2025年9月6日土曜日

じいちゃんのこと

 こんなことってあるんだろうかということに尽きる。

祖母が他界した際号泣していた祖父が、その半年後に逝ってしまった。92歳だった。


8月28日木曜日に、母親から連絡があった。

「おじいさん、もうだめかもしれない」

こちらとしては寝耳に水で唐突に感じられることなのだけど、一緒に暮らしていた家族からすれば不思議ではないのかもしれない。

肺が元々悪かったのだけど、ベッドから転倒して腕を強く打ってしまってから、様子がおかしくなり、入院。それから転院した。ということを聞いていた。

それから程なくしての出来事だった。ちょっとしたきっかけで最後の糸が切れてしまったということなのかもしれない。ばあちゃんが亡くなった際に、もう糸は張り詰めはじめていたのかもしれない。


金曜日の早朝、母と連絡をした際はまだ生きていた。

僕は仕事を休み病院に直接行こうと思い支度をしていた。7時前だ。

それから少しして兄から連絡。亡くなったとのことだった。

ばあちゃんの時同様に間に合わなかった。

それでも僕は予定通り沼津へと向かった。行き先が病院ではなく自宅になった。

よくわからない感情で新幹線に乗り、電車を乗り換えて最寄駅に来てくれた兄の車に乗り込んだ。

数週間前に実家に来たときはばあちゃんのための祭壇が飾られていたはずだったのに、それを片付けてじいちゃんのための場所を作ることになるなどだれが予想しただろう。


畳の部屋に布団を敷き、運ばれてきたじいちゃんを寝かせた。そして葬儀屋の方がやってきた。この人のとても丁寧な扱いで心が落ち着いた。それから和尚さんがきたのだけど、なんだか半年前を繰り返しているようだった。

弔問してくれた人たちは口々に「おばあさんのところに行ったんだね、寂しかったんだね」と言った。

92歳といえば、天寿を全うしたと言っていいと思う。

満州で生まれたじいちゃんと、樺太で過ごしたばあちゃん。

結婚してから離れ離れになったのは死だったけど、その期間はたったの半年。

じいちゃん、ばあちゃん、親父、おかん、兄夫婦、3人の子供

そんな大家族が過ごしていた家から二つのピースが欠けた。

なんだか一つの時代が終わった感が強い。


2025年8月7日木曜日

リトルコスモス

 街灯のないこの島で、朝の5時に起きてランニングをするというのはちょっと難しい、ということを理解したので辺りが明るくなるまでベッドで過ごすことにした。

空は雲に覆われている。しかしうっすらと青空も顔を覗かせているので、なんとでもなるだろうと思った。それが島の天気というものなのだろう。


この日は花さんたっての希望で、朝からカヤックツアーに行くことになっていた。

汚れてもいい服装でということで各々が支度をし、朝ごはんを食べた。ビュッフェは気の利いたパンケーキや美味しい果物、ご当地のおかずがたくさんあり、満足感でいっぱいになった。しかしこれからしばらくの間はトイレに行くことはできないからと控えめにしておいた。

ホテルのロビーに集合し、ガイドというのかインストラクターというのか、その人と待ち合わせることになっていた。我々は汚れてもいい普段着、という感じだったのだけど、そこに集まった他の家族は「ガチ」だった。水遊び対策バッチリで、そのまま川にダイブできる、といった出立ちだった。

ツアーへの解像度が甘かったと僕は思ったが、そもそもそんな服は持ってきてないし、仕方がない。理子も着衣水泳を学校でやってきたことだし、甘んじて濡れてしまおうと腹をくくった。しかしながらそのガイドさんは「あぁあ」と言った表情をしていた。

我々はワゴン車に乗り込んだ。そのシートには防水シートが備え付けられており、これから全身がびしょびしょになることが容易に想像できる。

車を走らせながらガイドは端的に説明をし、すべき説明が終わると静かになった。機嫌が悪いのか、そもそも寡黙なタイプなのかはわからない。


目的地に着くと、まずは靴を履き替えた。濡れた岩場でも滑りにくくなるらしい。

それからオールの使い方、方向転換の方法などを軽くレクチャーを受けた。どうやらこのツアーの同行者の中に経験者も混じっているようで、その人たちが先頭に行くことになった。カヤックは二人乗りで、僕と理子がペアになった。理子は前、僕は後ろの席である。

