その昔、DCブランドブームなるものがあったとき、
僕は生まれたてのホヤホヤであった。
母の洋服屋での販売員経験も相まって、
僕たち兄弟には挑戦的とも言えるような格好を物心つく前からさせられていた。
人と同じ格好はさせたくないをモットーに、
HYSTERIC GLAMOURのキッズライン(FUCKだのSEXだの書かれた服)を、
母はよく着させていた。
今でも覚えているのは、紫色のスウェットトレーナーに、
HYSTERIC MINIの赤ちゃんのキャラがプリントされたものだ。
まだ赤ちゃんに毛が生えた程度の僕が
赤ちゃんがプリントされた服を着ているのだからおかしな話だ。
幼稚園に着ていくのがとても恥ずかしく、
僕は手で前を隠しながら過ごしていたものだった。
小学校を卒業するまでは、基本的に母親が買った物を着ていた。
学校では友人たちはジャージを着て三歩当てやらドッジボールに励んでいるのだけど
僕はやけにカットがこだわっている服を着ていた。
ジャージを着たのは遠足の時ぐらいである。
小学生というのは、周りととけ込む事を最重要項目としている部分もあるので、
僕は母に普通の服が欲しいと何度も嘆願したものだったが、聞き入れられなかった。
アディダスのTシャツを欲しても、
「うちのじいさんが着ているでしょ!そんなの着させられない!」と
訳の分からない事を言われたりもした。
そんな子供だった僕も、中学に入学するに連れて自尊心やら異性の目やらが
気になり始めており、洋服に関しても母に対して意見するようになった。
そして、当時はスニーカーブームやらビンテージブームなどが起きており、
兄が買ってきたBoonを読んでその世界にのめり込んでいった。
初めて自分の意志で買ったのはリーバイスのジーンズだった。
それから、ためた小遣いでせっせと自分で服を買うようになっていった。
中学三年の時、受験をがんばるからNIKE AIR ZOOM FLIGHTを買ってくれと
おねだりをしたことは恥ずかしい思い出である。
高校に入ると服への熱は勢いを増していき、市内にある古着屋を周り、
買う予定もないのに店に入り浸っていたりもした。
2年生の時、進路相談会があったのだけど、
僕はまったく進路が定まっていなかった。
そんな時、今は亡き山本先生が言った「興味のあることをとりあえず書いておけ」という
何気ない一言に押されて「服飾学校」と記入した。
調べていくうちに、ファッション雑誌に携わる仕事がしたいなどと夢見た結果、
親の反対も全くないままに、文化服装学院に入学し、上京した。
長期休みで実家に帰る度に、母は「東京にいるくせに面白くない格好だ」
などと僕の服装にケチをつけた。
しかし、本当は、僕の帰省時の格好を楽しみにしていたと、
母は僕の結婚式の時に語ったのであった。
結局のところ、父がなりたかったグラフィックデザイナーという職業に就き
母が僕に与えてくれたファッションへの憧憬が
今の僕を形作っている訳である。
なんとうまく配合された息子であろうか。
そんな僕は、今H&Mの服を着ているのだけど、
母にしてみたら、やっぱりつまらなく映るのかもしれない。
「東京にいるんだからもっと攻めた格好しなきゃ」
母の叱咤激励はいつでも若い。
2013年10月30日水曜日
2013年10月27日日曜日
記録
思えば僕の父親は、僕が物心つく前、というよりも父親自身が幼少の頃から
何かにつけて記録をとるタイプだったようだ。
実家のリビングの本棚には大量の本があり、
何気なく手に取った本の表3部分には、
「○年○月」といったように、日付と父親の名前が書かれていた。
その日付が本を購入した日なのか、読了した日なのかは確かめた事はないが、
そういう父親だった。
まだ僕が幼い頃、父親が寝る直前に布団の中で革張りの手帳に何やら書き付けている姿を見た事があった。
どうやらそれは日記だったらしい。
彼は朝の7時には家を出て、夜の9時に家に帰ってくるような生活サイクルだったと記憶しているが、1日が終わった後、どのようなことを書いていたのか僕は知らない。
記録をとると言う事に関して言えば、日記を書く事に止まらなかった。
兄や、僕が誕生した日にはビデオをまわし、母親の体内から心音まで録音していた。
そしてそれを編集し、音楽をのせ「優の誕生」とタイトルをつけ
ビデオの背にオリジナルのネームテープを貼っていた。
僕たち兄弟が、思春期を迎える頃にはビデオに収めると言う行為は
少なくなっていった。
僕たちが幼少の頃はそういったことを当たり前のことのように思っていたのだけど、
それは当たり前の事ではなかったことを成長して行く過程で知って行く事になる。
普段の生活においては母親との比重が大きく、
