛に見舞われていて、
デパートでトイレに行ったり、デパートでトイレに行ったり、した。

町を歩いていて気になったのはグラフで、ところどころにペインティングがされていた。
この一帯はアーティストが集まる場所らしく、張られているポスターもどこか洒落ていた。
通りを下って行くと、ガラタ塔と呼ばれる町のランドマーク的な建物があった。
入場料を払って頂上まで行くと、イスタンブールの町を360度見渡せた。
高いところから町を見下ろすと、数多くのモスクがあることが改めて良く分かった。
塔を降りた所にあるちょっとした広場で休んでいると、
人懐っこい子猫が、僕の足の上に乗ってきた。
遊んでくれと言わんばかりにツンツンしてくる姿がなんとも愛らしい。
そんな僕たちの姿を見た一人旅らしき青年が、
僕の側に座っておこぼれを頂戴するかのようにその猫に求愛の視線を送り手を差し伸べていた。
しかしその愛は届かなかったらしく、子猫はどこかへ駆け出して行ってしまった。



一旦ホテルに戻り休憩をしてから、トプカプ宮殿へと向かった。
旅のお供、地球の歩き方によると、オスマン朝の支配者の居城とのこと。
そこにはハレムと呼ばれる場所がある。
読んで字のごとく、王様が女性を囲っておくところだ。
しかしながらイスラムの掟によって、王様は直接女性と顔を合わす事はなかったらしい。
どことなく優しい色使い。繊細な模様。
窓枠一つ、壁一つとっても、どれもかわいらしく、素晴らしかった。
豪華絢爛で、均整がとれているなかにもどこか不揃いな部分も有り、人のぬくもりを感じた。

ハレムをでて、芝のある広場に行くと、欧米人たちがめいめいの格好でくつろいでいる。
カップルで芝生に寝転がりながら、本を読んでいたり、股に手を添えたりしていた。
僕たちも欧米人に習って芝生に寝転がり、空を眺めてみた。
空が青い。トルコ人はこんなにきれいな青空を見ていたから、きれいな青いタイルをつくることが出来たんだと思った。

すっかり浸っていると、警備員の人に寝転がるのをやめなさいと注意される。
向こうにいる欧米人はいいのか?といぶかりながらそこを後にした。



時刻は7時を過ぎた。
アジアサイドに行くべく、フェリー乗り場へと向かう。
ツーリストや地元民でごった返している。
僕たちはフェリーの最後尾に陣取って、沈みつつある太陽を眺めていた。
カモメがエサを求めてフェリーの後を追ってくる。
近くにいた子供がパンをちぎって空高く投げた。
カモメはうまいことそれをくちばしでとらえると、満足げに羽を広げ遠くへ飛んで行った。そんな姿を子供の両親は肩を組んで微笑みながら見ていた。


アジアサイドにつくと、しばらくベンチに座って通り行く人たちを眺めた。
日が暮れていく。
僕たちにとって最後のトルコの夜だ。
これまでの旅行の思い出を二人で語り合う。
カッパドキアの衝撃。気球から見た圧倒的な景色。
パムッカレの神秘的な白い世界。
荘厳なビザンツ建築。
魅力が溢れた国だった。
ふと広場に掲げられた巨大なトルコの国旗が目に入る。
赤い地に、星と月が形取られている。
よくよく見ればなんともロマンチックな国旗だ。
(しかしながら調べてみると、どうやら血の赤らしい)

夕飯を取ろうと、町を歩く。
至る所に猫がいる。
どうやら、町の人が餌付けをしているらしい。
魚屋の排水溝の中から子猫が何匹も出てきて親猫とじゃれ合っていた。
屋根にいる猫に向かって肉のかたまりを投げている女性もいた。
カモメがするどい目つきでその肉を狙ってもいた。

アジアサイドはヨーロッパサイドに比べて客引きがしつこかった。
そしてまた、ホームレスの姿が目についた。
こどもがティッシュを売りにきたり、物乞いをしている。
豊かそうに見える側面では、そのような現実もあった。

一通り歩いて、適当な店に入ってみたが、メニューに英語表記がなく読み解く事が出来なかった。
苦肉の策として、地球の歩き方に載っていた写真を見せて、照らし合わせるという荒技に出た。
声のでかい店のマスターはなんとか理解してくれて、厨房に発注した。
そのあとはなんとなく注文するのが億劫になってしまい、食べ物もそこそこに店を出た。

フェリー乗り場へと戻り、チケットを買おうと券売機にお金を入れるが全く反応しなかった。
軽いパニック状態になっていると、トルコ人のカップルが手助けをしてくれ、
係員を呼んでくれた。
笑顔だけ残して彼らは行ってしまったけど、トルコでは何気ないこういった優しさに
何度も触れる事が出来た。


フェリーに乗って再びヨーロッパサイドへ戻る。
路面電車を使いホテル付近まで行くと、ラマダンが始まったことを祝うためのイベントが行われていた。
ブルーモスク付近では日本のお祭りのように屋台が100メートル以上も並び、にぎわっていた。
一通り眺めてからホテルに戻った。


トルコ最後の夜が終わった。



6th day


まぶたの向こうで、ぼんやりと赤い光が見える。
意識が覚醒するにつれて、その光ははっきりと輪郭を持ち、やがていくつものランプになった。
目が覚めても、しばらくはベッドに横たわったまま、僕はそのランプの集合を見つめている。
朝日が差し込む部屋のなかでそれらのランプは、夜に比べて少し存在感をなくしている。

HANAが支度をしている横で、僕はいつも初動が遅い。
HANAが化粧を終えて、あとは髪を乾かすだけ、というタイミングになって初めて僕は着るTシャツを選び出す。
とは言え、手持ちの服は限られているので5分もあれば出かける事が可能であるが出かける直前になってトイレに行きたくなるのが常だ。

