夕飯の支度をして、それを食べ、食器を片付けるためキッチンへと運んだ。
洗い物をしてリビングへと戻ると、さっきまでとは違って、少し理子が大人びて見えた。
保育園で毎月身体測定が行われ、そのリストを見ると、毎月微小でも成長が数字として表れている。隣のページには、去年のリストがある。それを見てみると、1年で10センチも伸びたことがわかる。
体の成長とともに好みの変化も当然ある。
昨夏、猛烈に愛していたトーマスは忘却の彼方。
今冬、恋していたシンカリオンは超特急で去っていった。
今春、ついに到来したプリキュア熱。
YouTubeで見た振り付けをマスターし、我々に披露する。
iPhoneの操作をマスターし、メール通知を、するっとフリップして消すことなどお茶の子さいさい。
娘「パパはキュアホイップね」
私「キュアホイップよ」
娘「ちがーう!それはキュアホイップじゃない!!!」
私「・・・。」
3歳。夏には4歳。
4年ってこんなに長くてあっという間だなんて知らなかった。
2018年3月31日土曜日
2018年3月25日日曜日
2018年3月21日水曜日
2018年3月20日火曜日
from the past
つい先頃の休日。
机の周りを整理していたら、現像に出されていないままのフィルムがあった。
いったいいつ巻き上げたものなのか、さっぱり思い出せない。
その過去からの贈り物のようなものを、駅前にあるパレットハウスに持って行った。
たいてい何時間後にはできあがるのだけど、この日はどういうわけか「火曜日の仕上がりです」と言われた。
1年以上は確実に放っておいたそれの出来上がりが、たかが2日くらいかかったってどうってことがないので、「わかりました」と答えて伝票の控えをもらった。
そして今日である。
すっかり現像していたことも忘れてしまったそれを思い出したのは、財布を取り出した時で、レシートとは別のところにしまっていた伝票を見たからだった。
保育園の行く前に店に立ち寄った。
店員に伝票を渡すと、仕上がったものを渡された。僕はそれぞれを紙焼きにしないで、CDにデータを焼いてもらうようにしていた。中身の確認のために、インデックスとして小さくされた写真の羅列を提示されて、「こちらでまちがいないですか?」と聞かれた。
しかしながらまったく記憶が薄れてしまったその小さな写真たちを見ても、否定も肯定もできなかった。
というわけで「はい」と答えて受け取って持ち帰った。
理子をお迎えにいってから家に帰ると、ご飯を作る前にそれをiMacに挿入した。我が家のiMacはまだ本体自体にスロットがついているのだ。
果たしてCDに焼かれたデータたちを見てみると、そこには2016年と印字された写真たちがあった。
オペラシティにライアンマッギンレーの写真展を見に行ったとき。
山岸さんのお墓まいりに行ったとき。
ゴールデンウィークに、沼津から兄一家がやってきたとき。
思い出が日付とともに焼き付けられていた。
「あぁ、やっぱりフィルムっていいな」って思うトーンの写真たち。
写真のクオリティとは別の意味で、いい写真。
2年前の理子の姿は当然のことながら小さくて、みんながそれぞれ2歳若かった。
過去から届いた手紙のようなそれを、しっかりと受け取った。2年前現像しないでおいた自分に、ある意味で感謝したい。
ただの写真ではなく、2年分の想いがそこには蓄積されているようだった。
机の周りを整理していたら、現像に出されていないままのフィルムがあった。
いったいいつ巻き上げたものなのか、さっぱり思い出せない。
その過去からの贈り物のようなものを、駅前にあるパレットハウスに持って行った。
たいてい何時間後にはできあがるのだけど、この日はどういうわけか「火曜日の仕上がりです」と言われた。
1年以上は確実に放っておいたそれの出来上がりが、たかが2日くらいかかったってどうってことがないので、「わかりました」と答えて伝票の控えをもらった。
そして今日である。
すっかり現像していたことも忘れてしまったそれを思い出したのは、財布を取り出した時で、レシートとは別のところにしまっていた伝票を見たからだった。
保育園の行く前に店に立ち寄った。
