朝、理子を保育園に送りに行くのは大抵花さんで、家をでて下り坂を進み、小さな交差点を渡ったところでバイバイする。
後ろ姿をしばらく見送ったあと、駅へと向かう。イヤホンをつけsoundcloudを立ち上げる。そして特にどの曲をというわけでもなく、誰かの曲を聴いて駅まで歩く。
道中、建設途中のマンションがあって、朝から工事をしている。工事が始まったばかりのころ、防音シートが張り巡らされ、関係者入り口のところに、工事の人向けと思われる飲料自動販売機が一台設置された。それから、今では3台目が設置されていた。伊藤園 、ダイドー、コカコーラ。次はコンビニでもできるんじゃなかろうかと思う。
駅のホームに着くと、鞄から文庫をとりだす。今読んでいる本は、ヘミングウェイの『移動祝祭日』。エッセイというのか日記というのか、パパのパリでの日常などが書かれている。話の中にピカソが出てきたりして、映画『ミッドナイトインパリ』の情景が思い浮かぶ。時代背景が立体化して面白い。
とはいえこの本は10年近く前に、当時の職場でもらった本。当初はパラパラと何項目かを読んだだけで終わっていたものを、掘り返して今読んでいるというわけだ。
翻訳物にどうしても抵抗があるので、ショートストーリーを読むのは気持ち的に楽だった。
電車の乗り換えを一度して、一駅。駅直結のビルに職場はあり、そこでデザインの仕事をする。外出は食事の時くらいなもので、18時までほぼ机の前に座っている。
仕事はウィークリーの媒体で、内容は特集、ニュース、連載などとある。時折、下版のタイミングで大きなニュースが流れてきて、記事を差し変える、などということもある。ここのところで一番職場がざわついたのは、リカルドティッシがバーバリーのクリエイティブディレクターに就任したときだろうか。
18時に会社を出て、電車に乗って保育園にお迎えに行く。以前の生活リズムでは気づくことはなかったのだけど、この時間帯に帰宅している人たちが意外にも多いように思う。自宅の最寄駅でも、スーパーで買い物をしているサラリーマンの姿をよく見かける。こういう生活をちゃんと手にしている人もいるのだなと思う。
18時50分、理子のお迎えに行く。「まるでシャワーでも浴びたかのように汗だくだった」と先生に言われる。まだ5月だというのに、これからどうなってしまうんだろうと思う。
「今日は何をして遊んだの?」
「ここちゃんと遊んだよ!」
話をしながら歩いて行くと、朝、花さんと別れた交差点。そこに花さんがいる。
「ママー!」と駆け寄る理子。
交差点を渡り、坂道を登って家に帰った。
2018年5月19日土曜日
2018年5月16日水曜日
2018年5月15日火曜日
育児
日々がめまぐるしく過ぎていく。自分が週刊で発行する媒体の仕事をしているから、「何曜日に何があって、あれをしなくてはならない」という働き方をすることも、平日があっという間に過ぎていく要因と言える。
親になるというのは子供の分の生活までをすることらしい、ということに気がついたのはつい最近のことだ。食事の用意や着替え、お風呂に歯磨き。どれも諸々を用意して与えなくてはならない。花さんと二人で連携して、阿吽の呼吸でそれらを行っていく。
自分だけだったら妥協してもいいけど、それだと子供がアレだから、と言った理由で重い腰を上げることもある。
思い通りにいかないのがデフォルト。この子は生まれてからまだ3年しか経っていない、と思えば、パジャマをなかなか着ないで遊び始めてしまう理子に怒っていたことが馬鹿バカしくなって、好きにせい、と思ってしまう。
朝の7時過ぎに起きてくる理子を9時に保育園に預け、何事もなければ19時にお迎えに行く。それから就寝する22時までが親子の時間となる。
そう考えると、24時間のうちのほんの数時間しかコミュニケーションを取れない。
時折ネットで子育てについて調べることがあるのだけど、そういうのを見ると自分はなにか子供にできているのか不安になる。
子供と生活はしているけれど、果たして育児はできているのか。成長できるようなことを補助してあげられているのか、と悩む、というほどではないけれど、どこかでいつも引っかかっていた。
とある日、理子と一緒に道を歩いていると、信号無視して横断歩道を渡っている人がいた。すると理子は「信号は青にならないと渡っちゃだめなんだよね」と僕に言ったことがあった。それは僕がいつも理子に言い聞かせていることだった。
とても些細なことではあったのだけど、理子の身についたんだなと思って嬉しくなった。何か体験を通して成長することじゃなくても、日々の繰り返しの生活で浸透させてあげることも育児ということなんだろうと妙に腑に落ちた。
親になるというのは子供の分の生活までをすることらしい、ということに気がついたのはつい最近のことだ。食事の用意や着替え、お風呂に歯磨き。どれも諸々を用意して与えなくてはならない。花さんと二人で連携して、阿吽の呼吸でそれらを行っていく。
自分だけだったら妥協してもいいけど、それだと子供がアレだから、と言った理由で重い腰を上げることもある。
思い通りにいかないのがデフォルト。この子は生まれてからまだ3年しか経っていない、と思えば、パジャマをなかなか着ないで遊び始めてしまう理子に怒っていたことが馬鹿バカしくなって、好きにせい、と思ってしまう。
朝の7時過ぎに起きてくる理子を9時に保育園に預け、何事もなければ19時にお迎えに行く。それから就寝する22時までが親子の時間となる。
そう考えると、24時間のうちのほんの数時間しかコミュニケーションを取れない。