朝食は、ホテルのレストランでとった。
フルーツが豊富で、ヨーグルトとともに食べるととてもおいしい。
食後にHANAはチャイを、僕はコーヒーを飲んだ。
斜め後ろで、新聞を読んでいたトルコ人が話しかけてきた。
「日本の方ですよね?私、日本語を勉強してました」

トルコ人は勤勉だ。そして日本人に優しい。
その昔、1890年、和歌山県沖でトルコ人の船が座礁したのを、日本人が自分の身を削ってまで助けたという出来事があった。
それは現代まで語り継がれ、トルコでは教科書にも載っているらしい。
また、イラン戦争の際にも、トルコは日本人に対して尽力した。
トルコは日本に受けた恩を、今でも忘れずにいてくれているようだ。


僕たちに日本語で話しかけてきたトルコ人は、その後も現れた。
ホテルを出てブルーモスクに向かっている途中、「日本人ですか?」とおじさんが話しかけてきた。
観光客を狙った犯罪が多いから気をつけて、とホテルで言われていた僕たちはその言葉に警戒した。
僕は軽く無視をしていたのだけどうやら、ただ単に会話をしているだけのようだ。
そのうち、名刺を差し出してきた。
そこには『HIROSHI』と書かれていた。
もちろんトルコの名前が脇に書いてあったが、日本の名前も営業用として使っているらしい。
空港からホテルへ送迎の仕事をしており、彼女が日本人だという。
とても日本語が上手で、彼がその日本人の彼女と別れそうだということもよくわかった。
限りなく無害であり、また、ブルーモスクをバックに写真を撮ってくれたり、この辺には怪しい人もいるから気をつけて、と助言をしてくれた。
僕の頭のなかでは「そんなヒロシにだまされて」がリフレインしていたけれど、ブルーモスクには今の時間をさけたほうがよいというので、プランを変更し、グランドバザールへと向かう事にした。





グランドバザールは、チープな表現になるが上野のアメ横のようなものである。
歴史と規模は当然グランドバザールのほうが圧倒的ではあるが、雰囲気はとても似ている。
ここでも日本語が堪能なトルコ人が、人懐っこく接客してくる。
「落ちましたよ」と言われても振り返らず「落ちてないよー」と答えた。
なぜか僕の股間を狙ってくる輩もいたが、バザールの雰囲気を堪能した。
HANAは、全身タトゥーだらけのアクセサリー職人の店でイヤリングを購入していた。

歩みを進めて行くと、問屋街のような雰囲気の場所に出た。
トルコでは、そういったところが多いように思う。
ただひたすらにジーンズを売っている一帯があり、軍服を売っている一帯があった。
そんな場所を抜けて行くと、少し風が強くなっていった。
「もしかしたら海が近いんじゃない?」とHANAは言って、鞄からガイドブックを取り出し地図を見た。
「ここを真っすぐに歩くと海があるよ」
そう言った彼女の歩くスピードは少しだけ早くなった。
やがて空にはカモメの姿が見えるようになり、船の汽笛が響いた。

「海だ!」
二人は小さく叫んだ。
青い海にはアジアサイドとヨーロッパサイドを結ぶ船が碇泊している。
海の向こうには、茶色い屋根が連なり、所々でモスクが佇むアジアサイドが見える。
港付近のベンチで、現地のカップルに混じって海を眺める。
日差しは強いけれど、風が心地よい。
カモメがエサを狙って海面すれすれを飛行している。
知らない言葉が行き交う場所で、とても気持ちのよい時間を過ごした。
「私、この町が気に入ったわ」
HANAはどこかで聞いたことのある台詞を口にした。
僕もそう思った。

露天でムール貝のピラフが売っていたので食べる事にした。
2つだけ食べれれば良かったのだけど、食べては手渡され、食べては手渡され、と繰り返し結局10個くらい食べる事になった。
その分お金は取られるわけである。





礼拝の時間が過ぎた頃、ひとまずアヤソフィアに行く事にした。
アヤソフィアはキリスト教の聖堂として建立されたが、後にオスマン帝国によってモスクとして改められてしまったという過去がある。
その際、キリストのモザイク画などを塗りつぶしてしまったのだが、後にアメリカの調査団が入り、それらを発見した。
現在は美術館として解放されているので見学が可能だった。
中を見てみると、トルコ語のカリグラフィに混ざって、キリストを抱く聖母のモザイク画があって、とてもおもしろい。
時代をくぐり抜けてきた重みをとても感じる建物だった。





アヤソフィアを出ると、地下宮殿へと行った。これは過去貯水池として作られた場所。
何本もの柱が幻想的に並んでいて、一番奥の柱にはメデューサの顔があった。
そこを出ると、エジンプシャバザール、小さなモスクや海を眺め、待ちに待ったブルーモスクへと向かった。
町の中心にそびえるそれは、ほかの寺院と違って尖塔が4本ではなく6本あるのが特徴らしい。
重厚な作りと繊細なステンドグラスの作りがとても美しい。
丸い天井は、イタリアで見たドゥオモのクーポラを思い起こさせる。
モスクの中は信者が入る事のできるゾーンと、一般人のゾーンで別れていた。
礼拝の時間は終わっていたのだけど、ぱらぱらと人は残っており、各々が壁に向かってお祈りをしていた。

ステンドグラスの柔らかい光が辺りを包み、礼拝のお経が響く。

初めてイスラム教の礼拝を目にして、とても厳粛な気持ちになった。


モスクを出ると、日も暮れかけてきたので食事をとった。
時刻は8時を過ぎていた。
陽気なトルコ人の働くレストランで、トルコワインをボトルで、また数種類の魚を使ったプレートを注文した。
トルコ人のウェイターは皆男性だったのだけど、執拗に僕に絡んできた。
そもそもどこにいっても僕は絡まれた。
美術館でチケットを買ってもクスクス笑われ、ウェイターはにやにやして僕の肩を揉んだ。
不思議とHANAには絡まない。
どうしてだろう。
宗教的に女性に絡む事は御法度なのだろうか。
店を出るときもトルコ人ウェイターはさりげなくボディタッチ。
楽しげに違うテーブルへと移って行った。

