あのときに感じたことをきちんと残しておこうと思ったので、この文章を残す。
去年の11月末頃だったか、理子のお迎えに行っている時間、夜の7時くらいに母親から電話があった。正直なところもうその時点で嫌だなって思っていた。
なにか簡単な要件ではなく話して伝えたいということだからだ。そういう内容は良いものではないことが多い。経験則において。
僕は一呼吸おいて、電話にでた。やはり予感は的中してしまった。
叔父が癌にかかっており、余命を宣告されているという。いきなり「死」という言葉が出てきて、僕は呆然としてしまった。意味がわからなかった。僕の目の前では理子が靴を履いてコーチとにこやかに会話をしていて、「死」という言葉からひどく遠い距離にいた。
それでも電話口の向こうでは母は泣いて取り乱していて、事実であるには変わりないようだった。電話を切ると同時に腹の底からよくわからない鈍い痛みのようなものが喉あたりまでこみ上げていて涙が出てきた。
理子と歩く帰り道、僕は上の空だった。
家に帰ると花さんにこのことを伝えた。「あきなおちゃんが死んじゃうんだって」。
もう最後の方は声にならないようなものだったし、僕はもう子供の前だったにもかかわらず嗚咽をもらして泣いてしまった。
それから母と連絡を取り合いながら、どうするかを考えた。まずはおじちゃんに会いに行くことにした。母は「痩せちゃったよ」と言った。その事実がことの重さを告げていた。体格のいい人だった。
正直会いたくなかった。会うと話に聞いていたことが事実になってしまうからだ。話をきいているだけだったら、僕の中ではまだおじちゃんは元気なままで趣味の革製品作りをしているはずだった。
おじちゃんの家に行くと思っていたよりも元気な姿で出迎えてくれた。そして自分の病状をまるで人ごとのように、客観的事実として説明してくれた。これからの未来に向けてどうやっていくのかと。いつもより早い口調。何か自分に言い聞かせている部分もあったのかもしれない。
でもそうやって立ち向かっていく姿勢に僕は安心した。その言葉の通りに治るものなんだ、なんとかなるものなんだって思っていた。
その後、僕は都度都度、家族で実家に帰った。その度におじちゃんの家の玄関には大量の靴が並び、部屋からは人が溢れた。僕の従兄弟たちがきてたり、親戚のおじちゃんやおばちゃんが来ていた。いつものおじちゃんの家だった。
でもだんだんとおじちゃんの体の線は細くなっていった。そして酸素濃度を上げるための機械が部屋に導入され、鼻には管が通された。そして辛そうに咳き込む回数が増えていった。
長い長い管は、おじちゃんがそれだけ動ける距離があることを示していた。とある時は家の外にまででて、僕と兄が不用品の片付けをしているのを手伝ってくれた。本当は体を動かすことがとても負担になるはずなのに。
元気なように見えた。絶対になんとかなるんだろう、と心の中で思い、別れる時は「またね」と握手をして帰った。僕がFACEBOOKに写真を投稿すると「いいね」がおじちゃんから押されて、それがあると嬉しいというよりもsnsを見る余力があるということに安心した。
癌は確実におじちゃんの体を蝕み続けていた。そしておじちゃんから食欲を奪い、吐いてしまうことが多くなっていったらしい。でも僕たちが行く時はそういった姿は全く見たことがなかった。優しくてたくましい、弱さは人前では見せない、昔からそうだったっておじちゃんの友達が母に言っていたらしい。
でもこの頃、もう自分は長くない、ということをあっけらかんと言っていた。おじちゃんのその客観性というのか達観した死生観は話を聞く側からすると、どう思えばいいのか正直なところわからなかった。
伝えられていた余命をだいぶ過ぎた頃、やはり調子が悪くなってきているという連絡がきた。GWにも帰り大勢の親戚達を囲んで過ごした数週間後だった。
居間に、ベッドが導入され寝ている時間が長くなっていった。そして呼吸をするのが辛そうで、その呼吸もお腹のあたりが上下している、通常の呼吸ができなくなっていた。
近所に住んでいる母たちや親戚が毎週末会いに行くのと、東京から僕が会いに行くのとでは本人に与える印象が悪いのではないかと思っていた。その頻度が多いほどに事の深刻さを伝えてしまうような気がしていた。そして、おじちゃんに伝えたいこと、今までしてくれたことに対してのお礼を直接言いたい気持ちがあった。
ただ、「お礼を言うというのは最期だから」という印象を与えてしまう気がして言い出すことができなかった。怖かった。
