引っ越しを目前にして、一つ一つの物事が最後になっていく。
最後の週末。最後の道。最後の、、、。
何事にも感傷的になりがちな私なので、いちいち、一つ一つさようなら。
よく行くスーパーマーケットで、決まった曜日にしか出店していない焼鳥屋にさようなら。
いつまで名前を覚えてもらえなかったカメラ屋のおじさんにさようなら。
セブンイレブンのお兄さんにさようなら。
さよなら、さよなら、さよなら
理子さんは日曜日から体調を崩して発熱。
39度を超えて、ぐったりとしていた。
月曜日は花さんが仕事を休み、火曜日は私が休んだ。
昼間、病児保育してくれるところに電話してみるものの、キャンセル待ち。
今日はなんとか体温が37度を下回ったので、保育園に行ったのだけど、
発疹が出てしまい、花さんが早退してくれて理子さんをお迎えにいった。
突発性発疹というものだった。
発疹自体は痛みとかかゆみはないらしいのだけど、とにかく機嫌が悪い。
一つ一つ、乗り越えないといけませんね。
この家でブログを書くのも最後かしら。
2015年8月26日水曜日
2015年8月24日月曜日
2015年8月20日木曜日
望郷
泣き相撲で帰って以来の実家である。
玄関前に車が横付けされると、開け放たれたリビングの窓から
こどもたちの叫び声が聞こえた。
「すぐるだー!」
幼い声で、まだ輪郭が不明瞭なのだけど、確かにそのように聞こえた。
姪っ子たちに加え、今日は従妹の子ども(双子)も来ていた。
彼らとは一年に数回しか会う事がなかったので、
僕という存在はほぼ他人だったのだけど、
年末にちょっと妖怪のイラストを描いたら、たちまち人気者になってしまったのだ。
そしていつの間にか、僕のことを、『遊んでくれるおじさん』として見るようになったようだ。
兄は遊ぶ事を放棄した。実子が3人もいれば仕方のない事だった。
荷物を置くやいなや、仏壇にお供えをする前に
ゆずき「僕を振り回してくれー!」
みずき「僕の足を持ってくるくる回って!」
と、言った具合に具体的な発注をするツインズたち。
しかし僕という人間は一人であるし、ナメック星の神龍でもないので
一度に一人の願いしか叶える事はできないのである。
それに少し離れたところで、姪っ子のうさきも遊んで欲しそうにこっちを見ている。
『OK、順番に話を聞こうじゃないか』
僕はまずツインズを疲れさせるために足を持ち上げプロレスラーよろしく
ぶんぶんと振り回した。
一人が終わっても、同じ顔のもう一人が元気いっぱいである。
足を持って逆立ちの姿勢で遊んでみる。
どんな状況でもアグレッシブなプレイは子どもたちには楽しいものになってしまう。
倒されようが、振り回そうがキャッキャと笑うツインズ。
僕は水分を補給するためにビールを嗜んでいたのだけど、あっという間にそれらは汗となって体外へと出ていった。
彼らには『疲れる』という言葉は存在しなかったし、
遊べないおっさんはただのおっさんであり、ヒーローではなかった。
僕はヒーローになれなくとも、ちょっと遊んでくれるいいおっさんになるべく
2本目のビールを飲みながら子どもたちに振り回されていた。
その間、我が子は広い部屋の中で、いっぱいのおもちゃに目を輝かせながら
姪っ子たちに遊ばれていた。
手押し車を使って、見事に歩行し、そして転んだ。
高速ハイハイで、時折僕にしがみついてきた。
しかし僕は羅生門で髪の毛を抜かれる廃人がごとく、ずたぼろであった。
子どもたちと遊んでるつもりがすっかり遊ばれているのだ。
そして、ツインズは僕の事を破棄し、次なる遊んでくれるはずのおっさんのもとへ向かうのであった。
夕方頃になると、他の親戚もやってきて、総勢20人近くも集まった。
そしてホットプレートを使っての焼き肉を夕飯とした。
しかしながら、ホットプレート2台にエアコンフル稼働は、
容赦なくブレーカーを落とすことになった。
