携帯のディスプレイには5:00と表示がされている。どうやら夜明け前のようだ。まだ鳥たちも活動を本格的に始める前の時間。うっすらと虫の鳴き声がだけが聞こえる。夜と朝の境目だ。こんな時間に起きているのはどうやら奇特な僕だけだ。見るともなくネットサーフィンをするも30分ほどで飽きてしまう。バリまで来て日本の何を知れというのか。それなりのロングフライトで疲れているはずなのに、どういったわけかもう一度睡魔が訪れることはなかった。そういったわけで海を見に行くことにした。
親に内緒で深夜にこっそりとでかけるように、物音を立てず着替えをし、カメラと携帯電話だけを持って、部屋をでた。超アナログな鍵は、扉についた凹のような形のところに棒をかけるだけというもので、外側からの鍵も南京錠ひとつだった。
部屋を出ると少しだけ虫の音が大きく聞こえた。空はやや青みを帯び始めているけれど、まだ星が煌々と光っている。部屋から海に行くには、屋外レストランを抜けていく必要がある。昼間に見た石壁についた扉は閉まっていた。レストランでは、従業員が掃き掃除をしていた。「good mornig」とお互い声をかけあう。
外にでて分かったのは、意外と人々はこの時間から活動しているということだった。ランニングウェアを着て走っている人もいたし、犬の散歩をしている人もいた。
もう少し歩みを進めて浜辺の方に行くと、そこからは静かに波を立てる海と、ほんの少しオレンジ色を含み始めた空とが混じり合う光景があった。
僕はしばらくその場に立ちすくんでしまった。あまりに見とれてしまって手に持っていたカメラで写真を撮ることをしばらく忘れてしまったくらいだ。昼間に見た海は、干潮時だったこともあり遠浅の海でずっと向こうに波打際があった。暗闇ということもあり、景色が一変していることに驚いた。
遠浅の海というのを僕は知らなかった。僕になじみがあるのは、地元の海岸のように、手のひらよりも大きな石がゴツゴツと打ち上げられた浜辺で、大きな波しぶきをあげるような海だった。ただ静かな海がこの世界には存在しているのだな、と思った。
周りには、僕と同じように朝日を見に来ている人たちが少なからずいた。三脚を立ててカメラで撮影している人もいた。当たり前かもしれないけれど、みんな身動きすることなく、ただただ太陽が昇るであろう方角をずっと見ていた。
すると、しばらくしてから、水平線からじわじわとオレンジ色の濃度が濃くなっていった。それに比例して、オレンジ色の光の長さが波に揺れながら浜辺に向かってまっすぐ増していった。その光はまるで自分だけに向けられて伸びているかのような錯覚を覚えた。地球が誕生してからずっと繰返されている太陽が昇るという現象に、まるで初めてそれを見たかのように感動した。
一度太陽の姿が見え始めると、どういうわけか空へ昇っていくのはあっという間だ。時刻は7時半を過ぎていた。部屋に残る二人には黙って出てしまっていたから、すぐさま部屋に戻った。
二人はどうやらまだ夢の世界にいるようだった。しかし僕がドアを開ける音で目を覚ましたらしい。既に着替えを終えている僕の姿をみとめた花さんは、いぶかしげな顔で僕を見て「どうしたの?」と聞いた。
「朝日を見に行ってたんだ」と僕が言うと、「言ってなかったけれど、ここのビーチから見る朝日が素晴らしいって話だよ。言う前に実践するとはね」と花さんは言った。
そう、確かに素晴らしい景色で素晴らしい朝日だった。理子もむっくりと起きだしたので、支度をしてホテルのレストランで朝食を食べることにした。
このホテルではパンを焼いて提供しており、特にクロワッサンが美味しいらしい、というのを見聞きしていたので、それを頼むことにした。あと、フルーツのプレート。メインにミーゴレンを僕は選んだ。
まず、バリコーヒーが運ばれてきた。色調の落ついたエメラルドグリーンのカップや、コースターとして使っているホテルオリジナルと思しき布の柄も、とても可愛らしい。まったく野暮ったさがない。
それを飲みながら、海と、もう空高くのぼった太陽を見るともなく見た。なにもしないことをしているような、そういった時間が流れている。周りに他の客の姿はまだなかった。
しばらくして、料理が運ばれてきた。料理自体は大人二人分だけ頼むことになっていたので、理子には僕と花さんのものを少しずつ分けて与えた。
クロワッサンは前評判の良さの通り、美味しかった。このレシピで二子玉で提供したら550円は取れるのではないだろうか。
ミーゴレンというのを、僕はこの時初めて食べたのだけれど、びっくりするくらい美味しかった。ざっくりと言ってしまえば焼きそばみたいなものなのだけど、甘みと辛みの配分が絶妙だった。麺の上に乗せられた半熟の目玉焼きをくずしながら食べると、またマイルドな味わいになった。どうやら理子も気に入った様子で、もっとくれ、もっと!と要求してきた。自分の子供じゃなければ絶対にあげたくない!とケチなことを思ってしまうほど、本当に美味しかった。
食後、コーヒーを飲み尽くすと、カップの下の方には粉が沈殿していた。バリコーヒーというのはそういうものらしかった。
食事を終えると部屋に戻り花さんと理子は水着に着替えていた。レストランの真横にプールはあり、プールに行く頃には、レストランで食事をしている人の姿が見えた。
理子はプールで大はしゃぎだった。なにかエンターテイメント性のあるようなものではなかったのだけど、ただプールである、というだけで理子にとってはとても楽しいものらしい。花さんもプール自体が久々だったようで、理子との水中での戯れを楽しんでいるようだった。