茂みの中を進んでいくと海に出た。浅瀬とはいえ既に膝は水に浸かっている。僕は長ズボンを履いていたので、すでにびしょ濡れである。

まずカヤックに乗る方法から手ほどきを受けた。

西表島でカヤックなんて、「水曜どうでしょう」そのものじゃないか、マングローブの中を進んでいくヤスケンの姿が思い浮かんだ。

進行と旋回の練習をしてから、早速漕いで進んでいくことになったのだけど、僕と理子ペアはいつのまにか最後尾になっていた。

左に曲がりたいからこっちのオールを・・・と頭で考えていると違う方向に流されていってしまう。花さんと玲チームは順調にガイドの後ろをついて行っていた。

マングローブの枝が入り組んでいて、それを避けなら進んでいかなくてはならない。その生い茂る枝の中に突っ込んでいってしまったり、行きたくない方向に流されてしまったり。しまいにはガイドさんのカヤックにロープをくくりつけて誘導される始末だった。


なんとか集団に加わって目的地へ到着。下半身は下着までぐっしょり濡れながら、滑る岩場をなんとか進み、小さな滝壺に到着した。きちんと対策をした人たちはその滝壺にダイブしたり滝をバックに記念撮影をしていた。

花さんと理子も果敢に攻めて、滝をバックに撮影をしていた。うらやましい。

帰りの時間帯は潮の満ち引きと前日の雨の影響で水嵩が増していて行きよりも難易度が上がっているとのことだった。チーム編成を変更し、僕と玲チームで行くことになった。

このチームは僕にはマッチしているようだった。前の席に陣取った玲が指であっち、こっちと指図するのだけど、そんな単純な指示があるだけで意外とスムーズに舵をとることができるのだった。

逆に指示とは違うことをしてしまうと「違う違う、なんで~」と叱責を受けた。

しかし自分の力で進む感覚とコントロールできない具合が妙に楽しいものである。

あっという間に体験の時間は終わり、カヤックから降りてまた車に戻る。帰り道もガイドは静かだった。南国の島のガイドとはいえいろんな人がいるものである。

でもこの経験自体はとてもいいものだった。また機会があればぜひやってみたいなと思う。

その後ホテルに帰り、シャワーを浴びて着替えをした。一休みするともう昼食の時間だ。

ホテル近くの唐変木という店に行ってみたが、どうやら店員さんが一人で切り盛りしているらしい。店先の椅子に座って待っていると、「今11人を中に入れたばかりだから時間がかかるよ」と我々に伝えた。

その返事として「かまわないですよ~」と言ったが店員のお婆さんは悲しそうな顔をした。きっとしんどいのだろう。

しばらくするともう一組の家族がやってきた。僕は親切心を出して、「どうやら相当待つみたいですよ」と伝えたが彼らも待つことを選んだようだ。


蚊がブンブンと飛ぶし、もういいかという気持ちになってしまったのでその場を離れてホテルで食べることにした。先ほどの家族は待つことにしたらしい。

ホテルの昼食としては安めな1000円という値段だったけど、キーマカレーかタコライスという2種だった。実に潔い。


食事を終えると、自転車を借りて散策することにした。これは理子に借りたものも電動だったのだけど、スムーズに運転できた。


いつか聞いたことのある、星の形をした砂のあるところへー


そこは他の砂浜とは踏み心地が異なった。他の場所がすうっと沈み込むとしたら、こちらの砂浜は少しジャリッとしている。手についた砂を良くみてみるとヒトデみたいに、確かに星の形をしている砂だった。砂の一粒が見分けられるほどの大きさということでもある。これはすごい!と素直に思った。

近くにある店で花さんは海中を観察するためのグッズを借りてきてくれた。ライフジャケットと透明なプラスチックの虫カゴのようなもので、それを海に沈めて観察するわけだ。

4人は海に入れる格好になって早速入ってみた。しかしサンダルの中にその星の砂が入り込んでチクチクと痛い。しまいには裸足になったり、やっぱり履いたりといい塩梅を探しながら海に入った。

浅瀬で観察していると小さな綺麗な青色をした魚がたくさん見つけられた。そのほかにも白かったり透明のように見える魚だったり黒かったり。魚の宝庫だ。

僕は水中眼鏡をして潜ってみた。すると自分の目の前を魚群がサーっと横切っていった。これは素晴らしいものを見たと感動した。こうやって南国の海に魅せられてハマっていく人はたくさんいるだろうと容易に想像ができる。

テレビやガイドブック、メディアで取り上げられるリゾート地とかに、どこか偏見のようなものを持っていた時期もあったのだけど、世間的にいいと言われている場所には魅力が確かに存在するのだった。バリに行った時も同じことを思った。

この日はよく晴れれていた。照りつける太陽の存在を島に滞在中はすっかり忘れていた。容赦無く肌を焼いていた。

砂浜に小さなくぼみがあって、そこには小さな貝や珊瑚のかけらが詰まっていて、小さな宇宙を見ているようだった。そういえばこのビーチの名前は星砂の浜だった。

次の予定の時間もあり、名残おしいがビーチを後にした。疲れ切った体に電動自転車は素晴らしい働きをしていた。


ホテルに帰ると、各々が思うままに過ごしていた。花さんはマッサージへ、理子はYouTubeを、そして玲はなぜか学校の宿題をしていた。本当に面白い子である。

僕はベランダにでてぼーっと海を眺めていた。晴れ間を見ることが少なかったから青い空と海が繋がっている景色を目に焼き付けたかったのだ。それはやはりとても美しいものだった。


