2016年10月1日土曜日

ふたり

「パリに出張に行くことになった」と花さんが僕に告げたのは、今の季節から2つくらい前のことだったかと思う。その時僕はまだデザインの仕事をしており、不規則極まりない生活を送っていて、10日間の海外出張で花さんが不在になるという事実を全く受け入れることができなかった。
「本当に行かなくてはいけないのか?」「テロが頻発しているのに行く必然性があるのか?」「2歳になったばかりの子供がいる家庭を会社は考慮してくれないのか?」など花さんに言ったとしても仕方のないことを僕は口にしてしまったりもした。結果として決定は覆ることは当然なかった。
その後、僕は転職をし、平日休みとなりはしたのだけど、以前よりかは幾分時間の規則性を保てることとなった。しかし、定時で仕事が終わったとしても、保育園の終了時刻である18時には全く間に合わないことには変わりはなかった。そのため、僕の母親に東京に来てくれることをお願いした。母は快諾してくれて、それは本当にありがたいことだった。

9月30日。僕のシフトでは休みであり、花さんのパリ出発日であった。しばらく前から、理子には「ママはしばらく遠くに行っちゃうんだよ、その代りにばあばが来てくれるからね」と言い聞かせをしていた。理子は本当に理解しているのかはわからないけれど、「うん」と大好きな親指をしゃぶりながら答えてくれた。
花さんは5時台には起きていて、支度をしていた。僕は6時過ぎに起きた。そのうち理子が起きてきて、着替えをし、支度を済ませた。
一人分の、でも10日間もの長い時間を過ごすための旅行カバンはそれなりの重さだった。7時40分の羽田空港行きのリムジンバスに乗った。

バスの中では、一番後ろの席に座った。隣には3歳の女の子が母親と座っていて、そういった状況が理子をリラックスさせてくれたのか、大きく騒いだりすることもなく、過ごしてくれた。高速に乗るまではいつも時間がかかるけれど、最終的には予定時刻に空港の到着した。
今回の旅券は、別の人が手配をしてくれていたようだった。花さんは、カウンターでパスポートとiPhoneの画面を提示し、荷物を預けていた。
11時5分のシャルルドゴール空港行き。出発までは時間があり、現地でお世話になる日本人にお土産を買ったり、カフェテリアでコーヒーを飲んだりした。花さんの膝の上に座る理子。大好きなアンパンマンのアプリで遊んでいる。場所は空港とはいえ、いつもの光景だった。でもふとした時に花さんは目を赤くし、そこには涙が溢れていた。
「理子にかわいそうなことをしちゃう」と花さんは言った。僕は持っていたハンカチを花さんに渡した。
こういう時になんて声をかければいいんだろう。
男として、「仕事頑張ってきてよ。パリでしか味わえないものがあるからそれを吸収して、僕に教えてよ」と言った。
父として、「理子のことは心配しないで。写真送るね」と言った。
夫として、「付き合ってから考えてもこんなに離れていたことないよ、寂しいよ」と言ってしまった。

出発の時間は無情にも近づいていく。花さんに抱っこされる理子。エレベーターに乗って嬉しそうに閉じるボタンを押す。出発ゲートが目に入ってくる。高校生の集団がいて、引率の先生がなにやら生徒たちに呼びかけている。
理子が走り出すので、僕は抱っこする。荷物を持ち前を歩く花さん。振り向いたとき、彼女はまた泣いていた。今度は先程よりも大粒の涙だった。
僕も泣いていた。どういう涙なんだろう。母親を理子と離れ離れにさせてしまうことに?花さんの涙を見たから?
答えは単純だ。愛している人と離れてしまう寂しさからだ。

最後に理子を抱っこする花さん。不思議と理子は泣かなかった。そして、前を歩き出す花さんに、手を振る僕と理子。姿が見えなくなるまでそれは続いた。
しばらく僕の涙は流れ続けていた。空港で涙を流しているなんて、どんな安い設定のドラマか。

「デッキがあるから、そこで飛行機が見られるよ」って花さんは言っていた。僕と理子はそこに行くことにした。巨大な敷地にいくつもの飛行機が並んでいた。これからどこかへ飛び立つものや、着陸したばかりのもの、空にはひっきりなしに機体が飛んでいるのが見える。
ここのところの雨模様とは打って変わって、大きな空は青く、ところどころに雲を作っていた。開放的な場所で理子は走り回って、飛行機の姿を認めると、「ひこうき!」と叫んでいた。しばらくそんな風に過ごしていた。
歩き回って疲れたのか、抱っこを求めてきて、抱っこ紐で理子をそこに収めると、すぐに僕の耳を触りだし、自分の親指をおしゃぶりして、眠りについた。

朝から長い移動をして、疲れたんだろう。僕はデッキから離れて、電車に乗って帰ることにした。そのことを花さんにメールした。すると電話がかかってきた。
「いってらっしゃい、パリを楽しんで。でも本当に気をつけてね」と僕は言った。
「連絡してね。こちらからも電話するね」と花さんは言った。

「愛してるよ」と僕は言った。またしても涙が出てきた。電話を切ってからもしばらくそれは続いていて、本当に弱い男だなと思った。
理子が寝てくれていてよかった。


花さんの仕事の成功と、無事の帰国を祈る。





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