ボトルを一本空けた僕たちは、しばらく散歩をすることにした。
ライトアップされたモスク。
翌日からラマダンと言われる断食に入るので、雰囲気がどこか違った。
僕の勝手なイメージでは、断食はとてもつらく、厳粛に行われるかと思っていたのだけど、日本で言えば、夏のお祭りのようなもので、モスクの尖塔と尖塔に電飾で文字が渡り、パレードでも始まるかのような盛り上がり方であった。
ブルーモスクの前の広場ではツーリトや地元民が酒を飲み、語らっていた。


僕たちはホテルへと戻った。
途中、ホテル手前のレストランのウェイターにまたしても絡まれた。
HANAには絡まない。
肩を組んで、写真を撮れという。
限りなく無害で愉快なトルコ人たち。
町を歩いてても思ったのだけど、男性同士がとても仲がいい。
同性愛的な雰囲気ではなく、和気あいあいと日本の中学生のように無邪気な様子だ。
僕はそんな距離に戸惑いを感じながらも、トルコという国がとても好きになった。

すぐちゃんはスルタン。
恐れ多いよスルタン。


2012年7月30日月曜日

5th day



「もしかして、日本人の方ですか?」
パムッカレからセルチュクにバスで移動し、
さらにそこからエフェスへと向かうワゴン車の中で、唐突に話しかけられた。
トルコにおいて、日本人以外に日本語で話しかけられる事はしばしばあることだったので
また陽気なトルコ人かと思って振り向くと、
果たしてそこには、そのまんま日本人がいた。
「日本人ですよ」と答えると、
「良かった、一人で少し心配だったんです」とその男性は答えた。
話をしてみると、一人で旅行にきており、まだトルコに到着したばかりだったらしい。
エフェスに向かう間、トルコにおいては少しだけ先輩の我々が彼の疑問に答えていた。
彼の名前はタケダさん、と言った。
パーティーに一人加わった。

目的地に到着すると、浅草寺前の土産物屋が並んでいる通りのように
さまざまな店があった。
当たり前のように日本語を駆使して、僕たち3人を店に誘導しようとする。
ある人は「落としましたよ」と言う。
日本人はこれを言われると確実に足を止めて振り向くらしい。
ある人は「そんなの関係ねえ」と言う。
日本人はこれを言われると足は止めずに笑って通り過ぎる。
ある人は「あるある探検隊!」と言う。
日本人はこれを言われると、全部ちょっと古いぜ、と思った。



エフェスは、都市として成り立っていた遺跡が、
かなり保存状態の良いまま残されていた。
タケダさんとともに、我々は灼熱の太陽が照りつける中、歩を進める。
見渡す限り、すべて遺跡だった。
ちょっと腰掛けた石も、その辺に横たわっている柱も、
紀元前16〜11世紀のものだという。
当時、図書館や劇場、議事堂などの施設があったといい、
実際に、当時使われていたトイレというのもこの遺跡のなかにはあった。
また、勝利の女神のニケのレリーフもあった。
いわずもがな、ナイキの由来の女神だ。

慣れぬ石畳と、暑さでかなりバテていた。
常に持ち歩いていた水は、誇張でなくあっという間にお湯と化した。
とりあえず、最後まで上りきろうと鼓舞し、
入ってきたのとは逆側のゲートまで向かった。

そこには土産物屋があり、なかではスムージーを売っていた。
実にうまい商売である。
土産物はまったく見ず、すぐさまスムージーを注文し、木陰で飲んだ。
その付近では、無人でスプリンクラーが稼働しており、植物に水をかけていた。
僕も暑さが限界だったのでその水を浴びた。


タケダさんと歩きながらいろいろな話をした。
最初は少し当たり障りのない話をしていたのだけど、
そのうち日本にいる恋人のことや、少しだけ突っ込んだ話もした。
二人で映る写真がないだろうから、と何度も写真を撮ってくれた。
トルコで日本人の優しさに触れた。

一通りエフェスを堪能した後、僕たちはシリンジェ村へと向かう事になっていた。
タケダさんとは連絡先を交換してバスターミナルで別れた。
シリンジェ村へと向かうバスを見つけ出し、ワゴン車に乗って移動した。
シリンジェ村は、かわいらしい町だった。
ワインが有名なこの村は、山に沿って家々が建っており
土産物屋や食堂が並んでいた。
この村では女性が働いている姿をよく見かけた。
とは言っても店先で織物をしたり、店番をしてるといったふうだった。
時間に限りがあったので、街全体を見渡せるレストランに入り、
食事をし、ビールを飲んだ。
犬が僕の足下でちょこんと座っていてかわいらしい。
世界遺産に登録されそうだというこの町に、もう少し身を止めておきたかった。

ターミナルまでワゴン車で戻ると、
イスタンブールに向かうために、イズミル空港行きのバスに乗る。
HANAは座席に座る事ができたが、僕はワゴン車に立ち乗りという格好だ。
地元の人にとってはちょっとそこまで行くバスと言った風で
なんの変哲もないところで何度も止まっていた。
一人のおじさんが手招きし、席を譲ってくれた。

HANAは疲れきってしまったようで、
隣に座っているトルコ人の男性の肩に体を預け、すやすやと眠っていた。
バスが不意に揺れ、HANAが目を覚ますと、
そのトルコ人の男性は実にナチュラルにウインクをし
どこからともなくおしぼりを差し出した。
なぜおしぼりだったのかは分からないが
「独身のときにこれをやられていたら…」と後日談でHANAは語った。
トルコ人のホスピタリティは素晴らしい。

