朝、やはり散歩に行くことにする。もはやこれは日常だ。平日であろうが休日であろうが、僕は朝早く目を覚ます体質に変化してしまった。なんならこの日記を書いているのも朝の5時半だ。
旅先でも早朝に目が覚めるというのは、もしかしたら神様からのプレゼントなのかもしれない。「時間を有意義に使いなさい」というわけだ。
早速着替えをして、ホテルを出る。昨日とは違う道を歩くことにした。なんとなく整備されているかな?くらいの藪のなかの道を通る。とてもじゃないけれど理子を連れては歩けないような道だ。虫除けをもっと入念に使って出てくるべきだったな、と思うけれどもう遅い。
サンダルの隙間には砂が入り込み、蜘蛛の巣が引っかかったりする。太陽の光は藪の中までは侵入してこないから暑さは感じない。そういった意味ではこの散歩も心地よい。
僕が歩いているところは傾斜があって、藪のむこうは崖のようになっていた。木々の隙間から見える海はそれでも雄大に見えた。歩みを進めていくと多少なりとも整備されているはずの道は、もはやどこが道なのかわからなくなっていた。なんとなく人によって踏み固められた道があるように見える、くらいな様相である。
そしてここでもまた悲劇的な便意が僕を襲う。Sの悲劇である。昨日の散歩から学習し、きちんと済ませてきたのだけど。歩いたことによって整腸作用が働いたのかもしれない。
来た道を戻ればよかったが、振り返った道も、もはや道ではなかった。先ほどまでは友好的に見えた道も、ただの鬱蒼とした暗がりの道だ。こうも状況によって景色の見え方が変わるものなのだなと思った。今回は前に進んでホテルに戻ることにした。上に登れば道に出るはずだ。
歩みを進めると、少し開けた場所があって、海を一望することができた。不意にこのような出会いがあるのが散歩の醍醐味なのかもしれない。その時ばかりは便意を忘れカメラを構えて写真を何枚も撮っていた。
勘だけを頼りに歩いた結果、コンクリートの道が見えた。藪を抜けると、自分はかなりの距離を歩いたことがわかった。それからホテルに戻った。
時計を見ると、まだまだ二人は起きそうにない時間だった。ふと考えて、汗もかいてるから、大浴場に行くことにした。僕はお風呂に長時間入ることをあまり好まないのだけど、そういうことをしてみようと思うのは、ここが旅先だからであろう。
エレベーターで最上階に行く。早朝にもかかわらず、当たり前のように大浴場の前にはホテルスタッフがいた。名前とルームナンバーを名簿に記入すると、大小のタオルを受け取った。
中に入ると、かなり人がいて驚いた。子供からお年寄りまで15人くらいはいたのではないかと思う。お風呂が好きな人種なんだなと改めて思った。
まずシャワーを浴び、体を洗った。室内と露天風呂があったのだけど、先に室内のほうへと入った。
どこか少しまったりとしたお湯だった。体になじむようだ。ガラス張りの向こうには海が広がっていた。朝もやと湯気で陸の方はぼんやりと輪郭を失って見えた。僕は一人、お湯のまどろみを愉しんだ。
せっかくだからと思い、露天にも入ってみる。そこには4人の中年男性が入っていた。3人はどうやら一緒にきた友人同士、らしい。
肌を付き合わせるような距離感なのに声がやたらでかく、どこそこの株がどうで、あの会社のことはよく知ってるけど云々カンヌン。他所でやってくれというような会話が続いていた。
そもそもこのホテルは会員制らしく、客層はそういった意味では小金持ちの人たちが含まれているようだった。。ホテルのレストランで食事をしていれば、店員に対して偉そうに文句を言っていたり、ロビーでもホテルマンを跪かせて説教をしているような光景を見た。サービスを享受する側がなんでそんなに偉そうになれるのか、僕には全くもって理解ができない。
そのような中年と同じお風呂に入っているかと思うと、露天の開放感も景色の雄大さも、まるで、もやのように霞んでしまった。先に入っていた他の中年男性もそそくさと出て行ってしまったし、僕もすぐに出た。