店員に伝票を渡すと、仕上がったものを渡された。僕はそれぞれを紙焼きにしないで、CDにデータを焼いてもらうようにしていた。中身の確認のために、インデックスとして小さくされた写真の羅列を提示されて、「こちらでまちがいないですか?」と聞かれた。
しかしながらまったく記憶が薄れてしまったその小さな写真たちを見ても、否定も肯定もできなかった。
というわけで「はい」と答えて受け取って持ち帰った。
理子をお迎えにいってから家に帰ると、ご飯を作る前にそれをiMacに挿入した。我が家のiMacはまだ本体自体にスロットがついているのだ。
果たしてCDに焼かれたデータたちを見てみると、そこには2016年と印字された写真たちがあった。
オペラシティにライアンマッギンレーの写真展を見に行ったとき。
山岸さんのお墓まいりに行ったとき。
ゴールデンウィークに、沼津から兄一家がやってきたとき。
思い出が日付とともに焼き付けられていた。
「あぁ、やっぱりフィルムっていいな」って思うトーンの写真たち。
写真のクオリティとは別の意味で、いい写真。
2年前の理子の姿は当然のことながら小さくて、みんながそれぞれ2歳若かった。
過去から届いた手紙のようなそれを、しっかりと受け取った。2年前現像しないでおいた自分に、ある意味で感謝したい。
ただの写真ではなく、2年分の想いがそこには蓄積されているようだった。
2018年3月11日日曜日
日常
僕にとっての冬の朝は、夏のそれと比べると遅く始まる。だいたい7時前後に目が覚めて、起きしなiPhoneでざっとインスタグラムやフェイスブックを見る。
夜中に更新されているのは大抵が企業によるものだった。ここのところ、友人たちはあまりそれらを更新しなくなってきている気がする。いっときのミクシーのように、みんなは新たに場所を見つけたのかもしれない。
隣で理子はまだ寝ている。時々だまったままこちらを見ていることもあるので、びくっとすることもある。
なかなか布団から出ることができないまま5分10分と過ぎていく。その時が7時7分だったら、15分には布団から出よう、というふうに自分を甘やかせる。布団のぬくもりがそれを助長させる。
意を決して布団から出てリビングに行く。
前日の自分の頑張り具合が表れるリビング。テーブルの上が片付いているときは調子が良かった時だ。調子が悪い時はテーブルはおろか、床にも色々なものが散乱している。理子がひっくり返したおもちゃや本たち。取り込んだまま片付けられていない洗濯物たち。
調子が良いというのは体調ではない。片付けまでできるマインドだったかどうか、ということだ。
平日は18時に仕事を終わらせ、駅直結の職場を出て地下鉄に乗り、保育園まで急ぐ。19時15分までに保育園に行かなくてはならない。15分、というところに、いたわりを感じる。
純粋な意味での一人時間というのはこの通勤時のみといっても過言ではない。しかし大抵は満員電車であるから、見ず知らずの人と否応なく触れていないとならない。冬場はダウンコートなどの重厚なアウターをきている人が多く、車内は冷房が必要なくらいの熱気がこもっている。
大抵文庫本を2冊鞄に入れている。少し前まで読んでいたのは、ジャックケルアックだったのだけど、途中で読むのを挫折した。僕はどうしても翻訳ものは読み切ることができない。今までの人生でそれが可能だったのは、数冊しかない。カミュの『異邦人』に関しては4回くらいは読み返しているからかなり稀有な存在だ。
今は村上春樹のインタビューをまとめたものを読んでいるのだけど、車内の混み具合によってはそれが中断されてしまうこともある。その時は仕方がない。虚空を見つめざるをえない。
一度路線を乗り換える。大抵いつもホームの決まった場所にいる。そしていつも大抵少し遅れて電車はやってくる。おのずとお迎えの時間も遅れる。
車内での読書を終えると、最寄駅で降り、一目散に保育園へと向かう。18時45分。外は真冬に比べて少しはまだ青のトーンが残っている。
すれ違う人たちの中に、もうお迎えを終えて夕飯の支度のためにスーパーに立ち寄る親子の姿が見られる。そいういった姿を見ると少しだけもどかしい。