結局のところ、空港に行くのは我々二人だけだった。
しかしそのワゴンバスは空港までは連れて行ってくれず、
すごく中途半端なところで止まった。
それを待ち構えていたかのようにタクシーが我々に近寄ってきて、
まんまと僕たちはそれに乗った。

空港について、搭乗手続きを済ませた。
隣のカウンターでは、5〜6人の客がスタッフに食ってかかって怒鳴り散らしていた。
僕たちの前に並んでいたおじさんは
「暑いからあんなふうに怒っちゃうんだよ」と言って笑っていた。
小腹が空いた僕は、バーガーキングで巨大なセットを注文した。
空腹でも人は機嫌が悪くなるのだ。


登場時間になり飛行機に乗るとあっという間に眠りに落ちた。
1時間程度のフライトにも関わらず、食事が出てきて
僕はまったく食べる事ができなかった。

イスタンブールに到着すると、タクシーに乗って予約してあるホテルへと向かった。
タクシーのおじさんは老眼で地図が見えずらかったらしく
途中、タクシー仲間の人に道を聞いたりしてなんとかたどり着く事ができた。
HANAが予約したホテルは天井からたくさんのランプが吊り下った
なんとも素敵なホテルだ。
内装もとてもかわいらしく、旅の最後を過ごすにはとてもいいホテルだった。


ベッドに仰向けになり、天井から吊り下ったランプを数える。
所々、電球が消えているところがある。
全部点いていたら、まぶしいでしょ?という
トルコ人のホスピタリティなのだろうか。
いや、きっと、たぶんそうではないだろう。


2012年7月29日日曜日

4th day



意識の遠くの方で、話し声が聞こえる。
しかしながら何を言っているのかわからない。
自分はいまどこにいるんだっけ?
意識を覚醒させると、そこはバスの中だった。
隣ではHANAが小さな座席の中でうまいこと自分の体をフィットさせて眠っている。
話し声はバスの乗務員で、サービスエリアに着いたから降りろ、と
どうやら言っているらしい。

寝ぼけ眼でバスから降りると、この旅で一番異国を感じた。
今までいたカッパドキアで見た人々とは明らかに種類が違った。
着ている服も、元々イメージにあったイスラム教徒らしい格好で
また、どことなく威圧的なものを多少なりとも感じた。
ただトイレに行くだけだったのだけれど、恐怖を感じていた。
ネオン管が看板を彩り、どこかパレードのような雰囲気の中、
行列のできたトイレに入った。

トルコでは基本的にトイレが有料だ。
大抵1トルコリラを払わなくてはならない。
入り口の前には料金を払う有人のボックスがあり、
払わないで入ろうとするものなら
言葉が分からなくても通じるような威圧感で払わせる。
イスタンブールの町中を走るトラムと呼ばれる路面電車の料金が、
一律2トルコリラで、ミネラルウォーターの値段も、大抵1〜2トルコリラだった。
チップという意味でも結構高い料金だ。
また、トルコのトイレでは紙を流すことができない。
用をたしたあと、備え付けのボックスに拭いた紙を捨てるのだ。
僕は使う事はなかったけれど、バケツに水が汲まれており
その水を使って手でお尻を洗うという方式もあるらしい。
世界にはそれぞれのトイレ事情があるが、日本はかなり進んでいると思う。


恐怖で尿道が縮こまる中、トイレを済ませいそいそとバスに戻った。
それからも2〜3度サービスエリアにとまったのだけれど、
やはり町にいるよりも妙に異国っぽかった。
どうしてかは分からない。


途中、大型バスから小型のワゴンへと移り、かなりのハイスピードで進んでいった。

カッパドキアを出発したのが8時頃で、パムッカレに到着したのは朝方だった。
待合所で待ってろと、バスの乗務員は言っていたけれど、
海外渡航の多いHANAは、どこかうさん臭さを感じたらしく
荷物を持ってそこを出て行った。
「あれはホテルを斡旋するために乗客を残していると思う。
お金ももう払っているし、ここにくる途中に私たちが泊まるホテルが見えたから、
歩いて行きましょう」とHANAは言った。

パムッカレはどことなく僕の地元に雰囲気が似ていた。
もちろん家の作りなどはまったく違うし、遠くに山が見える訳でもないのだけれど
妙に安心する雰囲気だった。
10分ほど歩くと、ホテルが見えた。
敷地内にあるプールの脇を抜けてフロントに行くと、
まだ時間が早すぎたためにチェックインができなかった。
同じバスに乗っていた中国人の男性も、
同じ事を言われたらしく、目が合うと肩をすくめていた。

旅人は決まって同じ事を聞いた。
「どこからきたの?」
「日本です」と答えると、「数年前まで住んでいましたよ」と彼は答えた。
「日本の漫画が好きです。ナルト。知ってますか?」と彼が言うので
「私の勤めている会社がそれを出版してますよ」とHANAは言った。
彼は目をまん丸くし、驚き、また喜んでいるようだった。
偉大な出版社である。


チェックインまで2時間近くあった。
それまでの間、荷物を置かしてもらう事にして近所を歩く事にした。
商店らしいものはあるのだけど、閉店しかけているような外観だったり
さびだらけの車が放置されていたり、野良犬がふらふらしていた。

時間がとてもゆっくり流れている。

どこからともなくパンを焼く香りが漂ってきたので、
匂いのもとをたどると、小さなパン工場があった。
地元の人は皆そこでパンを買うらしい。ひっきりなしに人が出入りしている。
入り口の前で「日本人ですか?」とスーツを着たおじさんに日本語で声をかけられた。
「そうですよ、こんにちは」と日本語で答えると、
「ここのパンがおいしいから買ってみて」と手招く。
焼きたてのパンが1トルコリラ程度で買えた。
早速食べてみると、ホクホクとしていて、ごまの香りも効いてとてもおいしい。
おじさんの奥さんが日本人らしく、日本語が堪能だった。
話をしていくと、おじさんはどうやらバス会社を経営していて、
僕たちがパムッカレの次にセルチュクに向かう事を告げると
うちで手配すればいいよと言った。
交通手段を決めていなかったので、おじさんを頼る事にした。
車に乗せてもらうと、数分走ったところにおじさんの会社があった。
その目の前には「ラム子の店」と日本語で書かれた日本食屋があった。
「それがうちの奥さんの店だよ」とおじさんが言った。