父は一歩引いたところにいるようなタイプだったと記憶している。
母は、そんな父に対してもっと積極的に子育てに参加して欲しそうではあったのだけど
今振り返ってみると、父は記録におさめることや、
またはカメラのファインダー越しに家族との接触をはかっていたようだ。
人との距離の取り方と言うのは、人それぞれで、
家族間においてもそれは例外ではないようである。
先日私の従姉妹が東京の我が家へ泊まりにきた際に、
兄夫婦が育児日誌をつけていて、その内容が面白いのだと言っていた。
血は争えないのである。
僕はと言えば、高校時代から専門学校時代にかけて、
至って普通のキャンパスノートに日記を書いていた。
誰に見せるともなく書かれたそれには、
16歳の小さな悩みを恥ずかしげもなく書いており
未来にいる僕とHANAを多いに笑わせるのであった。
自分に子供が出来たら、父親である僕の名前を検索してこの日記を見つけるのであろうか。
それはちょっと恥ずかしい気もする。
何かにつけて記録をとるタイプだったようだ。
実家のリビングの本棚には大量の本があり、
何気なく手に取った本の表3部分には、
「○年○月」といったように、日付と父親の名前が書かれていた。
その日付が本を購入した日なのか、読了した日なのかは確かめた事はないが、
そういう父親だった。
まだ僕が幼い頃、父親が寝る直前に布団の中で革張りの手帳に何やら書き付けている姿を見た事があった。
どうやらそれは日記だったらしい。
彼は朝の7時には家を出て、夜の9時に家に帰ってくるような生活サイクルだったと記憶しているが、1日が終わった後、どのようなことを書いていたのか僕は知らない。
記録をとると言う事に関して言えば、日記を書く事に止まらなかった。
兄や、僕が誕生した日にはビデオをまわし、母親の体内から心音まで録音していた。
そしてそれを編集し、音楽をのせ「優の誕生」とタイトルをつけ
ビデオの背にオリジナルのネームテープを貼っていた。
僕たち兄弟が、思春期を迎える頃にはビデオに収めると言う行為は
少なくなっていった。
僕たちが幼少の頃はそういったことを当たり前のことのように思っていたのだけど、
それは当たり前の事ではなかったことを成長して行く過程で知って行く事になる。
普段の生活においては母親との比重が大きく、
父は一歩引いたところにいるようなタイプだったと記憶している。
母は、そんな父に対してもっと積極的に子育てに参加して欲しそうではあったのだけど
今振り返ってみると、父は記録におさめることや、
またはカメラのファインダー越しに家族との接触をはかっていたようだ。
人との距離の取り方と言うのは、人それぞれで、
家族間においてもそれは例外ではないようである。
先日私の従姉妹が東京の我が家へ泊まりにきた際に、
兄夫婦が育児日誌をつけていて、その内容が面白いのだと言っていた。
血は争えないのである。
僕はと言えば、高校時代から専門学校時代にかけて、
至って普通のキャンパスノートに日記を書いていた。
誰に見せるともなく書かれたそれには、
16歳の小さな悩みを恥ずかしげもなく書いており
未来にいる僕とHANAを多いに笑わせるのであった。
自分に子供が出来たら、父親である僕の名前を検索してこの日記を見つけるのであろうか。
それはちょっと恥ずかしい気もする。
2013年10月17日木曜日
HARD DRUNKER
土曜
休日ではあったのだけど、仕事に行った。
その時はまだ曇り程度の天候で、自転車で通勤した。
会社につくと、とある学校のパンフレットのレイアウトを進めた。
突発的に入ってきた仕事で、それ故に入稿まであまり時間がなく、
休日を返上しての仕事だった。
15時からスタートし、20時前には終える事が出来た。
僕は自転車に乗って会社を出た。
HANAはその頃、新宿へと向かっていた。
友人と待ち合わせをしていたのだ。
僕はHANAに連絡をし、新宿にいることを確かめた。
その頃雨が降り出していて、自転車を駅前の駐輪場に止めると
山手線に乗って新宿へと向かった。
新宿に着くと、カメラ屋に入り、フィルムを5本買った。
伊勢丹前で待ち合わせをしていたので、そこに向かったのだけど
HANAの姿はなかった。
電話をかけ直してみると、三丁目方面へと移動していた。
ようやく姿を見つけると、HANAは既に友人と落ち合っており、二人一緒だった。
挨拶もそこそこに近くにあったメキシコ料理屋へと入った。
普段なら明るく元気な彼女ではあったのだけど、
この日は心ここにあらずといった風だった。
その証拠に、まずノンアルコールであった。
「さっきまで仕事をしてきたの」と彼女は言った。
なぜそのように元気がないのかという理由は、事前に聞いていた。
