2018年10月26日金曜日

不在

先週の土曜日、花さんたちは青森の実家に帰った。
「妻が実家に帰りましてね」
「それは大変でしたね、何があったんですか?」となりそうなフレーズである。

上野駅まで3人を見送り、改札を抜けて姿が見えなくなるまでそこに留まったのだけど、あっという間に群衆の中に彼女たちは消えていった。
東北新幹線は予約席だから確実に座れるのだけど、3ヶ月の子と4歳児の組み合わせは、快適な旅が約束されたものとは程遠いことが予想された。どうか無事にと願い、そこを去った。
せっかく上野まで来たから、「デュシャン」を見に行った。フィラデルフィア美術館にある彼の作品群が日本にやってきたようだ。混んでいることもなく、一通りみて、また入り口まで戻って2周見た。展示物の写真撮影が可能だったため、いたるところでパシャ、とiPhoneの音がする。僕も何枚か撮った。

その後、久々に上野を散策し、スカイザバスハウスに行った。天気はとてもよく、着ていた上着はずっと手で持っていた。
アメ横に行くと、中田商店に行った。古本屋を探して覗いたり、気ままに歩いた。
土曜日はそんな風にして終わった。
日曜は部屋の掃除をして、ギャラリーを見て歩き回り、NIKKIで髪を切った。


「誰かと飲んできたら?」と花さんはいったのだけど、普段から誰かを誘って飲みに行くなど滅多にしない僕は、結局のところ、仕事が終わると神保町に行って古本屋を漁ったりしただけだった。

一人になったからといって、いつもとは違うことをするのは少し難しい。
妻と子供がいなくて羽を伸ばせる、という人もいるのだろうけど、そんなことを感じたのは風呂に入っている時と布団の中で理子に寝返りの裏拳チョップを食らわずに寝続けることができた、というくらいだ。

そういったわけで、水曜に彼女たちが帰ってきたときはとても安心した。ようやく日常が戻ってきた。話し相手がいない朝ごはんはとても寂しいし、時間に余裕があるくせに、遅刻をしてしまった。弛緩しているのである。


やっぱり4人で我々なのである。


2018年10月18日木曜日

ピンクをこよなく愛する女

遺伝子に組み込まれているのか知らないけれど、理子はピンクをこよなく愛している。
我々夫婦の遺伝子にはないからおそらく突然変異である。

朝、花さんが理子の着替えを用意している。
秋も深まってきたことだし、えんじ色のズボンを履かせよう。
それに合わせるのは、この間買ったフルーツオブザブルームのロンTにしよう。
花さんが選ぶに至る思考が、手に取るようにわかるコーディネートだ。
僕は少し離れたところから、「うんうん、おしゃれだ。用賀一おしゃれだ」などと思いながら見ている。
しかし同時に、こうも思う。「絶対これ着てくれない」と。

「理子ーお着替えしよう!」と花さんが言った。
理子は提示された服を見るなり、「やだ」と言う。たったの2文字だけで気持ちを伝えることに成功している。
花さんも分かっている。着てくれないことくらい。我々にはいつもプランBがあるのだ。
しかし今回はそれすらもダメだった。おそらく服ではないところに不機嫌になる要素があるらしい。面倒な女である。その感情を着替えに持ち込まないでいただきたいものだ。

うすら寒いけど、ピンク色の半袖を選ぶ。そして、ズボンも、ピンク色を選んでしまう理子。
この時期に着ることのできる薄手のアウターは、悲しいかな理子の好きなピンク色のスカジャン。そして靴もピンク色であった。

もう仕方がない。
全身ピンクとなった理子はご満悦で家を出る。マンションの清掃のおじいさんにもご機嫌で挨拶をする。孫が同い年くらいだという彼の目は、優しいおじいちゃんそのもので、全身ピンクだろうが関係なく可愛く映っているようである。

方や、私といえば全身黒。どうしてこうなってしまうのかしら。

「クリストファーネメスの娘も小さな頃はセーラームーンの服を着ていたのよ」
そんな言葉が私の心の支えになっている。

2018年10月16日火曜日

記憶

自分の一番古い記憶の場面は「幼稚園の園庭で、2階から先生に声をかけられている」という場面である。
でもそれは、2階から自分を見ている絵。つまり先生の目線で自分を見ているということなので、例えば夢を見たとかで、勝手に作られた映像を最古の記録としているのかもしれない。
そして、どうしてこんなこと覚えているんだろうということもいくつかある。
ふとした時に蘇ってきたり、かいだ匂いから思い出すこともある。
僕は毎日、日記を書いている時期があったから、記憶に関しては少し色濃く残す傾向があるのかもしれない。

ある日、保育園に行くと先生がピアノの練習をしていて、どうやら弾き間違いをしていたようだった。
そんな場面から、僕は小学校の卒業式当日のことを思い出した。
小学校最後の日、いつもより早く学校に着くと、1階の音楽室の脇を通った。
すると、ピアノの音が聞こえた。
それは「巣立ちの歌」で、定年間近の男の先生が式で弾く予定のものだった。
そのリズムは若干崩れていて、とても滑らかな指使いと言った風ではなかったし、どこか音を外しているような気がした。
当時の僕は、どうせならきちんと弾ける先生がやればいいのに、と思ったし、実際の式でも少し危なっかしい演奏だったと記憶している。

それでも、20年以上経っても、覚えているのはその時の情景である。
どうしてかはわからないけれど、中学の卒業式の時のことはまるで覚えていない。父親が撮影したビデオを繰り返し見たことによって、客観的な映像で覚えているに過ぎない。
新しいことよりも古いことの方が、その時の息遣いすら覚えていることがあるというのは、不思議なものだなと思う。


2018年10月12日金曜日

絵本

「それ、違うよ」と理子は言う。寝る時に読み聞かせをしている絵本の話だ。
理子の成長とともに、絵本の質も変わった。単純なものでなく、きちんとストーリーがあるものになった。
ストーリーがあるということは話自体が長く、毎日読み聞かせるのもしんどくなってくる。それに、理子が選ぶのは大抵毎日同じ絵本なのだ。
だから、というわけでもないのだけど、ちょっと端折ってみたわけである。
一節を抜いてみたところ、冒頭のセリフである。
しかも理子は続けて、端折った部分をそらで言い始めるのであった。
これにはちょっと鳥肌がたった。読んでいた本はラプンツェルで、ちょうど魔女が出ているところだったこともある。
通しで読んだことはおそらく5回にも満たない。それなのにその文章を覚えているわけだ。

3歳の頃、もうすこし単純な絵本を読んでいる時も、こちらが読み聞かせていると、理子がその先を読むということがあって、「うちの子天才なんじゃないだろうか」と思ったものだ。しかし幼児期というのはそういうものらしく、勘違いするべからずとネットの民は語っていた。

とはいえ、このスポンジのような吸収力は凄まじい。

花さんと理子が、図書館に行って、本棚を眺めていたところ、『地球の歩き方』を見て、「ママの好きな本だ!」と言ったらしい。
本当に面白い子である。