バスの手配を終えると、散歩を続けた。
どういうわけか、トルコではおじさん、もしくはおじいさんが家の前や店の前で
ぼけーっと座っていることが多い。
かといって、女性が働いているというのを見かけなかった。
どのようにしてこの国の経済が回っているのか、
トルコの七不思議のうちの一つだと思う。

散歩を終えホテルに戻ると、朝食の時間が始まっており、
オープンエアのレストランで皆が集まっていた。
チェックインはしてなかったけれど、コーヒーは飲んでもよいと言われたので
空いてる席に座って待つ事にした。

チェックインを済ませると、部屋に案内された。
ベランダが付いていてかわいらしく、モダンでなかなかいい雰囲気だった。
荷解きをして準備をすると、早速パムッカレへと向かった。
ホテルから歩いて行ける距離にそれはあった。
途中、ラム子の店に寄って昼食を取る事にした。
先ほど旦那さんにお世話になった旨を伝え、
僕は鳥の生姜焼き、HANAは鳥の唐揚げを注文した。
イスラム教の国では豚料理は御法度なのだ。
昼だけど、ビールを注文した。
ここで飲んだビールが一番おいしかった。
どこでもほぼエフェスビールしかないので一緒なのだけど、
冷え具合が違った。
キンキンに冷やすのがうまい、
という日本人の好みを知っているのはさすがである。


食事を終えると、入場料を払いパムッカレの中に進んで行くと、
果たしてそこは真っ白な世界だった。
黄泉の国があるとするならこんなところなのかもしれないと想像した。
世界遺産に登録されているパムッカレは、石灰棚でできており、
頂上部分から階段のように何段もフラットな部分が自然発生し、
そこにはきれいな温泉が溜まっていた。
自然が作り出す芸術にただただ感動した。

土足厳禁のため、サンダルを脱いで純白の世界を歩く。
雲の上にでもいるかのような感覚に陥る。
足下を温泉が流れて行く。
服の下に水着を着込んでいたので、
水のないところで服を脱ぐと、荷物を置いて温泉へとダイブした。
小さな滝のようなところで温泉に打たれ、
また、岸壁のギリギリの部分まで行って広すぎる世界を眺めたりした。

頂上までたどり着いて、下の方を眺めてみて全景をようやく知る事ができたのだけど
ここに来れてよかった、と心から思える光景が広がっていた。
美しすぎる世界だった。


パムッカレの頂上にはヒエラポリスという遺跡があった。
そこには円形劇場や宮殿の柱などが残されていた。
また、珍しいものがあった。
ローマ帝国の遺跡跡に温泉が湧いており、そこがアンティークプールとして
泳ぐ事ができるのであった。
入ってみると、本当に水の下に遺跡があった。
倒れた柱にはびっしりと藻が生えていたり、ある部分からは実際に温泉が湧いており
そこからは発泡しているらしく炭酸のようだった。
足がつかない程深いゾーンがあり、そこでひとしきり泳いだ。

着替えを済ませて歩いていると、Dr.フィッシュのデモンストレーションがやっていた。
HANAはやったことがあるとのことだったのだけれど、
僕は経験がなかったので、やってみることにした。
説明を受けてDr.フィッシュのうようよ泳いでいる水槽に足を突っ込むと
当たり前なのだけど、吸い付いてきた。
思わず声にならない声を上げてしまう。
経験した事のない感触に足を引き抜こうとするとスタッフの人が動いちゃだめだと制す。
そして笑いながら「5分おまけしちゃおう」と言って向こうに行ってしまった。
慣れてもどこか慣れきらない。
擦りむいた箇所を必要に吸い続けるドクターには閉口した。
果たして角質がとれてキレイになったのか、疑問は残りつつそこをあとにした。


帰り道もパムッカレを通った。
若干、日が暮れかけていて、うっすらとオレンジ色が純白の世界に色づけをしていた。
世界の奇跡を堪能して、パムッカレに別れを告げた。

ホテルに戻ると、日に当たりすぎて疲れてしまったのか
ぐっすりと寝てしまい、気がつくと夜の10時を過ぎていた。
何度も何度も起こしたのに、起きなかったから一人で夕飯を食べた、
とHANAに怒られる。

所在無さげに僕はベランダに出て行き、明るすぎる月を話し相手に猛省するのであった。



2012年7月28日土曜日

3rd day




カッパドキアの奇怪な岩を、上空から眺めるとどうなるのだろう?
古代の人たちもそのように思ったに違いない。
現代では、気球に乗るという方法でそれをクリアできる。

朝早く、6時頃に目を覚ました。辺りはまだぼんやり薄暗い。
唐突に部屋のドアを叩く音がする。
「気球ツアーの集合時間ですよ」
意外にも朝早くから働くトルコ人にたしなめられ、いそいそと出かける準備をする。
受付場所まで車で行くと、世界各国から多くの人が集まっていた。
果たして今日の天候はどうなのか、気温は高いのか低いのか。
みなそれぞれが情報をかき集めた結果、ノースリーブの人もいれば、ウインドブレーカーを着込んだ人もいた。
僕は長袖のシャツを羽織りHANAはパーカーを着ていた。

受付のコテージのようなところでは、モーニングが用意されており、
僕たちは果物とコーヒーを手に取り時間を待った。
しばらくすると、用意ができたようで、決められた乗客数の気球に合わせて集合し
車に乗って高原へと向かった。