それなりに事情に詳しい僕であったので、
少しでも気がまぎれるように話をした。
顔の似た夫婦がステレオで慰める。
しかしあまり効果はなかったようだ。
飲み始める前は、カラオケに行きたいと言っていたのだが、
会計を済ませた後、彼女は家に帰って行ったのだった。
僕とHANAは、そんな彼女を見送ると、
悩みの深さをその背中に感じるのであった。
カラオケをして、タクシーで帰るのだろうと思っていた我々は
健全に地下鉄に乗って帰宅した。
日曜
休日ではあったのだけど、HANAは仕事に行った。
彼女を見送ると、昼食を作って食べた。
そして洗い物をし、洗濯をした。
HULUで映画を見て、読書をした。
実に日曜日であった。
夕方過ぎて、シャワーを浴び、身支度を整えた。
少し風が冷たくなってきていたので、ジャケットを羽織った。
そしてカメラを持って、家を出た。
電車に乗って、三軒茶屋で降りると、改札の向こうにHANAはいた。
白いシャツにレザースカート、KENZOのバンズを履いていた。
HANAの手を取り、階段を上り、赤鬼へと向かった。
店には次から次へと新規の客が入って行くのだけど、
予約をしていなかったようで、すぐに外へ出て行った。
HANAが予約をしていたので、僕たちはすぐに席に着く事ができた。
ビールを飲み、しばらくすると、待ち人が現れた。
日本酒を飲みたいと言ってこの店を選んだ彼女は、なんと和服を着ていた。
自分で着付けて、やってきたらしい。
はじめ、彼女はビールを飲んでいたのだけど、
2杯目はもちろん日本酒だった。
そして僕も酌をしてもらったのだけど、これ以上にないシチュエーションであった。
遅れてやってきた一人も加わり、おちょこを重ねていった。
日本酒を飲む際にありきたりな台詞である「水みたいにぐいぐい飲める」と
調子づいて飲んでしまい、かなりの量を飲み、かなりの会計をするハメになった。
しかしながら、だれからともなく2件目へ、という話になって
酒の飲める中華屋へと入った。
店に入るや否や、僕はテーブルに突っ伏してしまった。
思い出したように目を覚まし、トイレに入ると胃の中の物を吐き出した。
そして何食わぬ顔をしてまたテーブルに突っ伏すのであった。
自分で言うのもなんではあるが、お店で寝る事は珍しい。
次に目を覚ましたときは、僕は家のソファにいたのだった。
僕の記憶は赤鬼に置いてきてしまったようだった。
月曜
実に休日であった。
ソファで目を覚ました現実を受け入れる事は出来なかったらしく、
またソファで寝た。
しかし、この日、15時に友人夫婦を家に招く予定だったために、
それなりの時間に起き、ご飯を食べ、掃除をし、近所のスーパーに買い物へと出かけた。
ビールを購入したのだけど、僕はその時はまったく飲みたいと思わなかった。
彼らは15時を少し回った頃にやってきた。
紳士は約束の時間から少し遅れてやってくるものなのだ。
手みやげにケーキを買ってきてくれていた。
彼らをソファに通し、ビールをグラスに注いだ。
それを見ていたら、ビールを飲みたくなったので僕も飲む事にした。
HANAは前日から料理の下ごしらえをしていて、冷蔵庫には所狭しと食材が並んでいた。
休日ではあったのだけど、仕事に行った。
その時はまだ曇り程度の天候で、自転車で通勤した。
会社につくと、とある学校のパンフレットのレイアウトを進めた。
突発的に入ってきた仕事で、それ故に入稿まであまり時間がなく、
休日を返上しての仕事だった。
15時からスタートし、20時前には終える事が出来た。
僕は自転車に乗って会社を出た。
HANAはその頃、新宿へと向かっていた。
友人と待ち合わせをしていたのだ。
僕はHANAに連絡をし、新宿にいることを確かめた。
その頃雨が降り出していて、自転車を駅前の駐輪場に止めると
山手線に乗って新宿へと向かった。
新宿に着くと、カメラ屋に入り、フィルムを5本買った。
伊勢丹前で待ち合わせをしていたので、そこに向かったのだけど
HANAの姿はなかった。
電話をかけ直してみると、三丁目方面へと移動していた。
ようやく姿を見つけると、HANAは既に友人と落ち合っており、二人一緒だった。
挨拶もそこそこに近くにあったメキシコ料理屋へと入った。
普段なら明るく元気な彼女ではあったのだけど、
この日は心ここにあらずといった風だった。
その証拠に、まずノンアルコールであった。
「さっきまで仕事をしてきたの」と彼女は言った。
なぜそのように元気がないのかという理由は、事前に聞いていた。
それなりに事情に詳しい僕であったので、
少しでも気がまぎれるように話をした。
顔の似た夫婦がステレオで慰める。
しかしあまり効果はなかったようだ。