また静かな室内の湯に浸り、しばらくしてから出た。
湯冷しに屋上へと行った。夕方見た時のようにまだ若干の暗さのある空だった。
部屋に戻ると二人は起きていた。僕が散歩をしたうえにお風呂にまで入ってきたことに花さんは驚いていた。
朝食はバイキングだった。混んでいたけれど予約をしているので、席に案内された。理子用にフルーツをとり、クロワッサンをとった。バイキングは朝からかなり食欲をそそった。しばらく食事を進めていると、隣に父娘の二人がきて、「隣空いてますか?」と聞かれる。「空いてますよ」と言ったものの話はおかしい。すべて予約席だからである。そしてその料金は当然宿泊している部屋に請求される。
どういったわけでこのレストランに潜り込み、ちゃっかりただ飯を食べているんだろうと思った。その後どうやらその奥さんらしき人がきて、なにやら話をしている。別のレストランでその奥さんと両親が食事をしているらしい。その父娘は人数的にあぶれてしまってこのバイキングに潜り込んだようだった。
小学生低学年くらいの女の子はこの状況を理解しているのかは分からなそうだったけど、この無銭飲食の父は気が弱そうな割に、店員に皿を持ってこさせたり、バイキングを楽しんでいるようだった。すごく大胆不敵である。
子供を連れてそんなことできるものなんだろうか、と思う。理子を連れて無銭飲食だなんてちょっと想像がつかない。
そんな隣席を気にしながらの朝食となった。
僕と理子は部屋に戻った。その間に花さんはチェックアウトを済ませてくれ、支度をしてホテルを出た。僕が昨日散歩した通り道にあったプールへと向かった。理子はベビーカーに乗ってくれた。我々は荷物を持っているから非常に助かった。
歩いていくとやがて階段で降りなくてはならない場所があり、理子はベビーカーを降り、我々はベビーカーと荷物をそれぞれもって階段を下った。すでに汗だくであった。
事前に調べていなかったのだけど、プールは入園料が大人2300円もする。リゾート地とはいえ驚愕の値段である。その値段のせいか、はたまたまだ10時だからなのか、プールは閑散としている。ウォータースライダーや流れるプールがあるわけではない。ただのプールだ。
ここまで来て入らないわけにもいかないので、お金を支払い中に入る。
プールの更衣室特有のあの湿度と匂い。高額な入園料を払ってもそれは変わることはない。
着替えをし、二人を外で待つ。スピーカーから流れるのはFM放送のラジオだった。少し前のポップスがかかったり、自分にとってはあまり関係のない道路状況のアナウンスが流れる。この気怠い感じは妙に心地が良い。自分には関係のない、日常の情報を聞いていると、何故か休みなんだなと改めて感じる。
二人は水着に着替えてやってきた。シャワーはやはり冷たく、プールの水温も冷たいんだろうなと想像に難くない。
実際、プールの水は冷たい。2300円払っても冷たいものは冷たい。水から出ている体の部分は日差しが当たっていて暑い。うまくいかないものである。
理子にとってもやはり水は冷たいようだった。
しばらくプールで遊んでから、休憩することにした。売店で大人用にビールを二つと、理子用にオレンジジュースを買う。そしてそれを理子に手渡したら、ものの数秒でオレンジジュースをこぼした。そして瞬く間にそのオレンジジュースをめがけてアリが寄ってきた。「理子のジュースだよー」、彼女はアリに文句を言うのだけど、そんな言葉は彼らには当然届かなかった。
気を取り直してまたしばらくプールに入り、やはりその冷たさに閉口した。それでプールを出ることにした。着替えをして、浮き輪の空気を抜く。しぼんでしまった浮き輪はどこか物悲しい。
3人分の水着を脱水機に入れてみたら、その回転の勢いに自分の体を制御できないらしく、ガタガタと揺れてまるでダンスをしているみたいに進んできて面白かった。