駅から歩いて5-6分で保育園に到着する。門のところには数台の自転車が止まっている。全て電動自転車だ。呼び鈴を鳴らすと備え付けのライトが点灯する。そして名前を告げ鍵を開けてもらう。
園の中に入ると、窓越しに延長保育中のこどもたちの姿が見える。僕はその脇を通り過ぎながら娘の顔を探す。目があうとパーっと表情がキラキラするのが分かる。飛び跳ねて喜びを表現してくれる。
入り口で靴を脱ぎ部屋に入り、上着や、汚れた服などを回収する。お漏らしした時は、袋が重くなるのですぐにわかるのだけど、最近ではそれがめっきりなくなった。そしてオムツもほぼ外れているので汚物を入れるビニール袋は空なことが多い。
「パパー!」と走って僕に飛び込んでくる。「変わりないでーす」と先生から言われ、支度をして帰る。給食のサンプルを見て、「これ食べられたんだよ」と教えてくれる。
靴を履いた瞬間に走りだす。こどもの体力ゲージを可視化してみたい。残り5パーセントでもきっと加速スイッチは稼働すると思う。
2重の鍵を外し、歩道に出ても走りだすから非常に怖い。「道路だから走ると危ない」ということを教えても理解できないから根気よく注意深く家まで帰らなくてはならない。
金曜日のお迎えの時は、帰り道にある自販機でアイスを買って帰ることにしている。これは夏場から続いている。暑かったとき、そこにあるベンチで食べていた。僕としては夏だけのつもりが、真冬でもこれは続いていた。もちろん自宅に持ち帰って食べる。
途中、広い駐車場があり、金網越しにお店やさんごっこをする。保育園にこっそり持っていっているドキンちゃんとコキンちゃんのおもちゃを並べて「どれにしますかー?」と理子が言う。「コキンちゃんください」と僕が言うと、「ダメでーす」と言って店じまいをしてしまう。
塀の上を登ってみたり、そこからジャンプしてみたりして、ようやく家に到着する。マンションの敷地内にある灯りを怖がるので、そちら側を僕が歩く。
力強く階段を自分で登り、部屋に入る。換気をし、ガスストーブに火を点ける。
園から持ち帰ったものを袋から取り出す。連絡帳にさっと目を通し、片付ける。
手洗いうがいをしアイスを食べる。
理子がアイスを食べている間にご飯の支度にとりかかる。金曜の冷蔵庫はもう中身が枯渇している。パスタを茹で、にんじんときのこを炒めたものと納豆を混ぜてめんつゆをかけ、和風パスタとして食卓に並べる。すると理子は「ごはんがいい」と泣き喚く。ごはんに納豆。それが並ばないと手をつけないということがここのところ続いている。
先月は納豆のストックを切らしてしまったことがあり、納豆なしの状態でおかずをテーブルに並べ、理子を椅子に座らせたら号泣し、手がつけられなくなったことがあった。テレビにトーマスを映し、「絶対にここから動くんじゃないよ」と言い聞かせてコンビニまで走って買いに行ったことがある。
今回はごはんも炊いておらず、冷凍したそれもなかった。納豆のストックも使い切ってしまった。パスタにかけた納豆だけでもまずは食べさせようとするが、白いご飯に乗ってない納豆は納豆にあらず、であった。
金曜日の僕の心はぽっきりと折れてしまった。理子は変わらず泣いているが、とりあえず自分は食事を続け、急いで食べた。そして炊飯器を「お急ぎモード」でセットしたのだった。
理子の機嫌はなかなか治らない。思い出したように涙を浮かべて泣いている。仕方がないのでいちごを用意し食べさせる。理子は自席から離れ、僕の席に座って右手は自分の口に、左手は僕の耳をつかんでいる。平静を保つための理子のスタイルだった。
そのうちに、花さんが帰宅し、ことなきを得た。最大の特効薬はママの存在だ。
3人でお風呂に入り、寝支度をする。理子が歯磨きに至るまでには、プーさんやミニーマウスのぬいぐるみたちの「歯」を磨かなくてはならない。
ようやく布団に入る頃には22時15分。10分くらいかけて絵本を2冊読む。3冊目を本棚から選び出そうとするところを強制的にストップさせるために照明を消す。ようやく1日が終わる。
3歳児にとってはかなり遅いけれど、23時前には寝てしまう。
花さん曰く、「理子よりも先に寝息が聞こえたよ」。
僕の金曜日は誰よりも早く終わる。金曜日のリビングを残したままに。