時折ネットで子育てについて調べることがあるのだけど、そういうのを見ると自分はなにか子供にできているのか不安になる。
子供と生活はしているけれど、果たして育児はできているのか。成長できるようなことを補助してあげられているのか、と悩む、というほどではないけれど、どこかでいつも引っかかっていた。
とある日、理子と一緒に道を歩いていると、信号無視して横断歩道を渡っている人がいた。すると理子は「信号は青にならないと渡っちゃだめなんだよね」と僕に言ったことがあった。それは僕がいつも理子に言い聞かせていることだった。
とても些細なことではあったのだけど、理子の身についたんだなと思って嬉しくなった。何か体験を通して成長することじゃなくても、日々の繰り返しの生活で浸透させてあげることも育児ということなんだろうと妙に腑に落ちた。
2018年5月14日月曜日
家族写真
狭っ苦しい都内では考えられないのだけど、BBQをやろうといって自宅の敷地内でやれてしまうのが地元のよさである。
隣近所と近接していないし、問題ないようである。とはいえ僕が子供のころは自宅でBBQをやるという文化はなかった。
完成したばかりの庭で、それをするのに抵抗があったかもしれないのだけど、思いっきり肉を焼いている。祖父母も加わっていたので、アウトドア用の簡易テーブルでは足りず、近所のカインズホームで買い足しにいった。父の運転する車に乗って僕も付き添った。僕も免許はあるのだけど完全なるペーパードライバーだ。
僕はホームセンターと呼ばれる店が好きである。今の僕の生活圏内ではなかなか見つからない。東急ハンズというのはまた種類が違うように思う。
近所にこんな店があったら、木の板を買ってきて、棚を取り付けたり簡易的なDIYなどを楽しめそうなのに、と思う。
このホームセンターが出来たばかりのときはなぜこんな町の外れのようなところにつくるのだろうと思っていたけれど、今ではその敷地を拡張し食材を扱うスーパーまで出来たようである。当然のことながら店内は馬鹿広い。目的の商品を見つけるまでかなり右往左往してしまった。結局父がそれを見つけた。
家に戻って組み立てる。ここのところ風の強い日が続いており、この日も御多分に洩れずであった。紙皿は吹き飛び煙はまっすぐ上に伸びていかず、隣近所に撒き散らしていた。
子供達は庭を駈け回りなかなか食べようとしない。風も吹いていて寒さすら感じるということで、僕はあまりビールを飲むこともなく、それなりの時間に終了した。
僕は屋根裏部屋にもぐりこみ、漫画を読みふけった。昔はかなり大量の漫画があったのだけど、今ではその数はだいぶ減っていた。とはいえ車庫として使っていたガレージに大量に保管されている。
僕は幽遊白書の仙水編から読み始める。それが読み終わると飽き足らず、レベルEを読む。
子供達はもう寝室で寝始めている。この日も理子の争奪編が繰り広げられているようで、一人の女を奪い合う怒号が聞こえ、泣き叫ぶ声が聞こえ、「理子なんて大嫌い!」となんだか恋愛の縮図のようなものが行われていたようだった。
彼女たちが寝静まった頃寝室に入ると、めいめいがマティスの絵にでも出てきそうな格好をして寝ていた。いずれも布団から大きくはみ出し、どうしてそこに留まることに決めたのか、という場所で。僕はその合間を縫って布団に体をうずめた。眠りにつくまでには時間がかかった。誰かに蹴られるからだ。
夜更かししたせいで朝は遅かった。
この日の昼過ぎには帰ることになっていたので、食事を済ませると、荷造りをした。
帰る前に、田子の浦にある公園に連れて行ってくれた。この場所は初めてきたのだけど、かなりいい場所だった。広大な土地はきちんと整備され、遊具があり、船を模したアスレチックがあった。海のすぐ近くということで景色がよかった。結婚衣装を着たカップルが写真撮影もしていた。抜群のロケーションだった。
シンボルチックな高い建物に上ると、富士山の裾野まで見渡せた。地元の良さを再発見できるようなそんなスポットだった。当然のことながら子供達はその辺を駆け回った。
お昼が近くなると、漁港に行き、しらすを食べることにした。併設された食堂があり、そこは長テーブルがいくつも並べられた場所だった。なんだかとってもグッとくる場所。綺麗とは程遠い雰囲気だけど、とてつもなく美味しいものが食べられる予感がする
すでに完売したメニューもあったのだけど、僕が食べたのは釜揚げしらすと生しらすの丼だった。生しらすを食べたのは初めてのことではないのだけど、ここで食べたのはまるで「うに」のような味がするものだった。当たり前のことを言うとかなり美味しかった。
美味しさとは別に、贅沢な味がした。
食事を終えると車に乗って家に戻った。そして家族写真を撮ることにした。
新しい家を背景として、今ある家族の姿を撮っておきたかった。それは今あることがいつまでも続くわけではないという想いがあるからだった。
家族と離れて暮らしていると、特にそう思う。祖父母は高齢だし、ここ最近入院もしていた。年老いていく姿も半年単位で見ることになり、予感もなくなにかが起きてしまうことがあるかもしれない。家族に会うのは、日にちではなく、回数でしか数えることができないといっても過言ではない。
そういったわけで、父とともに三脚をセッティングし、カメラを構えた。
兄は新しい家を建てた一家の主としての顔。
子供達は強く照らす日差しに文句を言ってる顔。
それぞれの母たちはそんな子供たちを優しく見つめていた。
そんなそれぞれの顔が写真に映し出されていた。