結局のところ、自然の風が一番涼しい、ということになり、
エアコンを止め、リビングの全面窓をフルオープンし、
コンロを使ってフライパンで肉を焼き、ホットプレートで保温するという
謎なスタイルを確立させた。
あまりの人の多さと暑さで理子は機嫌を悪くしていた。
僕は理子を抱っこして近所を散歩することにした。
18年過ごした土地である。
少しは建物も変わったりしているけれど、全体としてはなにも変わっていない。
お盆ということで、各家の前には、迎え火の跡が黒く残っていた。
僕も子どもの頃は、じいちゃんと一緒にやったものだ。
小さなやぐらのようなものを作って、新聞紙に火をつけて燃やしていた。
当時はどういった意味があるのか分からなかったけれど、
火を見ていると、神聖な気持ちになったものだった。
そんなことを思い出しながら歩いていると、ある家の前で足が止まった。
開けられた窓から、仏壇が見えた。
友達の家、お母さんが亡くなっていた。
灯りはついているのに、時が止まっているようだった。
家は新しいのに、どこか暗かった。
容赦なく不在を感じた。
おばさんに最後に会ったのがいつのことだった、もう覚えてはいないけれど、
なぜかおばさんの声は今も耳に残っている。
地元から少しずつ何かのかけらが欠けていくような、そんな気がした。
それでも、と僕は思う。
僕の腕の中にはもうすぐ、一歳になろうかという新しい世代の理子がいた。
僕は理子に話しかける。
『ここはお父さんが生まれて、育ったところなんだよ。理子も好きになってくれるといいな』
理解はしていないだろうけれど、いつの間にか機嫌をなおした理子は、ニコニコして聞いてくれているようだった。
家に戻ると、開け放たれた窓から、やっぱり子どもたちの声がして、
それに混じって大人たちの楽しそうな笑い声も聞こえてきた。
『肩車してー!』
ツインズは容赦ない。ノスタルジーで悦に入ってる場合ではないのだ。
実にお盆である。
玄関前に車が横付けされると、開け放たれたリビングの窓から
こどもたちの叫び声が聞こえた。
「すぐるだー!」
幼い声で、まだ輪郭が不明瞭なのだけど、確かにそのように聞こえた。
姪っ子たちに加え、今日は従妹の子ども(双子)も来ていた。
彼らとは一年に数回しか会う事がなかったので、
僕という存在はほぼ他人だったのだけど、
年末にちょっと妖怪のイラストを描いたら、たちまち人気者になってしまったのだ。
そしていつの間にか、僕のことを、『遊んでくれるおじさん』として見るようになったようだ。
兄は遊ぶ事を放棄した。実子が3人もいれば仕方のない事だった。
荷物を置くやいなや、仏壇にお供えをする前に
ゆずき「僕を振り回してくれー!」
みずき「僕の足を持ってくるくる回って!」
と、言った具合に具体的な発注をするツインズたち。
しかし僕という人間は一人であるし、ナメック星の神龍でもないので
一度に一人の願いしか叶える事はできないのである。
それに少し離れたところで、姪っ子のうさきも遊んで欲しそうにこっちを見ている。
『OK、順番に話を聞こうじゃないか』
僕はまずツインズを疲れさせるために足を持ち上げプロレスラーよろしく
ぶんぶんと振り回した。
一人が終わっても、同じ顔のもう一人が元気いっぱいである。
足を持って逆立ちの姿勢で遊んでみる。
どんな状況でもアグレッシブなプレイは子どもたちには楽しいものになってしまう。
倒されようが、振り回そうがキャッキャと笑うツインズ。
僕は水分を補給するためにビールを嗜んでいたのだけど、あっという間にそれらは汗となって体外へと出ていった。
彼らには『疲れる』という言葉は存在しなかったし、
遊べないおっさんはただのおっさんであり、ヒーローではなかった。
僕はヒーローになれなくとも、ちょっと遊んでくれるいいおっさんになるべく
2本目のビールを飲みながら子どもたちに振り回されていた。