20分程走ると人家は消え、だだっ広いところへと出た。
そこでは今まさに、巨大なガスバーナーのようなもので気球を膨らませているところだった。
「ヴォー」
静かな大地に鳴り響く。
地面にべったりとついていたバルーンが次第に宙へと上がって、イメージ通りの気球の形となった。
気球の操縦士は陽気な白人で、どうやら自分の子供に、準備の手伝いをさせているらしい。
パフォーマンスなのか、SL機関車の汽笛のように、
その子供がバーナーのレバーを何度も引いて轟音を鳴らしていた。

気球のバスケット部分には、4人程度が乗れるように区分けされていて
思っていたよりもかなりゆったりとした作りになっていた。
計15人程が乗り込むと、気球は静かに大地から離れていった。
それぞれの国の人たちが、それぞれに感嘆の声を上げた。
空から眺めるカッパドキア。
低い位置から静かに朝日が山々を照らす。
何千年と繰り返されているであろう光景の一日を体験する。
高度はどのくらいなのか分からないけれど、人が豆粒に見えるくらいの高さになった。
時折、陽気な操縦士は英語でジョークを言っては、英語圏の人たちを笑わせていた。
辺りを見渡すと、色とりどりの気球が至る所に浮かんでいる。
何十もの気球が浮かぶ姿は実に壮大で、どこかで「amazing…」と聞こえた。
ドイツ人の親子がいたのだけれど、子供が終止泣いていた。
母親が抱きしめて慰め、父親は高そうな一眼レフで何度も風景の写真を撮っていた。

台形の形をした山の向こうから、朝日が上る。
静寂が辺りを包む。
だれも言葉を発しない。
息をのむ。
圧倒的なものを見たときには、人はなにも言わなくなるようだ。

1時間程の空中遊覧も、体感的にはものすごく短かった。
陽気な操縦士はトランシーバーで地上のクルーと連絡をとり、着地ポイントを見定めていた。
気球は次第に地表に近づいていく。気球の影がくっきりと形作られる。
「しっかりとクッションにつかまるように」とアナウンスされ、乗客が一瞬緊張する。
器用な操縦によって車の荷台に気球のかごが乗っかると、地上にいたクルーがバルーンの回収にとりかかる。
誰からともなく拍手が起こり、みんなで感動を分かち合った。
着陸と同時にテーブルが用意され、どこからともなくシャンパンと人数分のグラスが持ち込まれる。
それぞれの手にグラスが行き渡り乾杯をした。
すがすがしい朝に、何もない高原のど真ん中で世界各地の人間たちが一つになっていた。
このときの高揚感はアルコールのせいだけじゃないはずだ。



車でホテルまで戻り、朝食をとった。
昨日話しかけてきたホテルのオーナーは、今日も話しかけてきた。
気球に乗ったことを話すと、満足したようで違うテーブルに移っていった。
時折、野良猫が足下にすり寄ってきた。トルコには猫がたくさんいた。
日本の猫と違い、すごく人懐っこい。トルコの国民性を表しているのかもしれない。

部屋に戻って身支度を整えると、レンタサイクル屋に行って自転車を2台借りた。
かなり適当に書かれた地図を片手に出発して、少し心配だったけれど、
基本的に直進しかないので、ひたすらにペダルをこいだ。
目的の場所、適当に進んだ道。ただひたすらに走り、時々立ち止まって水を飲んだ。
進んでも進んでも、奇怪な山たちは僕たちの目を楽しませた。
10キロ先の町にも行った。
汗だくになりながら、ひたすらに続く長い道を進んでいく。
腕まくりをした、普段日のあたらない箇所は、まるでやけどのように赤くなっていく。
やっと町にたどり着くと、すぐさまエアコンの効いたレストランに入った。
日本人に親切なトルコ人たちは、入れ替わり立ち代わり僕たちに質問をし、
また、日本製のバイクがいかに優れているかをプレゼンしていた。

食事を終えると、川にかかった吊り橋を渡り、緑道にあるベンチで休んだ。
通りかかる人たちが、僕たちを物珍しそうに見ている。
どこからきたの?コリアン?アニョハセヨ
アイムジャパニーズ。こんにちは。
僕は決まって答える。
僕の返事に彼らが満足したのかどうかはわからない。
そもそも彼らにとっては僕の答えなどどうでもいいのかもしれない。


目的がある10キロはがんばれても、帰るだけの10キロはただただ苦痛であった。
太陽光を遮るもののない直線の10キロ。
時刻は正午を過ぎ、太陽が一日の中で一番熱量を発する時間帯だ。
体の奥底から水分と休憩と、日陰を所望した。
あと3キロというところでようやく木陰を見つけて思わず腰を下ろした。
サンダルを脱ぎ捨てると、ストラップに沿って日に焼けているのがわかる。むしろ焦げている。
汗腺の穴という穴から汗が噴き出し、体の異常を感じる。

最後の力を振り絞り、ギョレメへと戻る。
当初自転車のレンタル時間はあと3時間程あったし、
夕焼けをローズバレーで見るというプランではあったけれど
今僕たちに必要なのは、きれいな景色ではなく、休憩とビールだった。

町をふらふらと歩いていると、クラクションを延々と鳴らし続ける車の列が向こうからやってきた。
トルコにも暴走族がいるのかと、意外に思っていると、どうやらそうではないらしい。
車の中から僕たちのほうへ笑顔で手をふる人の姿が見える。
いったいなんだろう?
一台の車に目がとまる。車全体にリボンが巻かれていて、車内にはドレスを着た人が見える。
結婚式のパレードだ!HANAが言った。
式を終えた夫婦が、車で町を回っているところだったのだ。
遠い異国の地で、一瞬しか見る事のない花嫁の姿に、とても温かいものを感じた。
トルコという国が好きになった。