飲み始める前は、カラオケに行きたいと言っていたのだが、
会計を済ませた後、彼女は家に帰って行ったのだった。
僕とHANAは、そんな彼女を見送ると、
悩みの深さをその背中に感じるのであった。
カラオケをして、タクシーで帰るのだろうと思っていた我々は
健全に地下鉄に乗って帰宅した。
日曜
休日ではあったのだけど、HANAは仕事に行った。
彼女を見送ると、昼食を作って食べた。
そして洗い物をし、洗濯をした。
HULUで映画を見て、読書をした。
実に日曜日であった。
夕方過ぎて、シャワーを浴び、身支度を整えた。
少し風が冷たくなってきていたので、ジャケットを羽織った。
そしてカメラを持って、家を出た。
電車に乗って、三軒茶屋で降りると、改札の向こうにHANAはいた。
白いシャツにレザースカート、KENZOのバンズを履いていた。
HANAの手を取り、階段を上り、赤鬼へと向かった。
店には次から次へと新規の客が入って行くのだけど、
予約をしていなかったようで、すぐに外へ出て行った。
HANAが予約をしていたので、僕たちはすぐに席に着く事ができた。
ビールを飲み、しばらくすると、待ち人が現れた。
日本酒を飲みたいと言ってこの店を選んだ彼女は、なんと和服を着ていた。
自分で着付けて、やってきたらしい。
はじめ、彼女はビールを飲んでいたのだけど、
2杯目はもちろん日本酒だった。
そして僕も酌をしてもらったのだけど、これ以上にないシチュエーションであった。
遅れてやってきた一人も加わり、おちょこを重ねていった。
日本酒を飲む際にありきたりな台詞である「水みたいにぐいぐい飲める」と
調子づいて飲んでしまい、かなりの量を飲み、かなりの会計をするハメになった。
しかしながら、だれからともなく2件目へ、という話になって
酒の飲める中華屋へと入った。
店に入るや否や、僕はテーブルに突っ伏してしまった。
思い出したように目を覚まし、トイレに入ると胃の中の物を吐き出した。
そして何食わぬ顔をしてまたテーブルに突っ伏すのであった。
自分で言うのもなんではあるが、お店で寝る事は珍しい。
次に目を覚ましたときは、僕は家のソファにいたのだった。
僕の記憶は赤鬼に置いてきてしまったようだった。
月曜
実に休日であった。
ソファで目を覚ました現実を受け入れる事は出来なかったらしく、
またソファで寝た。
しかし、この日、15時に友人夫婦を家に招く予定だったために、
それなりの時間に起き、ご飯を食べ、掃除をし、近所のスーパーに買い物へと出かけた。
ビールを購入したのだけど、僕はその時はまったく飲みたいと思わなかった。
彼らは15時を少し回った頃にやってきた。
紳士は約束の時間から少し遅れてやってくるものなのだ。
手みやげにケーキを買ってきてくれていた。
彼らをソファに通し、ビールをグラスに注いだ。
それを見ていたら、ビールを飲みたくなったので僕も飲む事にした。
HANAは前日から料理の下ごしらえをしていて、冷蔵庫には所狭しと食材が並んでいた。
それらを少しずつ彼らに提供した。
春先に自身が結婚式を挙げる予定なので、その前に、僕たちの結婚式のビデオを
見せてほしいというのが彼らの訪問の目的であった。
ビデオを見たいと進んで言う紳士は稀だったので快諾して、今日に至ったわけである。
僕とHANAは「この場面は、プロポーズの起源から習って、それを再現しているのだ」とか
「両親にまんべんなく式に参加してもらうために、
役どころを作ったんだ」などと説明をした。
彼らは「ふむふむ」と興味深そうに見てくれていた。
話をして行く中で、やらないつもりだったことも、
ビデオを見ていたらやってみようか、などと思いが変わったものもあったようだった。
ビデオを一通り見終わると、
僕が毎年HANAの誕生日に作っているHANA BOOKを、彼らに見せた。
カメラが趣味な彼には、プリントして形にすることの大切さを説いた。
そして、記録とともに記憶にもきちんと残せるように日記を書いたらいいなどと
偉そうに言った。
少し酔っていたのだ。
しかしながら、彼らはそんな僕の発言を茶化す事なく、真剣に耳を傾けてくれていた。
僕のような人間の存在を、彼らの心の片隅に置いてもらえれば、
何をやったって恥ずかしくはないと思ってもらえる事であろう。
好きな人の写真を一冊にまとめて製本して毎年プレゼントするなんて
どこのだれがやるというのだ。
宴もたけなわ、酔いきる前に彼らは帰っていった。
こうして酔いどれの3連休が終わったのであった。
2013年10月13日日曜日
旅の終わりに
「サングラス、持ってくればよかった」とHANAは空を仰いでまぶしそうに言った。
前日の台風が北のどこかへ去って行き、嘘のような天気の良さだった。