その後19時を大きく回った頃、ホテルのプールを抜けてビーチへにでて夕日を見ることにした。この時間でもまだ太陽は沈んでいなかった。

いろんな家族やカップルがいて、思い思いに過ごしていた。僕は適当な場所に腰を下ろし、夕陽に照らされてシルエットだけ見える人々の姿を眺めていた。

双子の女の子たちが仲良く手を繋ぎ寄せては返す波を楽しんでいる。男の子は砂の城を作っている。ワンピースを着た女性の裾が風でゆらゆらと揺れている。

世界が永遠と感じられるような時間だったが、徐々に沈んでいく太陽が時間は止まってないということを告げている。

やがて太陽は海面に道を作ってから雲に隠れてしまった。完全に陽が溶けて沈んでいくところは見ることはできなかったけど、完璧じゃないというのがいいよなと思った。


その後、夕飯を食べにいくのだけど、ホテルまで送迎の車が来ていた。素晴らしいシステムだ。店についてからわかったのだけど、ホテルに帰る定期便もしっかりとでていた。

旅の最後の夜である。サンダルを脱ぎ、畳の席に案内された。ビールを飲み、ビールを飲み、ビールを飲んだ。お通しにでてきたパイナップルはとても美味しく、ピザを食べ、刺身を食べ、もずくキムチというものを食べた。どれも美味しかった。いつも旅の終わりに振り返りをするのだけど、今回のハイライトはやはり「話はきかせてもらった」一択だ。

ふと自分の足を見てみると、綺麗にサンダル焼けしていた。履いていたサンダルは10数年前にトルコに行く時に買ったものだ。そしてトルコの容赦ない日差しで足元はサンダル焼けをしていたのだけど、それと同じ跡が今回の旅でも刻まれていた。それが妙におかしかった。


翌日天気が荒れることもなく無事に帰宅した。いい旅だった。いい経験をした。

花さんに次は何か考えているのか?と台湾を旅行し終えた時と同じ質問をした。

「来年はリフレッシュ休暇もあるしね、ヨーロッパかな?」だって。

テーブルの上にいくつかの都市のガイドブックが置かれる、そんな光景を想像した旅の終わりだった。


2025年8月5日火曜日

理子

 随分と前から決まっていたことで、理子は夏休みに沼津の実家に2週間行くことになっていた。家族旅行が終わり、その翌週のことである。

「バタバタとしていてあまり家にいることがなくなるね、帰ってきたらキッズでキャンプだ」などと話をしていたけれど、あっという間に出発の日がやってきた。

8月2日。

事前に新幹線の予約をしていて、理子の持っているパスモに紐づけていた。

13時15分発、14号車2番D席

この情報をスクショして理子の携帯電話に送っておいたら、それを暗記していて驚いた。

「そんなことを暗記しなくても大丈夫だよ」と僕は言ったけれど「いいじゃん、覚えちゃったんだもん」と理子は言った。そういったところからもこの帰省へのワクワク度が伝わってくる。

駅から一人で新横浜まで行くこと。新横浜からは一人で新幹線に乗り三島駅まで行くこと。

これが理子に与えられたミッションだった。これを伝えてからは自分のタブレットにその道順を書き、復唱し、ニコニコしていた。

いよいよ出発となり、なにかのトラブルが発生した場合のことを考えて1時間余裕を見た。

「何が起こるかわからないからね」と言っていたのだけど確かに予定外のことが起きた。

駅のホームで友達に会ったのだ。彼女はお母さんと一緒で僕も面識があり、ホームが一緒なのでもちろん行く方角が一緒だ。しかも僕たちが降りる駅の一個手前で彼女たちも降りるとのこと。