この日、カッパドキアを離れる事になっていたので、土産物屋を物色し、キリム絨毯の店にも入った。
店の奥の方で、店員が手招きをしている。向かいには日本人とおぼしき女性二人が座っていた。
絨毯を買ったら、ワインを飲もうと誘われたので、飲んでいるところだ、と彼女たちは言った。
僕たちも便乗してワインをいただくことになった。
埼玉から来たという二人と
過去に華道家の娘と交際していたという絨毯屋のおじさんとの奇妙な宴会が始まった。
そのうち中国人のカップルも、店内で絨毯を見ていたはずなのにいつのまにかワインを飲んでいた。
サイクリングで疲れきった体においしいワインが染み渡ったということもあり
気に入った絨毯を見つけると値段交渉をして、だいぶ安い値段でキリム絨毯を手に入れることができた。
埼玉の二人は帰り際おじさんに口説かれていた。
僕たちもバスの時間があったので帰った。とくに口説かれなかった。

ホテルをチェックアウトすると、バスターミナルへと向かった。
パムッカレ行きのバスを待つ。
これから10時間のロングライドだ。
薄くアルコールが支配する頭の中で、カッパドキアに静かにお別れをする。
バイバイ カッパドキア
テシェッキュル カッパドキア


バスに乗り込むと座席に深く腰を下ろし、やがて深く眠りについた。

2012年7月27日金曜日

2nd day




知らない土地で眠りから覚めたときの感覚というのは気持ちがいい。
清潔なシーツと固めのマットレス。外からはすべての人々を眠りから覚ます音量で鳴り響くイスラムのお経。
思わず隣にいるHANAと目を見合わせてしまう。

窓から外を眺めてみると、壮大なカッパドキアの姿が目に飛び込んできた。
なんという凄まじい光景だろう。
この世のものとは思えない、目にしたことのない景色に僕は言葉を失う。
しばらくしてから、HANAとともに服を着替え、
朝食をとる前に外を散歩する事にした。

一歩外に出ると、太陽の光が地面を厳しく照らしている。
サングラスをかけないとまぶしくて目を開けているのがつらいほどだ。
土産物屋は朝早くから開店しているが、人の気配はない。
野良犬があてもなくふらふらと歩いている。僕たちにはまるで興味がないようだ。
ホテルの周りを15分程歩いてから、朝食をとった。
バイキング形式で、各々が食べ物を皿に取っていると、
若い従業員が、オムレツはいるか?と聞いてくるので作ってもらうようお願いをした。
慣れた手つきで卵を割り、ささっとかき混ぜフライパンに投げ込むと、
あっという間に皿に盛り、手渡してくれた。

テーブルについて景色を見ながら食べていると、
真っ黒に日焼けしたホテルのオーナーが近くの席に座ってタバコに火をつけた。
そして「日本人か?」と聞いていた。
僕たちは「そうだ」と言った。
「日本のどこだ?」と聞くので「東京からきた」と答えた。
そして、これからどこに行くのか、どういう予定であるかなどの話をした。
実にゆったりとした口調で。
なにも急ぐ事はない。ここはトルコだぜ?と言わんばかりだ。
彼はタバコの火をもみ消すと、違うテーブルへと向かっていった。

食後にコーヒーを飲んでいると、空の向こうで気球がゆっくりと上昇していく姿が見えた。
明日は僕たちもあれに乗るのだと思うと胸が高鳴った。

部屋に戻って身支度を整えると、グリーンツアーに参加すべく、バスターミナルへと向かった。
受付を済ませると、ワゴン車に乗り込んだ。
ガイドから説明があり、一人一人に名前と出身を確認した。
車内には、今朝到着したばかりだというカナダ人一家や、スペイン人、
アメリカ人夫婦など実に様々な国籍の人がいた。
中には一人で参加している女の子もいた。

まず先に向かったのはギョレメの丘だ。
カッパドキアを見渡せる場所で、360度の絶景が僕たちを待っていた。
チープな表現をするならばドラゴンボールのナメック星だ。ユンザビット高原だ。
ゴテゴテと不規則な小さな白い山が並んでいる。
自由時間を与えられたがガイドが10分で戻ってこいというので、
従順な日本人観光客の僕らはきっかりと時間を守ってバスへと乗り込んだ。

そのほかにセリメの丘、デリンクユ、イヒララ渓谷へと行った。
イスラム教の国トルコ、とばかり思っていた僕には意外なものばかりがそこにはあった。
イエスキリストの壁画がいたるところにあった。
トルコはさまざまな支配の中、キリストとイスラムを往復していたのだ。


とにかく日差しの強い中、歩きに歩いた。
そして洞窟の狭い道をひた歩き、川辺を虫の音を聞きながら歩いた。
狭い地下道を歩いている時、スペイン人の女性が歌をうたっていた。
HANAがスペイン語で「こんな時は歌が必要ですね」と言うと
彼女は嬉しそうに「そうだね」と言った。
会話は人を身近にさせる。

ツアーを終える頃には、英語圏の人たちはすっかり仲良くなっており
人生相談などが始まる程だった。
唯一アジア圏の僕たちは、そういった意味では孤立しながらも
見るものすべてに一喜一憂し、二人で感動を分かち合っていた。

夕方頃にツアーは終了し、元のターミナルに戻った。
そして誰からともなく集合写真を撮ろうと言って、みんなで写真を撮った。
みんながなんともいい笑顔をした。
おそらくもう二度と会わない人たち。素敵な時間を共有できたことに感謝した。

一度ホテルに戻り、休憩してからまた近所を散歩した。
トルコはなかなか日が暮れない。
8時になってようやく夕暮れだ。小高い山にあるレストランに入り夕食を取った。
ちょうど夕日がカッパドキアに降り注ぐ。そんな姿を見ながらエフェスビールを飲んだ。
HANAがどうしても食べたいと言って、テスティケバブを注文した。
これは、つぼに入った煮込みで、とてもおいしかった。