僕たちは宿泊先のホテルを出て朝食を摂りに、市場を歩いていた。
魚介類が入った発泡スチロールに、手書きの値札が刺さっている。
まだ生きている大きな蟹が、いけすから逃げ出そうとしている。
店先に立って、店主が大声を張り上げている。
朝からすでに声がしゃがれていた。
そもそも酒でのどが焼けているだけなのかもしれない。
一通り、見て回り、同じところをぐるぐると歩き回った結果、
どこにも決めることができなかった。
こう言っては失礼なのだけれど、似たり寄ったりだったのだ。
「ホテルの朝食は評判が良かったけど、そうする?」とHANAは言って
僕はそれに同意した。
市場の喧噪とは真逆に、クラシック音楽が耳障りにならない音量で流れている。
パリっと糊のきいたシャツを着た店員が
僕たちを窓際の日の当たるテーブルへと案内した。
バイキング形式の朝食で、魚介類が豊富にあり、
もちろん取り放題なので満足のいく食事となった。
食後にコーヒーを飲みながら、どこに行こうかと話し合ってから店を出た。
部屋に戻って荷物をまとめ、チェックアウトをした。
駅のコインロッカーに荷物を入れると、また路面電車の一日パスを買い、
立待岬へと向かった。
この日は平日で、観光客は少なかった。
路面電車はガタガタと心地よく揺れている。
岬の最寄りの駅で降りると、自動販売機でジュースを買って飲みながら歩いた。
太陽は高さを増し、同時に地表を容赦なく照りつけていた。
岬に向かうには、坂道を上らなくてはならなず、汗は止めどなく流れた。
途中、石川啄木のお墓があった。
岬の先端に立つと、とても強く風が吹いていた。
なにもかも飛ばされてしまいそうな強さだ。
そんななかで、近くにいたカップルに頼まれて
記念撮影のシャッターを押すことになった。
風が強くて髪は乱れ、しかも逆光だった。
太陽の光があまりにも強すぎて、モニターでプレビューを見ることもできなかった。
岬で記念撮影などするものではないと思った。
どうでもいい話なのだけど、観光地において
写真を撮ってほしいと頼まれることが僕は多い。
断らなそうな無害な顔でもしているのだろうか。
その場を後にすると、外国人墓地へと向かった。
函館は、貿易で栄えると外国人が居留するようになって、
この地で亡くなった人のために墓地が作られたらしい。
ロシア、中国、プロテスタント墓地を見て回った。
その墓たちは、海の方向を見ていた。
遠い地で亡くなった人たちが、せめて母国を見えるようにとの配慮だったのかもしれない。
函館の地形は、山と海が近いこともあって坂がとても多かった。
それぞれの坂に名前がついており、海を見下ろす景色はそれぞれの坂で異なり
とても美しい景色だった。
地元のようで、地元にはない景色。ゆずの夏色が聞こえてくるようだった。
とある中学校の脇道を通ると、合唱の練習中だったようで、歌声が聞こえてきた。
蝉の鳴き声とあいまって猛烈なノスタルジーを感じた。
旧函館公会堂は、グレーと黄色の配色のいかにも外国風といった建物だった。
入場料を払って中に入る。
バルコニーからの眺めがよいとのことで、早速出てみることにした。
函館の町を見渡すことのできる景色。風が抜けて心地よかった。
近くにいた中年夫婦に声をかけ、写真を撮ってもらうことにした。
「あれ?これフィルムなの?」と驚かれた。
中年の男性にとっても、もうデジタル世代なのだ。
礼を言って建物を後にした。
HANAが函館を調べた際に、行きたい店として『ラッキーピエロ』という店があった。
派手な看板でデコレーションされた、ファーストフード店だ。
とても人気店らしく、多くの人が店の前で待っていた。
チャイニーズチキンバーガーのセットを注文し、20分程度待っていると席に案内された。
果たして、通された席はブランコだった。
公園にある、あれだ。
子供には大人気の席のようだが僕らは体幹が弱い30歳だ。
ブランコに座って貪るハンバーガー。
絵面はシュールだ。
昼時はとっくに過ぎていたのだけど、まだ人が並んでいた。
僕たちは食べ終わるとそそくさと店を出た。
帰京の時間が迫っていた。
ベイエリアに戻り、お土産を買うと
駅のコインロッカーに預けていた荷物をピックアップした。
函館空港行きのバスがあり、それに乗った。
窓の向こうに流れて行く景色。日差しはまだ強かったけれどカーテンは閉めずにいた。
空港に着くと、チケットを発券し、出発時間までロビーで待つことにした。
ガラスで、こちら側と向こう側に分かれていた。旅立つ人と止まる人だ。
そのガラスに沿って一定間隔に電話が設置されていた。
こちら側にいる大学生らしき男が、
その電話を使って向こう側の人と話をしていた。
「東京に戻ってもがんばるよ」なんて会話をしていたのかもしれない。