久々の再会に嬉しそうな理子。僕もお母さんとお話をして予定の駅で別れた。

一人で降りるべき駅で降りる、というミッションはできなかったが、乗り越えるための道順を歩き、改札を抜けていった。乗り変える電車は発車寸前で駆け込む形で乗車した。

「しまった、また二人で乗ってしまった」と思ったのだけど、仕方がない。

「あと何駅で降りるかわかる?」と聞くと「3つくらい?」という。

「適当だなぁ。急行でもそんなに少なくないよ」と言って笑った。


新横浜についたが、トラブルがなにも起きなかったので1時間近く早くついてしまった。当初はお気に入りのサンドイッチを買って車内で食べるというつもりだった。

「ご飯どうする?どこかお店で食べる?」と聞くと当初の予定通りにサンドイッチがいいと言い、時間が余っているのでベンチに座って食べることにした。

僕はまず新幹線のホームまで見送るために入場券を買い、その後サンドイッチ屋に行って理子に選ばせると、トマトとモッツァレラチーズのサンドイッチを選んだ。

「意外だね?」って言ったら「前もこれだったよ」だって。


改札を抜けて待合室に行くと運良く座ることができたので理子を座らせて、僕はサービスとしてコーラを買い与えた。嬉しそうにコーラを飲み、サンドイッチを貪る。

「お出かけ」ということで耳につけた青いイヤリングが揺れている。顔もニコニコとしていて感情を抑えることが難しいくらいワクワクしているようだ。

他愛もない会話をしトイレに行くと言って帰ってきたら顔面蒼白で「イヤリング落とした」だって。きた道戻って探してきたと言ったらきっちりと見つけて帰ってきてニコニコしている。感情のジェットコースターがフル稼働だ。

飽きない時間を過ごしていると定刻が迫ってきた。

きちんと西へ向かうホームへと行き、予約した号車の位置まで一人で向かっていた。

大したもんだなと思う。

一緒に順番を並んで待っていると、ニコニコしているけど不安も混じったなんとも言えない顔をしていてとても愛おしく感じた。こうやって親元を離れて成長していく場面に立ち会うことができてよかったと思った。

新幹線の到着がアナウンスされる。直前に学習した、新横浜の次は小田原、熱海、三島でと復唱していた。あっという間の40分だけど、理子にとってはもちろんのこと、送り出すほうにとっても大冒険だ。隣の人はどんな人かな、ちゃんと降りれるかな。途中でなにもトラブルが起きませんように。

ついに新幹線は到着した。きてしまった。

理子はニコニコした顔で乗り込み、椅子に座った。どうやら隣の席には既に女性が座っているようだった。理子はこちらに気がつくと手を振っている。僕もスマホで撮影しながら手を振った。

新幹線の停車時間にお別れの時間など加味されていないから、すぐに発車となった。

しばらく僕は新幹線と並走して歩いた、理子も手を振りかえしていた。

どうやら僕も感情のジェットコースターに乗っていたらしい、目の前が涙で滲んだ。

この涙はどういった涙なんだろうかと思った。

理子としばらく会えない寂しさか、成長していく姿の嬉しさなのか。新しいことに挑戦する子供に少しばかりの嫉妬のような感情もあるのかもと思った。

2週間、親元から離れて暮らす。それが従姉妹の家という守られた環境の中だったとしても、理子の中で、新しい感情が生まれて育まれることを祈ってやまない。


2025年8月3日日曜日

「話は聞かせてもらった」

 石垣島滞在3日目の朝、あることに気がつく。この街は陽の昇る時間が東京とは異なることだった。5時すぎに目を覚ましてもまだ窓の外の景色は暗かった。

なんとなく早朝にホテルの周りを走ることができたらいいなと思っていた。

しかし天気が悪いということとは違って、まだ純粋に外が暗い。陽が昇ってない暗さである。

朝のぼけっとした頭のなかでは、ブルーハーブのリリックの一節が流れていた。

「北から日が昇ることに慣れてないお前たちは~」

ちょっと意味合いは違うけど、その土地においての当たり前は、自然のサイクル自体が他の地とは異なるということだ。


ぼんやりとしたスマホの灯りが視界の片隅にあった。どうやら花さんも起きているらしい。そのうちお互いが起きていることが気配でわかり夫婦の会話が始まる、今日をどのように過ごすのかが議題だ。

この日は石垣島を離れて西表島に移動する日だった。

台風が接近している影響があったのはこの部分だったが、予定していた上原港行きは欠航してしまっていた。大原港行きは午後だったが運行しているとのこと。

行く手段がないという最悪の事態は免れたわけなので、時間はずれ込んでしまうけれど大原港から西表島に行くことにした。

それまでの間どうするか、中途半端に空いてしまった時間をどうやって過ごすかを話し合い、ホテルから出ないでプールで過ごそうということになった。子供たちもそれが喜ぶんじゃないか、と。


「話は聞かせてもらった」


不意に聞こえたこの台詞。え?と思ったら理子が起きていてずっと我々の話を聞いていたらしい。

会話に加わるべきタイミングがベストで面白かった。なかなか人生において「話はきかせてもらった」なんてワードをいう機会はないだろう。刑事ドラマでもみたことあったのか?花さんも僕も大爆笑だった。

後日談であるがこのことをスレッズに書いたところ232いいねがつくという僕の投稿の割にはプチバズりしたのだった。


なにはともあれ予定は決まった。

食事を済ませて移動の支度をする。部屋に備え付けられているメモ書きに理子と玲はそれぞれコメントを書いていた。いつからか我が家の伝統と化したそれにはそれぞれ感謝を述べている。

THANK YOU BERRY MUCH!