写真を撮ったあと駅まで送ってもらった。その直前、お世話になった近所の(もう一人の父たち)が顔を見せに来てくれた。あまり喋ることはできなかったけれど、会えてよかった。
帰るたびに「結局地元」って思う。
花さんにとっては本当の地元ではないけれど、そのように思ってくれてたら嬉しい。
僕たちは東京に帰って行った。
隣近所と近接していないし、問題ないようである。とはいえ僕が子供のころは自宅でBBQをやるという文化はなかった。
完成したばかりの庭で、それをするのに抵抗があったかもしれないのだけど、思いっきり肉を焼いている。祖父母も加わっていたので、アウトドア用の簡易テーブルでは足りず、近所のカインズホームで買い足しにいった。父の運転する車に乗って僕も付き添った。僕も免許はあるのだけど完全なるペーパードライバーだ。
僕はホームセンターと呼ばれる店が好きである。今の僕の生活圏内ではなかなか見つからない。東急ハンズというのはまた種類が違うように思う。
近所にこんな店があったら、木の板を買ってきて、棚を取り付けたり簡易的なDIYなどを楽しめそうなのに、と思う。
このホームセンターが出来たばかりのときはなぜこんな町の外れのようなところにつくるのだろうと思っていたけれど、今ではその敷地を拡張し食材を扱うスーパーまで出来たようである。当然のことながら店内は馬鹿広い。目的の商品を見つけるまでかなり右往左往してしまった。結局父がそれを見つけた。
家に戻って組み立てる。ここのところ風の強い日が続いており、この日も御多分に洩れずであった。紙皿は吹き飛び煙はまっすぐ上に伸びていかず、隣近所に撒き散らしていた。
子供達は庭を駈け回りなかなか食べようとしない。風も吹いていて寒さすら感じるということで、僕はあまりビールを飲むこともなく、それなりの時間に終了した。
僕は屋根裏部屋にもぐりこみ、漫画を読みふけった。昔はかなり大量の漫画があったのだけど、今ではその数はだいぶ減っていた。とはいえ車庫として使っていたガレージに大量に保管されている。
僕は幽遊白書の仙水編から読み始める。それが読み終わると飽き足らず、レベルEを読む。
子供達はもう寝室で寝始めている。この日も理子の争奪編が繰り広げられているようで、一人の女を奪い合う怒号が聞こえ、泣き叫ぶ声が聞こえ、「理子なんて大嫌い!」となんだか恋愛の縮図のようなものが行われていたようだった。
彼女たちが寝静まった頃寝室に入ると、めいめいがマティスの絵にでも出てきそうな格好をして寝ていた。いずれも布団から大きくはみ出し、どうしてそこに留まることに決めたのか、という場所で。僕はその合間を縫って布団に体をうずめた。眠りにつくまでには時間がかかった。誰かに蹴られるからだ。
夜更かししたせいで朝は遅かった。
この日の昼過ぎには帰ることになっていたので、食事を済ませると、荷造りをした。
帰る前に、田子の浦にある公園に連れて行ってくれた。この場所は初めてきたのだけど、かなりいい場所だった。広大な土地はきちんと整備され、遊具があり、船を模したアスレチックがあった。海のすぐ近くということで景色がよかった。結婚衣装を着たカップルが写真撮影もしていた。抜群のロケーションだった。
シンボルチックな高い建物に上ると、富士山の裾野まで見渡せた。地元の良さを再発見できるようなそんなスポットだった。当然のことながら子供達はその辺を駆け回った。
お昼が近くなると、漁港に行き、しらすを食べることにした。併設された食堂があり、そこは長テーブルがいくつも並べられた場所だった。なんだかとってもグッとくる場所。綺麗とは程遠い雰囲気だけど、とてつもなく美味しいものが食べられる予感がする
すでに完売したメニューもあったのだけど、僕が食べたのは釜揚げしらすと生しらすの丼だった。生しらすを食べたのは初めてのことではないのだけど、ここで食べたのはまるで「うに」のような味がするものだった。当たり前のことを言うとかなり美味しかった。
美味しさとは別に、贅沢な味がした。
食事を終えると車に乗って家に戻った。そして家族写真を撮ることにした。
新しい家を背景として、今ある家族の姿を撮っておきたかった。それは今あることがいつまでも続くわけではないという想いがあるからだった。
家族と離れて暮らしていると、特にそう思う。祖父母は高齢だし、ここ最近入院もしていた。年老いていく姿も半年単位で見ることになり、予感もなくなにかが起きてしまうことがあるかもしれない。家族に会うのは、日にちではなく、回数でしか数えることができないといっても過言ではない。
そういったわけで、父とともに三脚をセッティングし、カメラを構えた。
兄は新しい家を建てた一家の主としての顔。
子供達は強く照らす日差しに文句を言ってる顔。
それぞれの母たちはそんな子供たちを優しく見つめていた。
そんなそれぞれの顔が写真に映し出されていた。
写真を撮ったあと駅まで送ってもらった。その直前、お世話になった近所の(もう一人の父たち)が顔を見せに来てくれた。あまり喋ることはできなかったけれど、会えてよかった。
帰るたびに「結局地元」って思う。
花さんにとっては本当の地元ではないけれど、そのように思ってくれてたら嬉しい。
僕たちは東京に帰って行った。
2018年5月10日木曜日
kids are alright
半袖で歩くには肌寒いから、玄関脇にある簡易クローゼットのところにあるジャケットを拝借して着ることにした。時刻は朝の7時前。だれもが寝静まっている時間である。ゴールデンウィーク中であるから当然のことと言える。でも日中あれだけうるさいのに、生活音がまるでしないから他人の家にでもいるかのようだ。