そうか東京はがんばる場所なのか。
搭乗する時間になって、飛行機に乗り込んだ。
それはあっという間に僕らを日常の待っている東京へと運んだ。
鞄の中には撮り終えた4本のフィルムが入っていた。
現像が終わるまでは旅は終わらない。
フィルムカメラは旅に余韻を残してくれる。
次はどこへ旅に行くのだろうか。
2013年10月7日月曜日
函館
台風が本州に上陸し、その大きな爪痕を西日本に残していることを
ネットのニュースで知った。
僕たちは新幹線で新青森駅まで向かっているところだった。
打ち付ける雨は横殴りで、窓の向こうに見える景色は白かった。
僕にとっては初めての、HANAにとっては20年ぶりの北海道上陸であった。
新青森駅から電車を乗り換えて青函トンネルで函館へ。
青函トンネルは言わずもがな海中トンネルである。
僕のイメージでは、水族館のようにガラス張りになっていて、
海に囲まれながら電車が走っている、
といった子供が思い描くようなことを少し想像していた。
といった子供が思い描くようなことを少し想像していた。
いや、青函トンネルに入る直前まではそれが事実だとも。
トンネルに入る瞬間には、地上と海水の境が分かるものだと思っていたし、
すごく感動する、なにせ海中トンネルなのだから。
しかし、実際は普通のトンネルだった。
電光掲示板で「青函トンネルに入りました」というアナウンスがあっただけだ。
僕はそれまで窓にかじりついて外を見ていたのだけど、視線を下に落とし、
持っていた文庫本を読むことにした。
トンネルを抜けてもそこは雪国になっているようなことは当然なかった。
しかしながら、建物の雰囲気は本州のそれとは異なっていることが分かった。
基本的にそれぞれの家には煙突があった。
そうすると、洋風でどこでも見かけるような建物とは違った印象を受けるのだった。
函館駅につくと、荷物をコインロッカーに入れ、
駅に付随した案内所で路面電車の一日パスを買った。
まず向かったのは『あじさい』というラーメン屋で、HANAが下調べをしていた店だ。
店に着くと、かなりの行列ができていた。
雨も強く降っていたし、ほかに行くあてもないので素直に待っていた。
壁にかけられた大きなテレビモニターにはニュースが映し出されていて、
京都の桂川が氾濫しているといるとニュースキャスターは伝えていた。
また関東にも台風の猛威はのびており、
床下浸水、川の氾濫など、悲惨な状況のようだった。
しばらく待っていると、席に案内されて、
HANAは塩ラーメン、僕は味噌ラーメンとチャーハンと餃子を注文した。
それほど時間がかかることもなく注文された品は届いた。
僕たちは台風のニュースを見ながらそれを平らげた。
店を出ると、五稜郭タワーに上った。
悪天候だったので、たいした景色も望めないんだろうと思っていたのだけど
意外にも見下ろした五稜郭には感動し、360度の景色も堪能することができた。
雨が強く降っていたけれど、五稜郭を見ていたら実際にそこを歩いてみたくなった。
実際歩いてみたら、天候のせいもあって観光客は少なかった。
しかしながら中国人観光団は多く見受けられた。
五稜郭を一通り回ると、路面電車に乗って駅まで戻った。
すると、駅は人で溢れていた。
電光掲示板には運行停止の文字。
台風の影響で全ての電車が不通になってしまっていたのだった。
窓口に並んでいる人たちは、並んだ結果どういう解決策を期待しているのかは不明だった。
コインロッカーに入れていた荷物をピックアップすると、
予約していたホテルへと向かった。
チェックインを済ませてしばらくベッドで休むことにした。
ぼーっと窓の外の荒れ狂う様を見ていると、次第に風の流れが変わり、
厚い雲で覆われていた空に隙間ができ始めていた。
予定では、ロープウェーに乗って、箱館山に上って夜景を見ることになっていたのだけど
ネットの情報では運転を見合わせていて、行くことを諦めていた。
そんな状況の中で「これはもしかしたら晴れるのではないか」
そう期待して運営会社に電話をし、運行状況を聞くとまだ再会する予定はないとの返事だった。
しかしながら、そんな電話をしている合間にも、
雲の厚みは取れ、西日が差し始めていた。
「HANAちゃん、外に出よう!」この日一番の大きな声でそのように言うと、
カメラを持ってホテルを出て行った。
早足で外に出ると、そこには大きな虹が空一面にかかっていたのだった。
その時の感動を形容できる言葉を僕は残念ながら持ち合わせてはいないけれど
光景は目に焼き付いている。
近くにいた人たちも、足を止め空にかかる虹を眺めているようだった。
雨はすっかりやんでおり、雨で濡らした道路に夕日が光っている。