スペルミスもかわいいものである。言いたいことはわかる。


あーとほてるたのしかったです。またきます。ありがとうございます。

と玲は書いていた。



部屋を出ると荷物をフロントに預けてプールに移動した。

ただの四角いプールだけど楽しい時間を過ごさせてもらった。ありがたいことである。

もう十分、というところでプールからあがり、水着を脱水にかけ、浮き輪も空気を抜いて仕舞った。


タクシーでフェリー乗り場へ移動し、売店で食べ物を買う。

僕は小さめのお寿司セットを買った。薄い卵焼きでご飯が巻かれていて美味しかった。

花さんは袋に入ったご飯のうえに、鳥のささみ揚げが乗っているという食べ物を選んでいた。

いろんなご当地食べ物があるようだ。


定刻になりフェリーに乗り込む。なんとなく前の方に乗ってしまったのだけど、フェリーにおいては中央よりも後側、もっと言えば優先席付近が揺れにくいらしい。

大原港に到着すると雨は小降りだった。降りてすぐ近くのところに大型の星野リゾートの送迎バスが停まっていた。それに乗って1時間近くでホテルに到着するとのこと。

運転手は陽気そうな柄のシャツを着て、まぁポーズだけね、という感じで制帽を頭に乗せていた。

港から出てすぐのところに交差点があり、信号で停車した。すると運転手はこのように話をしてくれた。

「この島で唯一の信号機です。なぜ一つだけあるのかというと、この島で育った子供たちが都会に行ったときに信号機で戸惑わないようにするためです」

なるほど、当たり前に享受していたこういった部分も社会生活で必要な素養なのである。


西表島の緑の濃さは想像以上だった。思った以上に勾配もあり、大自然そのものだった。バリとかシンガポールに近い雰囲気だ。1時間のドライブもそんな景色を見ていたらあっという間に過ぎていった。


15時過ぎにホテルに到着する。星野リゾートにおきまりなのかウェルカムドリンクと果物が用意されていた。

チェックインして部屋に入ると、カーテンで仕切られた雰囲気の良い天蓋ベッドのようなものがあり、

窓の外はジャングル的な草木で覆われて、その隙間には海が見えた。


荷解きをし休憩をしてからホテルの周りを歩いてみた。生い茂った緑のなかに鮮やかな花ばな。時折さーっと雨が降り、すぐに止む。そんな感じだからか気温も高くないように感じられ快適に散歩できる。

その足で海に出てみた。細かな砂の質感と穏やかな波。そんなに水温も低くなく、足をつけても冷たいことはなかった。海岸線に沿ってあたりを見渡すと少し離れたところには断崖絶壁な場所もあったりして景色が圧巻だった。


夕飯はホテルから近くのINABAという店で食べた。沖縄料理ではないものを食べたいというときにパスタとかピザがうまいという店だった。

理子と玲はハンバーグをセパレートして食べたり、大人たちはイノシシのタタキやら豚バラの串焼き。ゴーヤチャンプルにタコライスなどいろいろ食べた。どれも美味しく、畳の席で食べるというのもなんだかよかった。

しかし若い店員の子がとても緊張しているようだった。リゾートバイトで本州から来たのかな、などと想像した。


お腹いっぱいになってホテルまで歩いて帰ると、あたりは街灯もなく本当に真っ暗だった。真っ暗ではあるけど生き物の気配は漂っている。理子はとても怖がっていたけれどそんな暗闇のなかでも、道端の草木のところで小さな光がいくつもあった。なんだろうと思ってスマホの光を当ててみると虫だった。でもいわゆる蛍のような見た目ではなく、どちらかと言えば毛虫のような出立だった。少し前に世田谷区の祭りで蛍の光を見た時は本当にうっすらとした光だったのだけど、この野生の虫の光はそれよりも強く感じた。

これが南国で生きる虫の強さか、などと思った。


西表島の持つポテンシャル恐るべしである。

2025年8月1日金曜日

ジャングルナイトツアー

19時半にフェリー乗り場にあるポスト前に集合。ということで竹富島から戻って、そのままフェリー乗り場に居続けた。

ツアーの終了は21時を過ぎるということで、コンビニ行き食料を調達した。しかし時間帯の問題なのかあまり品数はなかった。

フェリー乗り場のベンチに座って食べる。もうとっくに売店は閉まっていた。離島の夜は早く終わってしまうのだ。しかしながら陽が沈むのは遅い。まだ夕焼けが続いていた。もう傘は不要な天気だった。

定刻になり集合場所に行くと既に多くの人が集まっていた。人気のあるツアーのようだ。

我々の名前が呼ばれるとワンボックスカーに案内され、そこで長靴を渡された。

家族がうまいこと座れるようにガイドの「ユウキ」が手際よくさばいていく。

車内の前方に中国人や韓国人のツーリストが座り、その後ろに3家族ほどの日本人が座った。

窓際、前の席に車酔いをしてしまう子供を優先で、という流れで座ってもらっていると、少し神経質そうなお母さんが、「私も弱いんだけど」とボソッと呟いて若干の苛立ちを感じているように見えた。