子供の寝かしつけに合わせて自分自身が寝てしまうため、(むしろ一番に寝てしまうので)起きるのも必然的に早い。10時半には寝てしまうから7時間寝たとしても、早朝に目が覚めてしまう。昔は何時間でも眠り続けることができたけれど、歳をとるというのはこういうことなのかもしれない。
この前もそうだったように、やはり海へと散歩に行くことにしたのだった。
自分が子供の頃は、魚屋の脇を通ってフェンスのない線路を渡って海へと行ったものだった。それがいい悪いというわけではないけれど、そういう時代だった。今では踏切を渡って以前よりは迂回することとなる。
国道はまるで車が走っていない。それでも押しボタン式の信号を使ってきちんと渡るのは理子が生まれてからの癖だ。
防風林である松林を抜ける。海岸線に沿って造られている防波堤を登ると、ランニングしている人やサイクリングしている人たちがいた。
波打ち際には釣りをしていると思しき人たちの姿が等間隔で続いていた。遊泳禁止のこの海岸線では遊んだ記憶はほとんどなく、初日の出を見る時くらいしか来たことがない。
だけど、一度だけこの場所にこようと思ってきたことがある。それは20代半ばの時に突発性難聴になったときだ。ちょうどこのくらいの時季のことで、耳が聞こえない恐怖心を消すために、海を見に来たのだった。
今回は、西の方角に歩いてみることにする。海を歩いていてもまるで景色など変わらないから、自分が満足したところでやめることになる。やめたところで引き返さなくてはならないからその辺のことも考える。
しばらく歩いていると、モーター音が聞こえ、数人が上を向きながらなにやら話をしていた。その視線の先にはドローンがあった。彼らはそれを沖の方に飛ばしていた。
さらに歩いて行くと、小さな看板が立てかけられていた。『ゲラティック号』というのが座礁した場所らしい。なんとなく話は聞いたことがあったけれど、実際にその場所に来たのは初めてのことだった。世の中知らないことばかりだ。これ以上進んでいくと深みにはまりそうだったので戻ることにした。
来た道をただ戻るのもつまらないので、防波堤を降りて、松林の中を歩いて帰った。しまいに行きどまりになったり墓があったり、家が唐突にあったりと、松林の中は不思議なところだった。当然初めて歩いた道だった。
そのうち県道にでて、行きにも通った踏切を渡り、家に帰った。だけど、起きている人は誰もいなかった。
家族が起きだして食事を済ませると、富士市のとあるお店に行った。そこは個人が経営している韓国製の子供服を売っている店だった。義姉がよくこの店で買い物をしているらしく、連れて行ってもらったのだった。
6畳くらいのスペースに所狭しと服が積まれている。デザイン性の高さの割に値段が比較的安い。トンデムンででも仕入れてきたのだろうか。
子供達にとって洋服屋ほどつまらないものはないわけで、彼女たちは敷地内にある遊びスペースで戯れていたのだけど、3分に一度は誰かが泣いていた。自分が使い終わって手を離したとして、誰かがそれを手にするのが嫌なのだ。店のお姉さんは、場数を踏んでいるようで、そういった子供の対処の仕方を熟知しており、いとも簡単にあしらっていた。そのおかげで親たちの手には服がいくつも収められていた。
花さんは数着購入していた。本当は韓国に行って買い物をしたいのだろうな、と思わざるをえない。
お昼時になったのだけど、そのまま祖母の家に行く。当然のことながらみんなは食事の最中だった。
仏壇におみやげを供え、線香をあげる。この家に来た時は手を洗うより先にそれをすることが身についている。祖父が亡くなってからは、祖父に向けて手をあわせるようになった。来るたびに話をすることがいくつもあるのだ。
一通り挨拶を終えると、子供達はお腹が減ったとわめき、大人も腹を鳴らしていた。
おばちゃんは、手際よく複数品作ってくれた。まず子供達が食べ、その後に親たちが続いた。まるでご飯を食べに来たかのようだった。
子供達はお腹を満たすと暴れだすので、おじちゃんと一緒に子供を連れて近所の公園へと行く。公園といっても神社の脇にいくつか遊具がある場所。自分が子供の頃から遊ぶ場所。どれもこれもあの頃と同じものがそこにある。今ではそれで自分の子供が遊んでいる。
滑り台を何往復もして、鉄棒でただぶら下がって、ブランコに乗りたがるのにいざ乗せると怖がって降りたがる。勝手気ままなキッズたち。
誰かが帰りたいと行って、みんなで仲良く手をつないで家に戻った。そして沼津に帰った。本当にご飯を食べに寄ったみたいだった。9人もの大人数で!祖母の前ではみんなが子供だったということだろうか。
帰り道、スーパーに寄って夕飯の食材を買った。夜は BBQだ。
子供の寝かしつけに合わせて自分自身が寝てしまうため、(むしろ一番に寝てしまうので)起きるのも必然的に早い。10時半には寝てしまうから7時間寝たとしても、早朝に目が覚めてしまう。昔は何時間でも眠り続けることができたけれど、歳をとるというのはこういうことなのかもしれない。
この前もそうだったように、やはり海へと散歩に行くことにしたのだった。
自分が子供の頃は、魚屋の脇を通ってフェンスのない線路を渡って海へと行ったものだった。それがいい悪いというわけではないけれど、そういう時代だった。今では踏切を渡って以前よりは迂回することとなる。
国道はまるで車が走っていない。それでも押しボタン式の信号を使ってきちんと渡るのは理子が生まれてからの癖だ。
防風林である松林を抜ける。海岸線に沿って造られている防波堤を登ると、ランニングしている人やサイクリングしている人たちがいた。