僕はその時プールには入らなかったので、ベンチに座ってぼーっとして周りを眺めていた。このホテルの客層は、どうやら年齢層がやや高めのようだった。ミドルエイジのひとり客の女性や、現役を退いてしばらくたったであろう老夫婦。または子供を連れた4人家族などの姿が目についた。それぞれの人たちは、海の方をただただ見つめて食事をしていた。その動作はまるでこの海の波のように実にゆったりとしていた。
理子はすっかりプールを堪能していた。周りでは食事をしている人たちの姿が多くなっていたけれど、おかまいなしで奇声をあげ、楽しんでいた。木の実が空から落ちてきて、バシャっと音を立てるだけで「キャー!」と大興奮だった。
いくら楽しいとはいえ、プールにずっと入り続けているわけにもいかないので、嫌がる理子をなだめ、部屋に戻り休むことにした。
なにをするわけでもなく時間は過ぎていく。そのうちまた昼食の時間となった。ホテルの外にでて、食事をとることにした。
車が走る通りにはいくつもの飲食店が並んでいた。僕たちはなんとなく目についた店に入った。店員は理子の姿を見ると、まずベビーチェアはいるか?と聞いてきた。そういったホスピタリティ溢れる国なのである。メニューを見ると、またしてもミーゴレンが目に入ってしまった。店によって味がどのように違うのか知りたいということもあり、また注文することにした。僕はビンタンビールを、花さんはコーラを発注した。ホテルの食事の値段を考えれば、いくぶん格安ではあるのだけど、今振り返ってみると、食事代はいつも思っていたよりは割高になってしまった印象がある。そこにはいつもビール代が含まれているからだった。
僕たちの他に数組の老夫婦たちが一つのテーブルを囲んで楽しそうに食事をしていた。当たり前のようにビールを飲んでいる。実に陽気である。『新婚旅行には暖かい地域に行くべし』という格言があるらしいのだけど、歳をとったって夫婦は暖かい地域に旅行し、酒をくらい、陽気に過ごしたほうがいい。そんな姿を見て、僕は花さんに「お互い健康でいようね」と言うのであった。
僕の席からは、隣店の客の姿も見ることができたのだけど、一人のおじさんが、通り沿いのテーブルに、膝を折り曲げて椅子に座り、ただただちびちびとビールを飲んでいた。そして通りかかる人たちにときおり声をかけて、またビールをちびちびと飲む、ということを繰り返していた。その姿はさながら仙人のようでもあるし、ただの世捨て人のようにも見える。地元の人間なのか、はたまたツーリストなのか、知る由も無い。
食事を終えてから、ホテルに戻ってタクシーを呼び、クタという地区に向かった。ここは若者たちが集うような大きなショッピングモールがあったり、綺麗なビーチがあった。タクシーを降りた頃には、15時をまわっていたのだけど、各国からやってきたであろうサーファーや、海を楽しむ家族連れや若者たちで溢れていた。
僕たちはまずショッピングモールへと入った。入店する前にセキュリティチェックがあったけれど、物々しい雰囲気、というわけではなかった。
花さんは土産物屋風のところで理子用のワンピースを、ZARAで服を2着、コスメの店で3BUY 1FREEな買い物をしていた。
理子はこのタイミングでベビーカーへの乗車を拒否し、抱っこ虫になっていた。そういうこともあり、早々に海に行くことにした。
いざ浜辺に出ようとすると、「パラソルはいらないか?」「マリンスポーツはやらないか?」と色々な人が話しかけてきた。
「No Thank you」と花さんが言うと、「じゃあ何しにきたんだ?」と彼らは笑った。
「Just walking」と花さんも笑って答えていた。
じゃあ何しにきたんだ? ごもっともだ。
クタも遠浅の海のようで、浜辺は部分的に水分を帯びていた。理子は海の方へ向かって駆け出し、花さんもそれについていった。浜辺はサヌールとも違って、より砂が滑らかで、サンゴや貝などが波によって運ばれていた。理子も「これなあに?」と興味津々の様子だった。
泳いでる人や、デッキチェアに寝転がり体を焼いている人、男同士で騒ぎながらサッカーしている人。砂浜に穴を掘って体を沈めてその上に砂をかけ楽しんでいる親子。海の楽しみ方は人それぞれだった。
理子は海がとても気に入った様子で、その場から離れようとはしなかった。
日も暮れかけた頃、海を離れることにした。理子は買ったばかりのワンピースに、早速着替えた。ブルーバードと書かれたタクシーはきちんと料金メーターが付いているのだけど、運良くそのタクシーをすぐに捕まえることができた。
ホテルについてしばらく休んだ後、夕食を食べるために、また通りを歩くことにした。昼間に太陽を浴びすぎていたせいで疲れていたのか判断力が低下しており、昼食をとった隣の店に入ることにした。適当に注文してもハズレが無い、という恵まれた環境の中、ビールを飲み、気分良く過ごしていた。
ふと周りを見渡してみると、昼間にみかけた人が同じ席に座っていて、ビールを飲んでいた。一体いつからそこに座っているのか、昼間からずっと座っていたのか、わからないけれど、その姿はなにかを極めたような、なにかを捨ててきたような、なんともいえない雰囲気だった。やはりこの地の仙人なのかもしれない。リュックを持っているところをみると、どうやらツーリストのようにも見える。バリは様々な人を受け入れる実に寛容な場所のようであった。
バリの夜が静かに更けていく。
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