ツイストパーマを強くかけ(もしかしたら天然かもしれないけれど)、モンスターを飲みながら話す若いガイドはユウキと名乗った。もう一人のガイド、ドライバーはリュウ。「本当はもっと長い名前なのだけどリュウと呼んでください」と彼は言った。リュウから続くもっと長い名前ってなんだろうとしばらく僕は考えてしまった。おそらくリュウノスケザエモンタロウとでもいうのであろう。

車が動き出し、ツアーの同意書にサインなどをし、目的地へと向かう。ユウキは英語をあやつり外国人たちにも指示を出していた。若くてチャラついて見えるユウキの姿に、僕は当初抱いた感情を改める必要があると思った。この男、すごくきちんとしている、と。

とにかくユウキは喋りが上手だった。石垣島には天気予報など当てにならない、実際に起こったことが全てであると言った。この島の素晴らしさを嫌味にならない程度にウィットに富んだ表現で、まず日本語で説明し、その後英語でも話した。そしてその英語で中国人も韓国人も笑った。なんというエンターテイナーであろうか。

南国の若い男のツアーガイド、というとどこか軟派なキャラクターを想像してしまうし、そういった姿をしていたのだけど、彼は立派で有能な陽キャなガイドだった。
今から行く場所には天然記念物の生き物がいたり、見ることがなかなかできない生き物が多くいるとのことだったのだけど、「絶対に皆さんにみていただく」とユウキは満ち溢れた自信をもって我々にプレゼンした。現地に到着する頃にはもう車内のみんなはユウキへの信頼が高まっていたことだろう。


街灯がまるでない道をひた走り、寡黙なリュウは安全に我々を目的地へと連れていった。

ジャングルを安全に回るための注意事項を確認し終わったあと、強力なペンライトを貸してもらい、いよいよ藪の中へと入り込んでいく。街灯もないので各々の家族が持っているペンライトの光る先だけが頼りである。

僕たちを含めて4家族がリュウの引率だった。リュウはユウキほどの派手さはないけれど、隠キャというわけでもなくきちんとガイドとして有能だった。ユウキは体がとても臭い蛇をみつけるけれど、リュウはとても珍しいレアな貝を見つけてくれた。真っ先にヤシガニを見つけたのもリュウだった。きちんと彼らのチームの中にも役割があるわけである。

4家族がそれぞれ縦に並んで進んでいるので、ガイドの注意が行き渡らないので、我々がまず話を聞いて、それを後ろの家族に伝えていった。そうやってチーム感が強まっていったのである。

車の中で神経質そうだったお母さんもジャングルとユウキやリュウの話術にすっかりと解きほぐされたようで楽しそうにしていた。

勾配のある道や、聞いたことのない何かの鳴き声。少しの恐怖がありながら、慣れないサイズの長靴を履いていてコンディションとしては大変ではあったけれど、とても楽しい時間だった。

最終の目的地として洞窟があり、そこでユウキのグループと合流。コウモリがいたり蟹がいたりしたけれど、一番面白かったのはユウキであった。Tシャツを脱ぎ壁によじのぼってる姿は最高だった。

ツアーはとても楽しめた。満点の星空を眺めることはできなかったけれど、十分だった。ユウキに言わせれば星はどこでも見ることができるからである。

車へ戻る道で、リュウの引率チームは2家族に減ってしまっていて、残りはユウキチームに吸収されていて、それに気づいたリュウはちょっと寂しそうだった。暗闇でもわかった。


帰りの車内でもユウキは饒舌だった。ツアーは終わったので、これから島をどうやって楽しむのかという部分に論点を置いて話をしていた。飲み屋に行くなら、肉を食べるなら、酒を飲むなら、と。もちろんをそれを英語でも伝えていた。僕はとっても陽キャというものに憧れてしまった。いやユウキという人間に惚れてしまったのかもしれない。


フェリー乗り場に着いて解散。とってもいいツアーだった。台湾の時もそうだったけれど、個人で回る観光もいいが、その場限りのチームであっても、ツアーというのもいいものだなって思った。それにはやはり有能なガイドが必須、ということなんだけれど。

2025年7月31日木曜日

竹富島へ

「なにはなくともホテルにあるプールに入りたい」というのが娘たちの要望である。

朝、目を覚ますと、カーテンを薄くあけて外を眺めた。天気が悪いのがわかる。暗い空だ。

しかし朝食を食べ終わったあと、娘たちは言う。「とにかくプールに入りたい」。

一択であった。

大人たちは「天気がもってる間に行けるところに行きたい、竹富島に行きたい」という希望を持っていたのだけど、旅の成功は子供たちをいかに誘導するかにかかっているといっても過言ではないので、まずは素直に従うことにした。