鏡で反射させたようなその美しい街並に僕たちは言葉を失った。
赤く染まる夕日、ひっそりと周囲を照らす外灯。
まるでパリの町にでも迷い込んでしまったような、
美しい映画の舞台にいるような錯覚に陥る。
美しい映画の舞台にいるような錯覚に陥る。
この場所にHANAと来られてよかった。
僕はそう思った。
僕たちは時間の経つのも忘れ、日が暮れて外灯の明かりだけになっても
その場から動くことはなかった。
2013年10月4日金曜日
七戸町
目が覚めると、まだ少しだけ酔いを感じた。
昨夜の夕飯時にかなりの量の日本酒を飲んだせいだった。
しかしながら二日酔いとまではならないところをみると
やはり美味い日本酒だったのだろうと思った。
iPhoneを手にとり時刻を確認すると、まだ6時だった。
しかしながら、玄関の外ではお義父さんが車にエンジンをかけて
出かける準備をしていた。
この日、八戸の港湾で行われている朝市に行くことになっていた。
僕は眠い目をこすり急いで支度をすると、車に乗り込んだ。
1時間ほどのドライブで目的の場所に着いた。
普段は駐車場として使われているであろうスペースに、
所狭しとテントが建てられ、各々が自慢の商品を並べ、
威勢のいいかけ声を飛ばしていた。
しかしながら青森の言葉を理解するにはワンテンポ時間をとられてしまう。
イントネーションの違いならまだしも、聞いたことのない単語も飛び交っていて
こっそりとHANAに耳打ちするのであった。
「あれなんて言ってるの?」
お義父さんは、この朝市に来るのが習慣となっているようで、
ここで買い物をしたものを、東京の僕たちの家に送ってくれることもあった。
足取りはとても軽く、人ごみをものともしていない。
目的のサバ寿司を探す眼光は鋭く、
ほかにもなにかよいものはないか探しているようだった。
所々で足を止め、果物を買い込んでいた。
一周してから、もう一度逆方向に進んでいると、
ようやく目的のサバ寿司を売っている店を発見した。
「最後の1パックでしたよ」
店員のおばさんは優しい口調で言った。
この時、まだ7時半頃だった。
それでも既に売り切れていたり、テントを畳み始めている店もあった。
目当てのラーメン屋も既に完売で、僕たちは豚汁を買い求め、
ビールケースをひっくり返した簡易的な椅子に座って食べた。
お腹いっぱいになったところで、家に戻った。
正午を過ぎると、またお義父さんに車を出してもらい、
七戸町へと向かった。HANAの友達に会い、祭りを見ることになっていたのだ。
台風の影響で空は暗かった。
そして車の窓に打ち付ける雨がだんだんと強くなっていった。
友達の家の付近で車から降りると、
「この辺だったはずなんだけど」とHANAは言ってすたすたと歩き始めた。
おそらく何度も通った道なんだろう。すぐに家は見つかった。
友達とは結婚式以来の再会だった。
昼食を一緒にとることになっていて、近所にあるオススメの店へと連れて行ってくれた。
HANAの高校時代からの、今も連絡を取り合うような気の置けない友達は
二人目の子供のお母さんとなっていた。
上の子と、旦那さんを含めて食事をしていたのだけど、
子供との会話というのはとても面白かった。
自分が知り得たことを説明したがるのだ。
大人4人は、そんな子供の成長していくさまを見ては顔がほころぶのであった。
店を出る頃には雨が本降りになっていた。
『どんなに強い雨が降っていても中止になることがない祭り』
そのように聞いていたのだけど、
容赦のない雨を見るとそれは無理だろうと心の中で思った。
商店街を歩いていると、友達の顔なじみの店の人が、歩道に椅子を用意してくれて
「そこに座って見るといいよ」と言ってくれた。
僕たちはその言葉に甘えさせていただくことにして、ベストポジションを確保した。
時間が経つにつれて雨脚は増していった。
少し先が白くて見えないくらいだ。
それでも車道には警察官がパトカーを走らせ、交通整理をしていた。
そして誰も通らなくなった。
遠くの方で、かけ声が聞こえ、大きな山車が見え始めた。
青森と言えば『ねぶた』をすぐに連想してしまうのだけど、
それに負けずとも劣らない技巧を凝らした山車だった。
そしてその山車には中高生くらいの男女が乗り込み、
太鼓を叩き、笛を吹いていた。
僕の地元で言えば『しゃぎり』というものであろう。
各町内が自慢の山車を引き連れ、
商店街を練り歩き、踊りながら行進して行く。
「雨などいいビタミン剤だ」と言わんばかりに力強い姿だった。
台風の影響で雨の勢いは止まることを知らず
演者たちを打ち付けていたのだけど、結局最後のチームまで無事に終わることができた。
『本当に中止にならなかった!』と僕は思った。