6月に入り、いよいよ深刻さが増していったようだった。もうずっと頭の中からおじちゃんのことが離れなかった。「その時を覚悟して」と母親から伝えられた。
「お祭りがあってみんなくるよ」というので、僕たち家族も帰ることにした。
6月8日。僕は隣駅のデパートに行き、割と高級な果物を購入した。単なるスーパーで売っている数百円のものではないそれを躊躇なく購入したのはいろんなことに後悔したくなかったからだ。もうおじちゃんに対してすることの一つ一つに意味が出てきてしまうと思った。
おじちゃんの家に着くと久々に会ういとこもいた。
おじちゃんは明らかに痩せて、長ズボンを履いていてもその足の細さが伝わってきた。
僕が買ってきたマンゴーを渡すと、好物であることを知った。僕はあまりおじちゃんが好きなものを知らなくて申し訳なく思った。
大人数で家に押しかける。それはいつもの光景。8畳くらいの和室に何人集まっていただろうか。大きさの違うテーブルが3つ並び部屋の外まで続く。いつもの光景。
おじちゃんを母たちに託して、我々は子供たちを引き連れて、いつか子供だった頃の自分たちが行っていた祭りに参加した。何台もの山車がアーケード街を練り歩く。それを見るともなく見ていた。きれいな夕焼けが広がり、やがて暗闇が街を包んだ。
家に帰ると、おじちゃんは果物を食べていた。口から食べることができることができてよかった。
それでも明らかにもうその時が近いことはその部屋にいたみんなが感じ取っていたことだと思う。当たり前だけどだれもそれを口には出さないし、また会いにくるねと力強く握手して家を出た。
毎日のように母と連絡を取り合う。そして病状は日に日にひどくなっていった。
6月13日、母から電話がある。
かなり衰弱してきているとのこと。もって2週間と医者が言っているとのこと。この頃からかなりの頻度で親戚含めて連絡が飛び交っていた。何をすべきか何ができるか、最後におじちゃんに何をしてあげられる?
僕が子供の頃、夏休みになるとバイクで家にやってきて算数を教えてくれた。算数が嫌いだったから、おじちゃんに教えてもらってもよくわからなくて、その時は正直嫌だなって思ってた。ある時家の畑道を歩いている時、なにげなくお菓子のゴミをその辺に捨てたらこっぴどく怒られた。
ビーサンに短パンといった服装のまま兄と従姉妹と三人でいきなり富士山に行ったこともあった。バスで行けるところまで行って、それは何合目だったか。宝永山のふちを歩いたような気がする。
ある時家に遊びに行くと、おじちゃんが作ったよくわからないお菓子を食べたりした。
海外に出張に行くけどお土産は何がいい?と聞かれて高校一年生の僕は、友達がつけていた「クリニークのHAPPY」という香水をお願いして、実際にそれをお土産としてもらった。
ある時家に遊びに行くと、本棚に並んでいた「クッキングパパ」を読んだり「パイナップルアーミー」を読んだり「マスターキートン」を読んだ。あの時に読んだマスターキートンは自分で買い揃えて今の家の本棚に並んでるよ。
僕の家にはないものがおじちゃんの家にはあって、知らないことを教えてくれるのがおじちゃんだった。僕が高校生の頃、進路の話をしたら郵送で分厚い封筒が送られてきてそれは専門学校の資料だった。どこかで調べてくれてコピーしてくれていた。
僕がカメラを買っておじちゃんの家にも持っていくと、興味深そうに使っていた。そのうち昔使っていた古いフィルムカメラをくれた。僕はそれを使って何枚も何枚も撮ったよ。
専門学生の時、シルバーの指輪を作ってくれた。指輪をする習慣がなかったらか首から紐で通して、ワインのコルクもつけてネックレスみたいにしてつけた。いつかその指輪は割れちゃって、そのことを言ったらまた作るよって言ってくれた。
理子が産まれると、おじちゃんの好きなクラフト作業で、レザーの小さな財布を作ってくれて、その中にお祝いを入れてプレゼントしてくれた。
これからも蓄積されていくと思っていた思い出が、もう振り返ることしかできなくなってしまった。これからも僕の子供たちの成長を見届けてくれると思っていた。
母からの電話を受けながら一瞬でいろんなことがフラッシュバックした。
翌日の夜も母から電話があった。もうまずいことになっているというのが取り乱した口調から伝わってくる。
もう21時前だったけど、いてもたっても入れなくて風呂に入っていた花さんに「ごめん、おじちゃんの家に行ってくるね、ごめんね、子供たちをお願い」と言って着替えを乱暴にカバンに詰め込んで家を飛び出て行った。