その間、我が子は広い部屋の中で、いっぱいのおもちゃに目を輝かせながら
姪っ子たちに遊ばれていた。
手押し車を使って、見事に歩行し、そして転んだ。
高速ハイハイで、時折僕にしがみついてきた。
しかし僕は羅生門で髪の毛を抜かれる廃人がごとく、ずたぼろであった。
子どもたちと遊んでるつもりがすっかり遊ばれているのだ。
そして、ツインズは僕の事を破棄し、次なる遊んでくれるはずのおっさんのもとへ向かうのであった。
夕方頃になると、他の親戚もやってきて、総勢20人近くも集まった。
そしてホットプレートを使っての焼き肉を夕飯とした。
しかしながら、ホットプレート2台にエアコンフル稼働は、
容赦なくブレーカーを落とすことになった。
結局のところ、自然の風が一番涼しい、ということになり、
エアコンを止め、リビングの全面窓をフルオープンし、
コンロを使ってフライパンで肉を焼き、ホットプレートで保温するという
謎なスタイルを確立させた。
あまりの人の多さと暑さで理子は機嫌を悪くしていた。
僕は理子を抱っこして近所を散歩することにした。
18年過ごした土地である。
少しは建物も変わったりしているけれど、全体としてはなにも変わっていない。
お盆ということで、各家の前には、迎え火の跡が黒く残っていた。
僕も子どもの頃は、じいちゃんと一緒にやったものだ。
小さなやぐらのようなものを作って、新聞紙に火をつけて燃やしていた。
当時はどういった意味があるのか分からなかったけれど、
火を見ていると、神聖な気持ちになったものだった。
そんなことを思い出しながら歩いていると、ある家の前で足が止まった。
開けられた窓から、仏壇が見えた。
友達の家、お母さんが亡くなっていた。
灯りはついているのに、時が止まっているようだった。
家は新しいのに、どこか暗かった。
容赦なく不在を感じた。
なぜかおばさんの声は今も耳に残っている。
地元から少しずつ何かのかけらが欠けていくような、そんな気がした。
それでも、と僕は思う。
僕の腕の中にはもうすぐ、一歳になろうかという新しい世代の理子がいた。
僕は理子に話しかける。
『ここはお父さんが生まれて、育ったところなんだよ。理子も好きになってくれるといいな』
理解はしていないだろうけれど、いつの間にか機嫌をなおした理子は、ニコニコして聞いてくれているようだった。
家に戻ると、開け放たれた窓から、やっぱり子どもたちの声がして、
それに混じって大人たちの楽しそうな笑い声も聞こえてきた。
『肩車してー!』
ツインズは容赦ない。ノスタルジーで悦に入ってる場合ではないのだ。
実にお盆である。
2015年8月19日水曜日
お盆
土曜日に予定がある金曜日の夜って、どうしてこんなにも心が高揚するのだろう。
日が落ちても暑さが弱まる事なく、かえって湿度が高く感じられ不快にも関わらず、家に帰る足取りは、どこか軽い気がした。
家に着くと、理子はまだ起きていたけど、もう眠る時間だった。
理子との、ほんのつかの間を、僕は体いっぱいで吸収する。
気持ちが満ち足りる事なんてないのだけれど、志半ばだけれど、理子は眠るべき時間になる。僕は花さんに理子を託して一人夕食を食べ、お風呂に入る。
そして僕は翌日の支度をする。
1泊2日で沼津に帰るのだった。
8月は二人の姪が誕生日だった。花さんは事前にプレゼントを買ってくれていたので、
それらをスーツケースに大事に仕舞った。そして、理子の着替えと、おむつと、外食セットを用意した。
以前は花さんと二人分の荷物しか入れることはなかったけれど、今回は3人分の荷物だ。
ある程度の準備ができたところで、2階から理子が大きな声で泣いているのが聞こえる。
夜泣きだ。怖い夢でも見たのか、はたまた寝返りを打って壁にぶつかったか。
いずれにしても一人暗い部屋で大きな声で泣いている。ママー。マンマー。