建物の外に、デザインがなされた洒落たプールが鎮座していた。

プールのロッカー室というと、なんともジメジメして不快な匂いが漂うイメージなのだけど、ここのそれはデザイン性のある湾曲した壁面だったり、男子用のロッカー室のくせにまったくの無臭であった。シャワー室やトイレもきれいである。そんなものがこの世には存在するらしい。

プール脇にあるリクライニングチェアやテーブルなどはすでに他の客に制圧されており、我々は隅の方にまるで忘れ物のように荷物を置いた。

ここはただ四角いプールに短めのウォータースライダーがついていた。気が利いているのである。

浮き輪でただプカプカと浮いたり、張り切って泳いでみたり。水中で睨めっこしたり追いかけっこなど、思いつく限りのことをした。

ただの四角いプール、それだけで十分なのだ。ただ人が多い。稲取荘のプールが恋しくなったのは言うまでもない。

時折雨が降り、止んだ。そういったことが何度か繰り返されて、もうそういうものなんだろうと理解した。これが石垣島のスタンダードな天気なのだ。


楽しいとは言え、いい加減プールから出たい。という段になって、娘たちもそれに応じてくれた。

いよいよホッピングである。竹富島へと向かうことにした。天気なんて雨が降ったり止んだりするわけなので、ホテルで傘を借りてとにかく出かけようじゃないか。

夕方過ぎからジャングルナイトツアーが控えているため、長袖を用意し出発する。

フェリー乗り場に着くといい感じに、いなたいお店がいくつかあり、そこでポータマを食べたり、美味しいと噂のシェイクを飲んだりした。こういったちょっとつまむものが最高であった。

雨は降っているがフェリーはとくに大きく揺れることもなく竹富島へと無事に上陸することができた。

フェリー乗り場では「水牛ツアーに参加する人が乗れるバス」というのがあり、それに乗ることにした。受付には大勢の人がいて、悪天候なんてなんのそのという強者が多くいるのだなと思った。

そして雨は、降ったり止んだりを繰り返していたけれど、そのうち青い空が顔を出す時間が伸びていった。

この竹富島の集落は、碁盤の目のように区分けされていて、迷い込んだらなかなか行きたい場所にたどり着くのが難しそうである。しかし訓練された水牛は長い時間をかけて道を学習し、10人近くの人間を乗せた車がその狭い道を曲がれるために、どのように動けば良いのかまでを把握して進むことができるらしい。とてもお利口さんなのだ。

ガイドのお兄さんがそのように教えてくれた。

すっかりと雨の止んだ砂の道を水牛はゆったりと進んでいく。急ぐ必要なんてない、ここは竹富島だぜ?と言わんばかりである。

ガイドのお兄さんは三線という楽器を奏でながら民謡を歌ってくれた。合いの手を入れることもできない知らない曲だけど、ゆったり流れる景色と色あざやかな花を眺めながら身を委ねた。


水牛ツアーを終えると、自転車を借りて散策することにした。花さんは後ろに玲を乗せて走った。途中、目当ての店に入って食事をとった。なぜか一番人気のカレー蕎麦というものがあり、僕はそれを注文した。玲はお腹が空いていないといってかき氷。花さんと理子はそれぞれソーキそばを頼んでいた。

確かにカレー蕎麦はうまかった。ホテルの朝食にも八重山そばなどはあったので、ちょっとイレギュラーなものが食べたくなるようだ。


食事を終えると、砂の道に慣れずに苦労しながら海へと向かった。沖縄特有だなと思うのだけど、濃い緑が生い茂ったトンネルの先に、美しい景色が広がっている。

時間帯的に干潮で、海の先端は遠いところにあった。砂浜には白くて小さいすばしっこい蟹がいた。そういった見慣れない生き物を見るとワクワクした。

二人はあえて波打ち際に落ちている枝を使って文字を書くということをして、それが波によって消えるのを楽しんでいた。

きっと何十年、下手したら数百年前からある儀式であろう。

海の中に入ると水はちょっと暖かく、心地よかった。


自転車のレンタル時間の終了があっという間にやってきて、急いで帰る。しかし碁盤の目の道が思うように望んだ場所へと向かわせてくれなかった。人が居住している家も外観が同じようなものばかりなのである。