波打ち際には釣りをしていると思しき人たちの姿が等間隔で続いていた。遊泳禁止のこの海岸線では遊んだ記憶はほとんどなく、初日の出を見る時くらいしか来たことがない。
だけど、一度だけこの場所にこようと思ってきたことがある。それは20代半ばの時に突発性難聴になったときだ。ちょうどこのくらいの時季のことで、耳が聞こえない恐怖心を消すために、海を見に来たのだった。
今回は、西の方角に歩いてみることにする。海を歩いていてもまるで景色など変わらないから、自分が満足したところでやめることになる。やめたところで引き返さなくてはならないからその辺のことも考える。
しばらく歩いていると、モーター音が聞こえ、数人が上を向きながらなにやら話をしていた。その視線の先にはドローンがあった。彼らはそれを沖の方に飛ばしていた。
さらに歩いて行くと、小さな看板が立てかけられていた。『ゲラティック号』というのが座礁した場所らしい。なんとなく話は聞いたことがあったけれど、実際にその場所に来たのは初めてのことだった。世の中知らないことばかりだ。これ以上進んでいくと深みにはまりそうだったので戻ることにした。
来た道をただ戻るのもつまらないので、防波堤を降りて、松林の中を歩いて帰った。しまいに行きどまりになったり墓があったり、家が唐突にあったりと、松林の中は不思議なところだった。当然初めて歩いた道だった。
そのうち県道にでて、行きにも通った踏切を渡り、家に帰った。だけど、起きている人は誰もいなかった。
家族が起きだして食事を済ませると、富士市のとあるお店に行った。そこは個人が経営している韓国製の子供服を売っている店だった。義姉がよくこの店で買い物をしているらしく、連れて行ってもらったのだった。
6畳くらいのスペースに所狭しと服が積まれている。デザイン性の高さの割に値段が比較的安い。トンデムンででも仕入れてきたのだろうか。
子供達にとって洋服屋ほどつまらないものはないわけで、彼女たちは敷地内にある遊びスペースで戯れていたのだけど、3分に一度は誰かが泣いていた。自分が使い終わって手を離したとして、誰かがそれを手にするのが嫌なのだ。店のお姉さんは、場数を踏んでいるようで、そういった子供の対処の仕方を熟知しており、いとも簡単にあしらっていた。そのおかげで親たちの手には服がいくつも収められていた。
花さんは数着購入していた。本当は韓国に行って買い物をしたいのだろうな、と思わざるをえない。
お昼時になったのだけど、そのまま祖母の家に行く。当然のことながらみんなは食事の最中だった。
仏壇におみやげを供え、線香をあげる。この家に来た時は手を洗うより先にそれをすることが身についている。祖父が亡くなってからは、祖父に向けて手をあわせるようになった。来るたびに話をすることがいくつもあるのだ。
一通り挨拶を終えると、子供達はお腹が減ったとわめき、大人も腹を鳴らしていた。
おばちゃんは、手際よく複数品作ってくれた。まず子供達が食べ、その後に親たちが続いた。まるでご飯を食べに来たかのようだった。
子供達はお腹を満たすと暴れだすので、おじちゃんと一緒に子供を連れて近所の公園へと行く。公園といっても神社の脇にいくつか遊具がある場所。自分が子供の頃から遊ぶ場所。どれもこれもあの頃と同じものがそこにある。今ではそれで自分の子供が遊んでいる。
滑り台を何往復もして、鉄棒でただぶら下がって、ブランコに乗りたがるのにいざ乗せると怖がって降りたがる。勝手気ままなキッズたち。
誰かが帰りたいと行って、みんなで仲良く手をつないで家に戻った。そして沼津に帰った。本当にご飯を食べに寄ったみたいだった。9人もの大人数で!祖母の前ではみんなが子供だったということだろうか。
帰り道、スーパーに寄って夕飯の食材を買った。夜は BBQだ。
2018年5月9日水曜日
帰り道
GW中、事前にどこに行きたいかを兄に聞かれていた。GW中なんてどこに行っても人の背中しか見えなそうなのだけど、子供の気持ちになって「動物園」と答えた結果、兄は我々を日本平動物園へと連れて行ってくれた。
車2台に乗り込み、家を出た。僕は父親が運転する車に乗った。二人きりだった。タクシードライバーの父は、至極丁寧に運転した。そして兄が運転するワゴン車の尻を丁寧に追いかける。
たわいもない話を目的地に着くまでしていたのだけど、父とそのような会話をすることはとても久しぶりのことだった。内容は大したことないけれど、穏やかな時間だ。
道路は思っていたほど混んでおらず、スムーズに進んでいく。
車のなかではラジオがかかっており、一昔前の、僕が生まれる前の邦楽を流す番組が選ばれていた。
聴くともなくきいていると、妙に耳に残る歌が流れてきた。
「くたばっちまえ」「アーメン」
女性ボーカルで、そのように歌っている。
きちんと聴いてみると、どうやら結婚を題材にした歌らしいが興味を持った途端に曲が終わってしまった。
すぐさまiPhoneでググる。
「くたばっちまえ」「アーメン」
途中コンビニで昼食の食料を調達し、トレイ休憩をした。子供達は皆オムツをしていないので、トイレ休憩は重要な項目である。
東静岡駅から、日本平動物園行きのシャトルバスが運行しているということを義姉が調べてくれていたのでそこに向かった。
駐車場から乗り場まで行くと、100人くらいの人の列ができていた。当然のことながらそれはシャトルバスを待つ人々だ。
GWを実感させる人の列の最後尾に並ぶ。しばらく待っていると、意外にもバスは何便も到着し、1時間もしないうちにバスに乗って動物園に行くことができた。中には待ちきれずタクシーに乗り込んでいく人たちもいたけれど、経済を活性化させてよろしいことだと思った。