きっとママという言葉は、お母さんを呼ぶ声だから、一番最初に発する言葉だから、
お母さんの事をママって言うんだと思う。
花さんは優しく理子に語りかける。
『大丈夫だよ、ママはここにいるよ』
しばらく激しく泣いていたけど、その声はだんだんと弱まって、いつしか寝息に変わった。
翌朝、理子はご機嫌だ。後頭部にいっぱいの汗をかき、力強くマグに入った水を飲む。
理子が産まれる前とは比べ物にならないくらい増えた洗濯物を、片付ける。
これから留守にするから、室内干しだ。
購入してよかったものランキングベスト5に入る、乾燥機を出動させる。
これで室内干しの嫌なにおいを防ぐ。僕は生乾きの匂いが大嫌いなのだ。
花さんが理子の朝食を作り、食べさせている間、僕は支度の続きをする。
そして10時過ぎには家を出る。すっかり午前中の行動が苦ではなくなった。
大井町線で終点の大井町まで。土曜の朝だけど、車内は座れない程に混んでいた。
自由が丘で一斉に客が降りたので、ようやく座る事ができた。
窓の向こうの風景が流れて行くのを見るともなく眺めていると、
電車はあっという間に目的地へと連れて行ってくれた。
電車を乗り継ぎ品川まで行くと、お土産を買った。
今年大学を卒業する僕の従妹も8月生まれなのだけど、
花さんはプレゼントを買ってあげたいと言って、コスメショップに行くと、
CHANELのヘアフレグランスを購入てくれたのだった。
22歳はもう十分に大人だった。
新幹線は思っていたよりも混んでいなくて、3人席に座る事ができた。
理子に昼食を食べさせ、大人たちは沼津でご飯を食べる事にした。
子持ちは出口付近に座るべし、と花さんの教えがあり、実行していたのだけど
ぐする理子を抱いてあやすには、それは本当に重要な事だった。
三島で降り、在来線で沼津駅へ。久々に駅周辺を歩いた。
僕が東京に出ている間にどうやら『イーラ』という商業施設ができていた。
『イーラでいいら?』という会話が聞こえてきそうだ。
どこもかしこも店は混んでいだけど、そこで昼食を食べた。
ご飯を食べ終えると、電車で原まで行った。
駅のロータリーでは、兄が待ってくれていた。
車に乗り込むと、僕と顔のよく似た兄を見て、理子は不思議そうな顔をした。
『パパによく似た人だな』
車はまっすぐと実家へと向かって走り出した。
僕の短い夏休みがそこには待っていた。
日が落ちても暑さが弱まる事なく、かえって湿度が高く感じられ不快にも関わらず、家に帰る足取りは、どこか軽い気がした。
家に着くと、理子はまだ起きていたけど、もう眠る時間だった。
理子との、ほんのつかの間を、僕は体いっぱいで吸収する。
気持ちが満ち足りる事なんてないのだけれど、志半ばだけれど、理子は眠るべき時間になる。僕は花さんに理子を託して一人夕食を食べ、お風呂に入る。
そして僕は翌日の支度をする。
1泊2日で沼津に帰るのだった。
8月は二人の姪が誕生日だった。花さんは事前にプレゼントを買ってくれていたので、
それらをスーツケースに大事に仕舞った。そして、理子の着替えと、おむつと、外食セットを用意した。
以前は花さんと二人分の荷物しか入れることはなかったけれど、今回は3人分の荷物だ。
ある程度の準備ができたところで、2階から理子が大きな声で泣いているのが聞こえる。
夜泣きだ。怖い夢でも見たのか、はたまた寝返りを打って壁にぶつかったか。
いずれにしても一人暗い部屋で大きな声で泣いている。ママー。マンマー。
きっとママという言葉は、お母さんを呼ぶ声だから、一番最初に発する言葉だから、
お母さんの事をママって言うんだと思う。
花さんは優しく理子に語りかける。
『大丈夫だよ、ママはここにいるよ』
しばらく激しく泣いていたけど、その声はだんだんと弱まって、いつしか寝息に変わった。
翌朝、理子はご機嫌だ。後頭部にいっぱいの汗をかき、力強くマグに入った水を飲む。