自転車の返却を済ませると、電話予約が必要なバスに乗ってフェリー乗り場に戻り、石垣島へと戻っていった。

そうして、この日の最大のイベント、ジャングルナイトツアーを迎えるのであった。



2025年7月30日水曜日

アイランドホッピング

アイランドホッピングという言葉を聞いたことがあるだろうか。

離島から離島へとトリップすることだ。

それを「2025年我が家の夏休み」に決行することとなった。


やはり数ヶ月前からガイドブックがダイニングテーブルの上に鎮座するようになり、

花さんの頭の中でさまざまな情報が蓄積され取捨選択され、構築されていった。


そして石垣島、西表島行きが決定した。


夏といえば「青い空、青い海」だが、それと同時に沖縄には台風がやってくるものである。

こちらもやはり数週間前からヤフー天気予報やらウェザーニュースやらとにらめっこし、

毎日、へたしたら数時間おきに変わってしまう予報を夫婦でシェアしあった。


7月25日(金)。東京は晴れである。玲が学校から持ち帰ってきた朝顔にたっぷりの水を与えてから家を出た。

二子玉川から羽田空港へとバスで向かう。事故渋滞が発生し、早速出鼻をくじかれるものの、とくに大きな遅れを伴うことなく到着した。


空港で必要な一通りの作業を終えて、搭乗時間を待った。

昔は時間を潰すことができたキッズスペースでは、明らかに玲よりも小さな子供たちが全力で遊んでいた。

理子も玲ももう違うステップにとっくに進んでいたのだ。


僕は慣れないスタバでホットコーヒーを注文し、飲んだ。


搭乗時間となり、ママの隣に誰が座るのかという定例会議が行われながら、

飛行機は事務的に離陸した。

離陸と共に眠くなるのは何故だろう?



那覇に到着すると、見覚えのある売店、UFOキャッチャーが目に入る。

そしていつものメガネモチノウオである。

旅先であるのに既視感がたっぷりとあるというのは実に不思議なことだ。


石垣島へと行くのに少し時間があったので、沖縄ならではのポー玉を購入して食べた。やはり美味しい。



飛行機を乗り継いで石垣島へ向かう。

石垣島へは1時間程度のフライトである。窓の外からは原生林のモリモリした緑が目に飛び込んでくる。

そんな島の姿を見た時はワクワクした。


17時過ぎに島へと到着すると、タクシーでホテルへと向かう。タクシードライバーは台風は大したことないよと、方便を駆使して我々に教えてくれた。

結果的には沖縄で過ごした日々は、おっちゃんのいう通り台風の影響を感じることは本当になかったと言っていい。


そして、おっちゃんは、僕を見て「沖縄の人間でしょ?」と言った。

これが彼なりの沖縄ジョークなのかなんなのかわからなかった。僕の顔のどこを見てそう思ったんだろう?



アートホテルというのが我々が2日間宿泊するホテルだ。

部屋からは海らしきものが遠くに見えた。

夕飯まで時間が空いていたので、カメラ片手に散歩することにした。

子供等に声をかけたけど、僕に賛同する者はなかったので一人で出かけた。


なんとなくこっちに行けば海にたどり着くかな、くらいな気持ちで歩く。時折霧雨のようなものが肌にまとわりついて、これが南国というものかと物思いに耽る。

聞いたことのない鳥の鳴き声、唐突に響く山羊の「メ~」。目に痛いくらい発色の良い花々。

そういった華々しさとは打って変わって、どこか諦めにも似た退廃的な街並み。

建物が朽ちかけていても「暑いし、まぁいいか」と言ったことなのだろうか。

ホテルの周りを少し歩いただけでいろいろなものに触れることができる。


そして僕は唐突に潮の香りを感じ、すぐそこに海があることを知った。

その少し先には船が停泊する場所があった。


防波堤に一人座って佇む人や、ランニングする人。

家族なのか仲間なのか、手作りのような船を集団で海へと運んで着水させている姿には、妙に南国を感じた。

涼しいわけではないけど、東京にいて感じるような不快な暑さはなく、

公園のベンチで座って談笑しているグループがいたり、外で過ごしている人の姿が目についた。



1時間ほどの散歩を終えてホテルに戻ると道端には野良猫がいた。人が脇を通っても逃げようとしない。のんびりした猫だった。



20時に焼肉屋を予約していた。

前回僕がいない時に石垣島で食べた肉がとても美味しかったというのだ。

ぜひ僕も堪能させてもらおうというわけである。


値段は正直なところ張るわけだけど、旅先アドレナリンがビンビンに出ているので値段は気にせずにとりあえず盛り合わせで頼んでみる。

そしてオリオンの生ビールを喉に流し込んだ。体内に「旅」が流れ込んでくるような美味しさである。

そして肉の焼ける香ばしさ。子供たちの箸が止まらないのがその証拠であろう。


肉を噛めば脂が口に広がり、それは実に高級感のある脂だ。

その土地の名前のつく牛は、土地の名に恥じないとても美味しいものだった。



泡盛なども摂取して、ラストオーダーの時間まで滞在した。

「酔い」旅の始まり。



帰り道、僕がさっき見た猫が同じ場所で、彼らにとって当たり前の南国を感じながらゆったりと眠りについていた。

いよいよ明日からは本格的な旅が始まる。