チケットも割とすぐに購入できた。入場してすぐにしたことは、子供達の記念撮影だ。しかし上は6歳、下は3歳の子供たち4人は、立ち止まって写真を撮らせてくれなどしない。
誰かがポーズを決めると誰かはひっくり返っている。諦めることを覚えないと次に進むことはできない。
芝生でゆったりした場所があるらしく、ご飯を食べるためにそこに向かった。みんな腹を空かせているのである。風が少し吹いているけれど、穏やかな陽気だった。
ビニールシートを持ってこなかったが、芝生の上に直接座るのは気持ちがいい。
おにぎりやサンドイッチをあっという間に食べ終えた子供達は、あてもなく走り出して行った。僕もすぐに食べ終え、追いかけた。追いかけていたつもりが、いつの間にか追われていた。もう動物たちを見に行かなくてもここで十分楽しめるのではないかと思ってしまうほど、子供達はめいめい遊んでいる。走るだけでも楽しいのである。
親たちはそんな姿を見つめていた。
しばらくしてから重い腰を上げ、順路に沿って動物たちを眺めた。
理子は地図を見ながら歩いていた。大人のように振る舞いたいのである。
様々な種類の動物がいる中で、とても良いなと思ったのはキリンの見せ方だ。
通常のアングルもあるけれど、キリンの目線の位置にまで上がって見ることができて、
餌を食べに来る姿が目と鼻の先で、息遣いまで聴こえてきた。
広い園内で、くまなく見て回っても誰も寝る気配がない。抱っこして欲しいとせがまれることはあるけれど、子供達は全力で楽しんでいるようだった。
出口付近の休憩所でソフトクリームを買ってみんなで食べた。結局夕方までしっかりと動物園を堪能することとなった。
帰りの車には羽咲も同乗した。小学校一年生の、かなりおませな女の子だ。話をしていると、どこで覚えたのかと思わせる絶妙な言い回し。大人顔負けな彼女は車に乗ると「ゆずで知ってる曲ある?」と僕に聞いてきた。
どうやら羽咲が通っていた保育園の先生が、ゆずを好きだったらしく、園で歌う曲の中にゆずがあったようだ。
僕が知っているのは「ゆずえん」までだった。
「灰皿の上にためいきをふきかけて〜」と歌ってみても、羽咲は「なにそれしらない」とつれない返事だ。
「もう日は暮れたー薄暗い辺りをぼんやり 街灯が照らしたー」と歌ってみても、羽咲は「なにそれしらないつまらない」と冷たくあしらった。
仕方がないので駐車場の猫の歌を歌ったところ「この前長いくだり坂をたまたま車で走ってたらね、この曲が流れたんだよ!すごくない!?」と彼女は嬉しそうに言った。
世代を超えて歌われるゆずの凄さを知る。
「ブレーキいっぱいにぎりしめてーゆっくりーゆっくりーくだってくぅ」
帰り道は心なしか早く家に着いた気がした。
車2台に乗り込み、家を出た。僕は父親が運転する車に乗った。二人きりだった。タクシードライバーの父は、至極丁寧に運転した。そして兄が運転するワゴン車の尻を丁寧に追いかける。
たわいもない話を目的地に着くまでしていたのだけど、父とそのような会話をすることはとても久しぶりのことだった。内容は大したことないけれど、穏やかな時間だ。
道路は思っていたほど混んでおらず、スムーズに進んでいく。
車のなかではラジオがかかっており、一昔前の、僕が生まれる前の邦楽を流す番組が選ばれていた。
聴くともなくきいていると、妙に耳に残る歌が流れてきた。
「くたばっちまえ」「アーメン」
女性ボーカルで、そのように歌っている。
きちんと聴いてみると、どうやら結婚を題材にした歌らしいが興味を持った途端に曲が終わってしまった。
すぐさまiPhoneでググる。
「くたばっちまえ」「アーメン」
すると便利なもので、きちんと曲名を教えてくれた。
sugarというグループの「ウエディングベル」という曲であることがわかった。
くたばっちまえ
途中コンビニで昼食の食料を調達し、トレイ休憩をした。子供達は皆オムツをしていないので、トイレ休憩は重要な項目である。
東静岡駅から、日本平動物園行きのシャトルバスが運行しているということを義姉が調べてくれていたのでそこに向かった。
駐車場から乗り場まで行くと、100人くらいの人の列ができていた。当然のことながらそれはシャトルバスを待つ人々だ。
GWを実感させる人の列の最後尾に並ぶ。しばらく待っていると、意外にもバスは何便も到着し、1時間もしないうちにバスに乗って動物園に行くことができた。中には待ちきれずタクシーに乗り込んでいく人たちもいたけれど、経済を活性化させてよろしいことだと思った。
チケットも割とすぐに購入できた。入場してすぐにしたことは、子供達の記念撮影だ。しかし上は6歳、下は3歳の子供たち4人は、立ち止まって写真を撮らせてくれなどしない。
誰かがポーズを決めると誰かはひっくり返っている。諦めることを覚えないと次に進むことはできない。
芝生でゆったりした場所があるらしく、ご飯を食べるためにそこに向かった。みんな腹を空かせているのである。風が少し吹いているけれど、穏やかな陽気だった。
ビニールシートを持ってこなかったが、芝生の上に直接座るのは気持ちがいい。
おにぎりやサンドイッチをあっという間に食べ終えた子供達は、あてもなく走り出して行った。僕もすぐに食べ終え、追いかけた。追いかけていたつもりが、いつの間にか追われていた。もう動物たちを見に行かなくてもここで十分楽しめるのではないかと思ってしまうほど、子供達はめいめい遊んでいる。走るだけでも楽しいのである。
親たちはそんな姿を見つめていた。