店の人に場所を提供してくれた礼を言うと、友達にも別れを告げて帰宅した。
家に着くと、一休みをしてから、用意してくれていた夕飯を食べた。
そして、また日本酒をいただいた。
実に美味い酒だった。
僕は調子に乗ってグビグビと飲み続けると、
仏壇のある部屋で、ご先祖様に見られながらその場で寝てしまった。
『やれやれ、娘婿は困ったものだ』
などと思われてなければよいのだけれど。
2013年10月3日木曜日
青森
とある土曜日の早朝、僕とHANAは新幹線に乗って青森へと向かった。
前日の仕事は23時頃には終わり、比較的健全に家に帰った。
家に帰ったら3泊4日の旅路の支度をしようと思っていたのだけれど、
なぜか手を付けられずにいて、最近はまっているテレビドラマを
ネットの動画配信サービスで見ながら、倍返しだなどと息巻いていたら
いつの間にか、朝になっていた。
結局、出発時刻の15分前に支度を終わらせて家を出た。
電車は土曜日だというのに高校生であふれていた。
彼らは熱心に参考書を読んでいたり、友達と屈託のない笑顔で話をしていた。
そんな彼らは、僕らが向かっていた大井町駅に着く間にいなくなっていった。
大井町から東京駅へ向かう。
電車内は、旅行バッグを持った人たちであふれていた。
言わずもがな東京駅の土産コーナー、駅弁コーナーは殺気立ってすらいた。
そんな姿は買い物をする意欲を半減させたが
僕はその辺にあった比較的空いている店で弁当を買った。
改札を抜けて東北新幹線のホームへと行き、売店でビールを買った。
新幹線は定刻通りホームへと到着し、
僕たちは指定された席に座るとビールで乾杯した。
僕は駅弁を食べ、ビールを飲み、ドラマの原作本などを読みふけっていた。
不思議と新幹線の中でも寝ることはなかった。
数年前まで、東京からHANAの実家に行くまでには、
電車を乗り継ぐ回数が多く、大変だったらしいのだけど、
新幹線が開通した今、家の最寄りに駅ができて交通事情は一変したとのことだった。
目的の駅に着くと、改札の向こうにお義父さんの姿があった。
迎えにきてくれていたのだ。
挨拶もそこそこに車に乗り込むと、家へと向かった。
これまで、冬の青森にしか来たことがなかったので、
夏の青森の姿に驚いた。
一面雪景色で、植物の姿などまるでないように見えていた世界は、
青々とした森林に囲まれていて、空気はとても澄んでいた。
青森という地名、そのものである。
家に到着すると、お義父さんの兄妹が揃っていた。
結婚式以来の再会である。
矢継ぎ早に交わされる挨拶。
昼食を用意してくれていて、それを食べ終えた頃にはビールも出てきた。
僕は嫁の実家にいることを自覚しながら
ビールを1本、2本と空けていくのであった。
お義父さんの兄妹たちはお酒が好きとのことで
それぞれの家にお邪魔した際に、とてもおいしい日本酒を飲ませてくれたことがあった。
今回は親戚が一堂に会すので、お酒を一緒に飲むことを楽しみにしていたのだけれど
タイミングが合わず、結局一緒に飲むことはできなかった。
それぞれが家に帰る前に、七戸で有名なジェラートを食べに行こう
ということになり、ナミキという店へと向かった。
木々に囲まれた一本道を進んでいくとその店はあった。
とても開放感のある場所で、景色は美しく、またジェラートも格別だった。
店にはひっきりなしに人が訪れており、人気の高さが伺えた。
そこでみんなとお別れした。
僕たちは、家から比較的近い位置にある大型スーパーへと向かった。
カメラのフィルムを切らしていたために、カメラ屋でフィルムを4本買った。
早速カメラにフィルムをセットすると、
グルスキーの99セントショップの写真を真似て、店内を試し撮りした。
さっきまでいた木々に囲まれた一本道を、写真におさめたかったな、と
悔しく思っても空しいだけであった。
夕飯の買い物を一通り済ませ家に帰ると、
お義母さんは畑で枝豆を収穫していた。
冬には窺い知ることのできなかったハッピーガーデンである。
僕の背丈以上の高さのあるひまわり。
暑さの中にも秋の訪れを感じさせるトンボが飛び交う。
道に沿って植物が大きな花を咲かせている。
たくさんの種類の植物があり、一つ一つを説明してくれた。
この頃ようやく、僕にも睡魔が襲ってきた。
大きなハンマーを持った猿が僕の頭を打ち付けたような睡魔だ。
HANAは、お義母さんと枝豆の収穫を続けていて、
大きな笑い声をあげていた。
僕は朦朧としながら、用意してくれていた布団につっぷすと
彼女たちの無邪気な笑い声を聞きながら眠りについた。
夕飯の時間まで目を覚ますことはなかった。
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