理子が産まれる前とは比べ物にならないくらい増えた洗濯物を、片付ける。
これから留守にするから、室内干しだ。
購入してよかったものランキングベスト5に入る、乾燥機を出動させる。
これで室内干しの嫌なにおいを防ぐ。僕は生乾きの匂いが大嫌いなのだ。
花さんが理子の朝食を作り、食べさせている間、僕は支度の続きをする。
そして10時過ぎには家を出る。すっかり午前中の行動が苦ではなくなった。
大井町線で終点の大井町まで。土曜の朝だけど、車内は座れない程に混んでいた。
自由が丘で一斉に客が降りたので、ようやく座る事ができた。
窓の向こうの風景が流れて行くのを見るともなく眺めていると、
電車はあっという間に目的地へと連れて行ってくれた。
電車を乗り継ぎ品川まで行くと、お土産を買った。
今年大学を卒業する僕の従妹も8月生まれなのだけど、
花さんはプレゼントを買ってあげたいと言って、コスメショップに行くと、
CHANELのヘアフレグランスを購入てくれたのだった。
22歳はもう十分に大人だった。
新幹線は思っていたよりも混んでいなくて、3人席に座る事ができた。
理子に昼食を食べさせ、大人たちは沼津でご飯を食べる事にした。
子持ちは出口付近に座るべし、と花さんの教えがあり、実行していたのだけど
ぐする理子を抱いてあやすには、それは本当に重要な事だった。
三島で降り、在来線で沼津駅へ。久々に駅周辺を歩いた。
僕が東京に出ている間にどうやら『イーラ』という商業施設ができていた。
『イーラでいいら?』という会話が聞こえてきそうだ。
どこもかしこも店は混んでいだけど、そこで昼食を食べた。
ご飯を食べ終えると、電車で原まで行った。
駅のロータリーでは、兄が待ってくれていた。
車に乗り込むと、僕と顔のよく似た兄を見て、理子は不思議そうな顔をした。
『パパによく似た人だな』
車はまっすぐと実家へと向かって走り出した。
僕の短い夏休みがそこには待っていた。
2015年8月8日土曜日
2015年8月2日日曜日
移動祝祭日
実はこの8月の終わりに引っ越しをすることになっている。
今年に入った頃から家を買うというミッションに向けて密かに実行していたのだ。
購入派、賃貸派の戦いというのは永遠に結論がでないそうである。
それはそうだ、お互いに歩み寄ることをするわけがないのだ。
だから購入するし、だから賃貸で居続ける。
僕たちは上野毛という町をとても気に入っている。
都会のエアーポケットのようなこの場所には、大きな幹線道路があっても少し道を入ると、イチゴを育てるビニールハウスもある。
田舎育ちの僕たちには落ち着く環境だった。
上野毛でも、もちろんマンションを探していたのだけど、
実は上野毛というのは高級住宅地であった。
都会のエアーポケットのようなこの場所をには、やはりお金を持った人たちが静かに暮らしているのだ。
序盤に案内をしてくれた不動産屋は言った。「見ても10件くらいにとどめた方がいいですよ。」
結果的にはそのようになった。
まだ人が居住中の家に内見に行った。
痴呆が始まってしまったがために、家族が家を売りに出そうとしていた。窓から桜が見え、建物の敷地内には文化財指定のお屋敷があるところだった。
申し込みをしたものの、結局そこは売りに出されることはなかった。
痴呆の人の財産を処分するのはとても時間がかかるし、結果的に手放せないことがあるということを学んだ。
80平米程の広さの家を内見した。
そこもまだおばあさんが居住していた。仏壇には旦那さんの写真が飾られていた。
日当りのよい部屋だったけれど、どこか陰を落としていた。
きれいな部屋だけど、くたびれている。
マンションが建った当初から住んでいるとのことだった。
30年以上の時間をその部屋で過ごし、泣き、笑い、最愛の人を看取った部屋。
90平米近くある部屋を内見した。