しばらくしてから重い腰を上げ、順路に沿って動物たちを眺めた。
理子は地図を見ながら歩いていた。大人のように振る舞いたいのである。
様々な種類の動物がいる中で、とても良いなと思ったのはキリンの見せ方だ。
通常のアングルもあるけれど、キリンの目線の位置にまで上がって見ることができて、
餌を食べに来る姿が目と鼻の先で、息遣いまで聴こえてきた。
広い園内で、くまなく見て回っても誰も寝る気配がない。抱っこして欲しいとせがまれることはあるけれど、子供達は全力で楽しんでいるようだった。
出口付近の休憩所でソフトクリームを買ってみんなで食べた。結局夕方までしっかりと動物園を堪能することとなった。
帰りの車には羽咲も同乗した。小学校一年生の、かなりおませな女の子だ。話をしていると、どこで覚えたのかと思わせる絶妙な言い回し。大人顔負けな彼女は車に乗ると「ゆずで知ってる曲ある?」と僕に聞いてきた。
どうやら羽咲が通っていた保育園の先生が、ゆずを好きだったらしく、園で歌う曲の中にゆずがあったようだ。
僕が知っているのは「ゆずえん」までだった。
「灰皿の上にためいきをふきかけて〜」と歌ってみても、羽咲は「なにそれしらない」とつれない返事だ。
「もう日は暮れたー薄暗い辺りをぼんやり 街灯が照らしたー」と歌ってみても、羽咲は「なにそれしらないつまらない」と冷たくあしらった。
仕方がないので駐車場の猫の歌を歌ったところ「この前長いくだり坂をたまたま車で走ってたらね、この曲が流れたんだよ!すごくない!?」と彼女は嬉しそうに言った。
世代を超えて歌われるゆずの凄さを知る。
「ブレーキいっぱいにぎりしめてーゆっくりーゆっくりーくだってくぅ」
帰り道は心なしか早く家に着いた気がした。
2018年5月7日月曜日
あの頃と同じ場所
僕の故郷は沼津で、花さんは青森だ。大型連休の際は、どちらかの実家に帰省するか旅行に行くかとなるのだけど、今年のGWは沼津に帰ることにした。
理子の成長は荷造りをする時にも感じる。めっきり荷物が減ったのである。
年始には、宿泊数よりも余分に着替えとオムツ(日中用と寝る用)を持って行ってたのだけど、それらは今回の帰省に関しては不要だった。3人分の着替えは、ミッションワークショップのリュックサックにすっぽりと収まった。子供の成長は荷物を減らしてくれる。
GWの後半初日は荒れた天気だった。風が強く、それに雨が煽られていた。8時には家を出たいと思っていたけれど、とても無理そうだった。珍しく理子が早起きしたというのに。
天気は次第に良くなっていった。雨が止んだタイミングで出かけた。
GWの新幹線乗客率は100パーセントを超えているとニュースで見ていたため、花さんは東京駅から乗ることを提案した。始発ならいくらなんでも乗ることができるだろう、というわけだ。しかしそんな我々をあざ笑うかのように、東京駅では洗礼をうける。まず乗車券のチケットを買うための行列があり、また改札を通るために行列もできていた。
ホームに出れば、自由席を求めてそれぞれの乗車口のところに10人以上並んでいる。
乗れなそうだったら一本遅らせようということで意見は一致し、とりあえず並んだ。
新幹線が到着すると、意外にもすんなりと席に座ることができた。理子は、もはや東海道新幹線に乗ることに喜びなど感じなくなっていた。一年で何度も乗るからである。
品川、横浜と到着するに連れて、デッキからはみ出た人たちが通路を塞ぐようになった。三島までは40分強。到着したら在来線に乗り換える。新幹線の乗り場から在来線までは少し距離があるので、乗り換えまでの7分は素早く行動しなくてはならない。周りの客も早足である。ホームに着くとほぼ同時に電車が滑り込んできた。
まるで東京にいるかのように満員だった。
すし詰めの電車に乗り、車窓から故郷を眺める。高校生の頃、部活をしていたときは電車で通っていた。もう20年近くも前のことだ。
その時見ていたものとまるで違うのかと言われればそうでもない景色が流れていく。車は空を飛んでいないし、バックトゥーザフューチャーのように3Dの広告もない。
だけど、僕の隣には花さんがいて理子がいた。
原駅に着くと、兄一家が迎えに来てくれていた。車に乗り込むと3姉妹が「理子ー!」と叫ぶ。
実家に着くと、新築の家の前に庭ができていた。施工が終わったばかりらしく、まだカラーコーンが置かれていた。
まだ慣れぬ新築の家にお邪魔すると犬の蓮が出迎えてくれた。吠えないところをみると、ちゃんと僕だということを覚えてくれているらしい。
父母と、祖父に挨拶をする。祖母はデイケアに行ってるらしかった。
荷物をおろし、仏壇にお土産を備えて、お線香をあげた。
子供達は我も我もと線香を手に取り、ポキっと折りながらもなんとか火を点け一丁前に手を合わせている。
そうこうしてる間に手早く昼食が作られ僕たちはご馳走になった。
お昼ご飯を食べると、家の裏に行き、自転車を漕いだりボールで遊んだりする。僕が子供の頃も同じ場所で遊んでいた。車が滅多に通らない道。そこからは大きな鯉のぼりが空を泳いでいるのが見える。あの頃と同じ景色だ。
畑仕事をしていた近所のおばちゃんが僕の姿を見て「優くん?」と声をかけてくれた。
あの頃と同じ場所で、自分の子供が遊んでいる場所で、あの頃面倒を見てくれた近所のおばちゃんと話しをすることの不思議さよ。
3姉妹と理子は、隙あらば使っていた自転車を奪い合い、その度に負けた者の泣き声が響いていた。
夕飯は僕がリクエストしたもんじゃ焼きだった。その頃には祖母も帰宅していて、総勢12名での食卓となった。12人!