おじちゃんの家につくと、慌てている様子の僕の家族、いとこたちが勢揃いしていた。
深夜ということもあって異常な光景に見えた。おじちゃん自体ももう目の焦点があっていない。鼻に通した酸素の管も外してしまったりとおかしな行動も見られ始めてしまった。母は数日前から寝泊りしていて疲れ切っている様子だ。
「ついさっきまで本当にどうなるかと思った」という状態だったらしい。その時が来てしまったと、同席していたみんなが思ったようだ。
薬の量を増やすことで眠る時間も増えて、異質な行動が少なくなるとのことだった。
兄や従兄弟との子供たちは疲れ果てて別室で寝ていて、大人たちはおじちゃんの部屋で何をするともなく過ごしていた。鼻の管が外れると音が明らかに変わるので、その都度付け直したり、水分を取りたいと言ったらポカリをあげた。
何か質問をすると、「うん」と返事をしてくれた。おじちゃんからのアクションがあると安心した。
朝方近くになっても何人かは起きていて、こういった状況の中でも砕けた笑い話もしていた。それがこの一家の良さの一つだと思う。辛気臭くなりすぎないのだ。
6月15日 土曜日
朝になると誰かがコンビニに行って人数分の朝食を揃えた。そしておじちゃんのいる部屋でみんなで食べた。子供たちはギャーギャーと騒ぎ、賑やかに過ごしていた。
すっかりと衰弱してしまったおじちゃんの顔にもびっしりと白い髭が生えていて、それを剃ってあげようという話になった。
「ちょっと髭剃らせてね」と言って僕が剃った。人の髭を剃るなんて初めてのことだった。
思うように動かすことができないこともあって、剃り残しもたっぷりとある顔だったけど、それでもやはりきれいになってよかった。そのついでに濡らしたタオルで体や顔を拭いたりもした。
その後、どういうわけか僕とおじちゃんが部屋に二人きりというタイミングがあった。
僕はいましか言うタイミングないよなと思って、意識があるかどうかもわからない状態だったけれど「ありがとう」と言った。
「あの時はありがとう」
おじちゃんがしてくれたいくつものことに感謝を伝えた。涙は止めどなく流れていた。そして僕の中でおじちゃんの存在の大きさを改めて知った。
返事はなかった。耳に届いてくれているといいなと思った。
夕飯はいつものようにテーブルを3つ並べて食べる大所帯スタイルだった。
おじちゃんはベッドに横になったり腰掛けたりしながら我々が食事をする姿を見るともなく見ていた。阿鼻叫喚。全く静かではない食事風景。いつもの光景。
今日はいったん帰ろうという話になって、沼津の実家に帰ることになった。母親はまだ泊まると言った。
もう22時を過ぎていた。
日付が変わって0時30分頃。従兄弟から電話が鳴った。
僕はそれに気づかず、兄が僕を起こしに来た。もうそれが全てだった。日中は騒がしい子供たちも寝起きということはあれど静かに支度をして車に乗り込んだ。
本当にだれも喋らなかった。外は雨が降っていた。
1時前には家に着いていたように思う。そんな時間でもおじちゃんの家は煌々と光が灯っていた。足早に部屋に入っておじちゃんと対面した。
あれほど苦しそうにお腹を膨らませて呼吸していたのに、もうそれは見られなかった。おじちゃんの体はまだ温かかった、でも大きな声で名前を呼んでも返事はなかった。
兄は「戻ってこい!」と大きな声で叫んで泣いていた。僕も枕元に座り込むと嗚咽を漏らして泣いてしまった。
そのうち看護師さんが来て、手早くしっかりと対応をし、程なくして医師が到着。明確に時間が読み上げられた。令和6年。6月16日。1時16分。66歳。なぜか6が並んだ。
もう苦しそうじゃない、苦しむことはないということだけが救いだった。ただ救いだとしてもこんな形のものなど誰も求めているはずもなかった。
後日、おじちゃんの荷物を整理していると、レザークラフトの品々がまとまったケースが出てきた。その中には「れい」と「ぜん」。来年小学生に進学する2人の子供たちの名前が彫られた皮の小物入れが出てきた。
「来年あげるつもりだったんだね」って。もっと長く生き続けるつもりだったんだって。
おじちゃんの人を思う優しさや、温もりをそこから感じ取った。
しばらくは、おじちゃんがこの世から去ったなどと、骨を拾った今も正直思えてない。
バイクで好きなところに行って、新しいお菓子作りを試してみてるんだって。おじちゃんの家に行ったらまだいつもの場所に座っているんだって、いまでもそう思ってる。