そこにはもう人は住んでいなかった。マンション建設当時から住んでいたということだったけれど、とてもきれいな部屋だった。
日当りもよく、窓を開けると気持ちよく風が抜けていった。
ここに住むことになるのかな
そんなことを思った家だった。
結果的にはそのようになった。
それからは事務手続きや、リフォーム会社との打ち合わせを重ねていった。
産休中の花さんにはとてもよく動いてもらった。
平日に手続きをしなくてはならないことというのが多かった。
とても感謝している。
そして、今月の終わりには引っ越しだ。
家は人生という映画を映し出す映画館のようなものだと思った。
なにがあっても光を投射して、ストーリーを紡ぐのだ。
映画の長さもそれぞれ。タイトルロールからエンドロールまで、人それぞれ。
これから住むその家に、その映画館に、いっぱいのお客さんを招き入れて、
ぜひ、エンドロールが流れるその時まで、
喜怒哀楽いっぱいのストーリーをお届けしたいものである。
今年に入った頃から家を買うというミッションに向けて密かに実行していたのだ。
購入派、賃貸派の戦いというのは永遠に結論がでないそうである。
それはそうだ、お互いに歩み寄ることをするわけがないのだ。
だから購入するし、だから賃貸で居続ける。
僕たちは上野毛という町をとても気に入っている。
都会のエアーポケットのようなこの場所には、大きな幹線道路があっても少し道を入ると、イチゴを育てるビニールハウスもある。
田舎育ちの僕たちには落ち着く環境だった。
上野毛でも、もちろんマンションを探していたのだけど、
実は上野毛というのは高級住宅地であった。
都会のエアーポケットのようなこの場所をには、やはりお金を持った人たちが静かに暮らしているのだ。
序盤に案内をしてくれた不動産屋は言った。「見ても10件くらいにとどめた方がいいですよ。」
結果的にはそのようになった。
まだ人が居住中の家に内見に行った。
痴呆が始まってしまったがために、家族が家を売りに出そうとしていた。窓から桜が見え、建物の敷地内には文化財指定のお屋敷があるところだった。
申し込みをしたものの、結局そこは売りに出されることはなかった。
痴呆の人の財産を処分するのはとても時間がかかるし、結果的に手放せないことがあるということを学んだ。
80平米程の広さの家を内見した。
そこもまだおばあさんが居住していた。仏壇には旦那さんの写真が飾られていた。
日当りのよい部屋だったけれど、どこか陰を落としていた。
きれいな部屋だけど、くたびれている。
マンションが建った当初から住んでいるとのことだった。
30年以上の時間をその部屋で過ごし、泣き、笑い、最愛の人を看取った部屋。
90平米近くある部屋を内見した。
そこにはもう人は住んでいなかった。マンション建設当時から住んでいたということだったけれど、とてもきれいな部屋だった。
日当りもよく、窓を開けると気持ちよく風が抜けていった。
ここに住むことになるのかな
そんなことを思った家だった。
結果的にはそのようになった。
それからは事務手続きや、リフォーム会社との打ち合わせを重ねていった。
産休中の花さんにはとてもよく動いてもらった。
平日に手続きをしなくてはならないことというのが多かった。
とても感謝している。
そして、今月の終わりには引っ越しだ。
家は人生という映画を映し出す映画館のようなものだと思った。
なにがあっても光を投射して、ストーリーを紡ぐのだ。
映画の長さもそれぞれ。タイトルロールからエンドロールまで、人それぞれ。
これから住むその家に、その映画館に、いっぱいのお客さんを招き入れて、
ぜひ、エンドロールが流れるその時まで、
喜怒哀楽いっぱいのストーリーをお届けしたいものである。
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