誰がこんな姿を想像できただろう。
子供達4人を風呂に放り込み、カラスの行水がごとくかたっぱしから片付けると、布団に入るまで、怒涛の時間を過ごす。
「理子と寝る!」と3人が言い、叶わなかった者は泣いた。
奪い合いの末、結局「ママと寝る」と言う理子に「理子なんて大嫌い!」とふてくされる者あり。
寝入ったと思いきや寝相の悪い子供たちに顔や腹を蹴られ、耳をつねられ3時に目がさめ、そのままなかなか眠ることができなかった。
僕も歳をとったものである。
理子の成長は荷造りをする時にも感じる。めっきり荷物が減ったのである。
年始には、宿泊数よりも余分に着替えとオムツ(日中用と寝る用)を持って行ってたのだけど、それらは今回の帰省に関しては不要だった。3人分の着替えは、ミッションワークショップのリュックサックにすっぽりと収まった。子供の成長は荷物を減らしてくれる。
GWの後半初日は荒れた天気だった。風が強く、それに雨が煽られていた。8時には家を出たいと思っていたけれど、とても無理そうだった。珍しく理子が早起きしたというのに。
天気は次第に良くなっていった。雨が止んだタイミングで出かけた。
GWの新幹線乗客率は100パーセントを超えているとニュースで見ていたため、花さんは東京駅から乗ることを提案した。始発ならいくらなんでも乗ることができるだろう、というわけだ。しかしそんな我々をあざ笑うかのように、東京駅では洗礼をうける。まず乗車券のチケットを買うための行列があり、また改札を通るために行列もできていた。
ホームに出れば、自由席を求めてそれぞれの乗車口のところに10人以上並んでいる。
乗れなそうだったら一本遅らせようということで意見は一致し、とりあえず並んだ。
新幹線が到着すると、意外にもすんなりと席に座ることができた。理子は、もはや東海道新幹線に乗ることに喜びなど感じなくなっていた。一年で何度も乗るからである。
品川、横浜と到着するに連れて、デッキからはみ出た人たちが通路を塞ぐようになった。三島までは40分強。到着したら在来線に乗り換える。新幹線の乗り場から在来線までは少し距離があるので、乗り換えまでの7分は素早く行動しなくてはならない。周りの客も早足である。ホームに着くとほぼ同時に電車が滑り込んできた。
まるで東京にいるかのように満員だった。
すし詰めの電車に乗り、車窓から故郷を眺める。高校生の頃、部活をしていたときは電車で通っていた。もう20年近くも前のことだ。
その時見ていたものとまるで違うのかと言われればそうでもない景色が流れていく。車は空を飛んでいないし、バックトゥーザフューチャーのように3Dの広告もない。
だけど、僕の隣には花さんがいて理子がいた。
原駅に着くと、兄一家が迎えに来てくれていた。車に乗り込むと3姉妹が「理子ー!」と叫ぶ。
実家に着くと、新築の家の前に庭ができていた。施工が終わったばかりらしく、まだカラーコーンが置かれていた。
まだ慣れぬ新築の家にお邪魔すると犬の蓮が出迎えてくれた。吠えないところをみると、ちゃんと僕だということを覚えてくれているらしい。
父母と、祖父に挨拶をする。祖母はデイケアに行ってるらしかった。
荷物をおろし、仏壇にお土産を備えて、お線香をあげた。
子供達は我も我もと線香を手に取り、ポキっと折りながらもなんとか火を点け一丁前に手を合わせている。
そうこうしてる間に手早く昼食が作られ僕たちはご馳走になった。
お昼ご飯を食べると、家の裏に行き、自転車を漕いだりボールで遊んだりする。僕が子供の頃も同じ場所で遊んでいた。車が滅多に通らない道。そこからは大きな鯉のぼりが空を泳いでいるのが見える。あの頃と同じ景色だ。
畑仕事をしていた近所のおばちゃんが僕の姿を見て「優くん?」と声をかけてくれた。
あの頃と同じ場所で、自分の子供が遊んでいる場所で、あの頃面倒を見てくれた近所のおばちゃんと話しをすることの不思議さよ。
3姉妹と理子は、隙あらば使っていた自転車を奪い合い、その度に負けた者の泣き声が響いていた。
夕飯は僕がリクエストしたもんじゃ焼きだった。その頃には祖母も帰宅していて、総勢12名での食卓となった。12人!
誰がこんな姿を想像できただろう。
子供達4人を風呂に放り込み、カラスの行水がごとくかたっぱしから片付けると、布団に入るまで、怒涛の時間を過ごす。
「理子と寝る!」と3人が言い、叶わなかった者は泣いた。
奪い合いの末、結局「ママと寝る」と言う理子に「理子なんて大嫌い!」とふてくされる者あり。
寝入ったと思いきや寝相の悪い子供たちに顔や腹を蹴られ、耳をつねられ3時に目がさめ、そのままなかなか眠ることができなかった。
僕も歳をとったものである。
2018年5月6日日曜日
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