理子にはまたプールに行こうねと言ってその場を後にした。
本当のところはもう少しプールに入る予定だったので、妙に時間が空いてしまった。階段を上がったところに、アジアンガーデンという場所があり、そこはプールに入った人が無料で入ることができた。中に入ると、ハンモックに揺られてゆらゆらと楽しげな人たちの姿があった。
ちょうどよく席があき、我々もヤシの木という天然の屋根付きハンモックスペースに腰を下ろす。
ハンモックというのを体験したことがないように思うのだけど、その揺れ具合は絶妙で、なかなかに良いものだった。花さんに至ってはもうシエスタに片足突っ込んでいるぐらいだった。
いくらヤシの木の下に陣取って日差しを遮っているからとはいえ、気温はかなり高かった。水分というよりもかき氷を食べたいなと思って、そのエリアにある店を見て回ったのだけど、そういったものはなかった。おしゃれでカタカナの名称のついた飲み物で溢れている。
結局そこではなにも飲食することなく出た。そしてまた階段を降り、プールの脇を抜け海岸線を歩いて港へと向かうことにした。
理子はどういう風の吹き回しなのかベビーカーに乗ってくれている。実に親思いの子であった。いたるところに大きな岩があり、それは圧巻の絵だった。若い女の子は、厚底のサンダルを履いて、その巨大な岩によじ登って自撮りしていた。きっと『#初島#海きれい最高』みたいなハッシュタグがつけられてインスタグラムにアップされるにちがいない。
しばらく歩いていると、食堂街があった。今まで行き来していた島の反対側を歩いていたことをようやく理解した。
食堂街のどの店にも、「今日は14時まで」という張り紙がしてあった。翌日に控えているお祭りに備えてのことらしかった。
プールにも入り、お昼時であったこともあり、食堂街から少しだけ離れたところで食事休憩することにした。クーラーが効いた部屋というだけでとてもありがたかった。
生魚料理以外の普通のものが食べたい、という話し合いの末入った店だったのだけど、カレーとラーメンと瓶ビールを頼んだ。海の家のメニューのようだ。生ビールも良いけど、瓶ビールをお互いのグラスに注ぐというのもとっても良い。
カレーの普通さ、醤油ラーメンの素朴さはどこかほっとさせるものがあった。
時間がたっぷり残っているかと思っていたのだけど、そうでもなかった。フェリーの出航時間は実は迫ってきていて、僕はグラスに残ったビールをぐっと飲み干し勘定をして店を出た。
フェリーの係員は「あと5分で出発します、お急ぎください」とスピーカーを使ってアナウンスした。少し小走りで我々はそれに乗った。
ヴォー
フェリーが大きな音を立てて岸から離れていく。
デッキから岸を見てみると、まだ水着を着て海で泳いでいる人たちの姿があった。まだ休みを終わらせない人たち。フェリーに乗った我々はそれぞれの日常へと戻っていく。
日常という名の岸に向かう人たちの数は、フェリーの広さに対してかなり多く、座席は全て埋まっていた。僕は離れていく休みの島と、近づいていく現実の熱海の町を交互に見ていた。理子はしばらくすると眠りについた。
港に着くと、さらに現実が待っていた。タクシーで駅に行くと、新幹線の販売機には長蛇の列ができていた。列に並んでいると、踊り子号に空きがあるらしかった。それを購入しようとしていると、寸前で売り切れてしまった。
当初の通り、新幹線自由席のチケットを買う。そして、ホームへと行く。休日を熱海よりも西で過ごしていた人たちは多かったらしい。自由席の座席は全て埋まっていた。
品川に着くと、電車を乗り継いで家に帰った。家で鏡をみると、3人揃って、とても日焼けをしていた。それがこの旅のお土産だ。
次はどこへ?
新しい土地のガイドブックはいつ本棚に追加されるのだろう。
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