デジカメで撮った写真をお互いで見せ合って、どこが一番よかったか、と話をした。
僕が一番有意義に時間を過ごしたのは川沿いを歩いた渓谷だ。
時間がゆったりと流れていた。すれ違う人は皆優しい。
川のせせらぎ。虫の音。踏みしめる大地。
照りつける太陽は僕の肌を焦がしたけれど、いろいろなものを体全体で吸収した。



トルコの2日目が終わった。


2012年7月24日火曜日

1st day




仕事から家に帰ると、部屋の明かりが点いていなかった。
日付が13日から14日に変わる。深夜12時だ。
突然降り出した大雨で、服や鞄がびしょ濡れになっている。
やれやれ。明日も着ていくつもりの服だったのに。

部屋の中には、HANAが旅支度を完璧に終わらせたスーツケースが、
しつけの良い犬のように鎮座している。
僕のボストンバッグには、おさめられるべきものがまだおさまっていない。

トルコの気温を調べると、30度を越す日々が続いていた。
僕はTシャツを7枚とショートパンツ、海水パンツを鞄に詰め込んだ。
それからしばらくクローゼットを睨む。
しばらく考えて、ヤマさんのチノパンを持っていく事にした。
トルコの景色をヤマさんにも見てもらおうと思った。

3時を回った頃、玄関のほうからドアを開ける音が聞こえた。
HANAが疲れきった顔で帰ってきた。
それでも顔はどこかほころんでいて、
数時間後に控えた旅立ちを心待ちにしているようだ。

HANAが買ってきたビールで乾杯をする。
少しアルコールの入った頭で、僕は準備を済ませていった。
飛行機の中で読むつもりで、村上春樹の「遠い太鼓」を鞄に入れた。
その他にも数冊小説を用意した。

休憩のつもりで横になったソファで寝てしまい、気づいたら起床する時間になっていた。
パスポートとチケットがあれば、あとはどうなっても問題ない。
まだ余裕のあるボストンバッグを片手に、HANAと家を出た。

駅まで歩く道が、普段とは違って見える。
空はいつもより高く感じられ、重い荷物を持っているはずなのに足取りは軽かった。
地下鉄で渋谷に出ると、HANAが予約していた成田エクスプレスで空港へと向かった。
車内の人たちは、みなそれぞれどこかに旅をする人たちなのだ、と思うとワクワクした。
空港につくと、一通り必要な手続きを済ませ軽く食事をとった。
通された席からは、長い滑走路から飛び立つ飛行機の姿が見えた。
数時間後には僕もその飛行機の中だ。
離陸する瞬間の体にかかる重みを想像しては心臓の鼓動が早まるのを感じた。

食事を終えると出国手続きをし、44番ゲートへと向かった。
出発の時間は遅れており、ベンチでは外国人が4人分の座席を陣取って居眠りをしていた。
僕とHANAはそれぞれ一人分の席に座り、じっと時がくるのを待っていた。

入場のアナウンスが鳴り、ゲートをくぐる。
飛行機に乗る瞬間の、どこか既に異国を感じるあの空間。
外国人のキャビンアテンダント。
優雅なビジネスクラスを横目に、僕たちの席へとつく。
手荷物は座席の下に置いておく、とHANAが言うので僕もそれに習った。
首が疲れないように、既に枕をスタンバイさせている。
旅慣れた彼女はとても生き生きしてみえる。

出発のアナウンスが英語、トルコ語、日本語と続いた。
僕らを乗せた飛行機が猛スピードで滑走路を走っていき、
そして青空へと飛んでいった。




11時間のフライトを終え、飛行機はイスタンブールへと到着した。
僕たちは国内で乗り換えがあるために、荷物は受け取らず手続きを済ませていった。
空港内にある食堂で、おいしそうなパンと、エフェスビールを買った。
トルコでの初の食事だ。

出発の時間まで余裕があったので、ふらふらと空港内を散歩した。
窓口に向かって大声で怒鳴り散らす人。
黒い衣装をまとった人。
家族で団らんを楽しむ人。
それぞれがそれぞれの時間を過ごしていた。

出発の時間になり、飛行機に乗った。
カッパドキアに向かうためのカイセリ空港を目指す。
隣の席に座ったおじいさんは、体がとても大きく、小さな窓を塞いでしまい
外の様子はまったく見る事ができなかった。


1時間と少しで目的の空港へついた。
入国審査を通って外に出ると、プラカードを持った人たちで溢れていた。
それぞれに名前が書いてある。ホテルまでの送迎をしてくれる人たちだった。
僕たちの名前をその中から見つけると、車へと案内された。
既に車には数人乗っていた。

空港のにぎやかな喧噪を車は猛スピードで抜けていく。
しばらくすると、ネオンは遠くへ消えていった。
夜の10時を過ぎていたので辺りは暗く、様子を伺う事はできなかったけれど、
だんだんと人里から離れていく気配はあった。
そして、舗装された道からでこぼこした道へと変わり、
外の景色は暗がりでもわかる程に一変した。
見た事のない荒野。
とんがった岩肌。
車はそんな所をスイスイと走り、坂道を上り、停車した。
外観は洞窟だ。でもそれがホテルだ。

車はそれぞれ、ホテルの前で止まっていく。

車から一人、また一人と降りていく。
最後に、僕たちの泊まるホテルに到着した。
カルバンサライ ケイブホテル。
チェックインを済ませると早速部屋に案内される。
洞窟に作られた部屋。
敷物にはキリムの絨毯。
小さなテーブルに、僕たちの新婚旅行を祝うために、
ホテルが用意してくれたワインがかわいらしい花とともに置かれていた。

二人は顔を見合わせると思わず抱きついた。
夢にまでみた新婚旅行。
顔の似た夫婦が、ここ一番の笑顔を見せていたに違いない。
窓の向こうには、壮大なカッパドキアの片鱗が顔をのぞかせている。



僕たちの旅は始まった。