夜中に更新されているのは大抵が企業によるものだった。ここのところ、友人たちはあまりそれらを更新しなくなってきている気がする。いっときのミクシーのように、みんなは新たに場所を見つけたのかもしれない。
隣で理子はまだ寝ている。時々だまったままこちらを見ていることもあるので、びくっとすることもある。
なかなか布団から出ることができないまま5分10分と過ぎていく。その時が7時7分だったら、15分には布団から出よう、というふうに自分を甘やかせる。布団のぬくもりがそれを助長させる。
意を決して布団から出てリビングに行く。
前日の自分の頑張り具合が表れるリビング。テーブルの上が片付いているときは調子が良かった時だ。調子が悪い時はテーブルはおろか、床にも色々なものが散乱している。理子がひっくり返したおもちゃや本たち。取り込んだまま片付けられていない洗濯物たち。
調子が良いというのは体調ではない。片付けまでできるマインドだったかどうか、ということだ。
平日は18時に仕事を終わらせ、駅直結の職場を出て地下鉄に乗り、保育園まで急ぐ。19時15分までに保育園に行かなくてはならない。15分、というところに、いたわりを感じる。
純粋な意味での一人時間というのはこの通勤時のみといっても過言ではない。しかし大抵は満員電車であるから、見ず知らずの人と否応なく触れていないとならない。冬場はダウンコートなどの重厚なアウターをきている人が多く、車内は冷房が必要なくらいの熱気がこもっている。
大抵文庫本を2冊鞄に入れている。少し前まで読んでいたのは、ジャックケルアックだったのだけど、途中で読むのを挫折した。僕はどうしても翻訳ものは読み切ることができない。今までの人生でそれが可能だったのは、数冊しかない。カミュの『異邦人』に関しては4回くらいは読み返しているからかなり稀有な存在だ。
今は村上春樹のインタビューをまとめたものを読んでいるのだけど、車内の混み具合によってはそれが中断されてしまうこともある。その時は仕方がない。虚空を見つめざるをえない。
一度路線を乗り換える。大抵いつもホームの決まった場所にいる。そしていつも大抵少し遅れて電車はやってくる。おのずとお迎えの時間も遅れる。
車内での読書を終えると、最寄駅で降り、一目散に保育園へと向かう。18時45分。外は真冬に比べて少しはまだ青のトーンが残っている。
すれ違う人たちの中に、もうお迎えを終えて夕飯の支度のためにスーパーに立ち寄る親子の姿が見られる。そいういった姿を見ると少しだけもどかしい。
駅から歩いて5-6分で保育園に到着する。門のところには数台の自転車が止まっている。全て電動自転車だ。呼び鈴を鳴らすと備え付けのライトが点灯する。そして名前を告げ鍵を開けてもらう。
園の中に入ると、窓越しに延長保育中のこどもたちの姿が見える。僕はその脇を通り過ぎながら娘の顔を探す。目があうとパーっと表情がキラキラするのが分かる。飛び跳ねて喜びを表現してくれる。
入り口で靴を脱ぎ部屋に入り、上着や、汚れた服などを回収する。お漏らしした時は、袋が重くなるのですぐにわかるのだけど、最近ではそれがめっきりなくなった。そしてオムツもほぼ外れているので汚物を入れるビニール袋は空なことが多い。
「パパー!」と走って僕に飛び込んでくる。「変わりないでーす」と先生から言われ、支度をして帰る。給食のサンプルを見て、「これ食べられたんだよ」と教えてくれる。
靴を履いた瞬間に走りだす。こどもの体力ゲージを可視化してみたい。残り5パーセントでもきっと加速スイッチは稼働すると思う。
2重の鍵を外し、歩道に出ても走りだすから非常に怖い。「道路だから走ると危ない」ということを教えても理解できないから根気よく注意深く家まで帰らなくてはならない。
金曜日のお迎えの時は、帰り道にある自販機でアイスを買って帰ることにしている。これは夏場から続いている。暑かったとき、そこにあるベンチで食べていた。僕としては夏だけのつもりが、真冬でもこれは続いていた。もちろん自宅に持ち帰って食べる。
途中、広い駐車場があり、金網越しにお店やさんごっこをする。保育園にこっそり持っていっているドキンちゃんとコキンちゃんのおもちゃを並べて「どれにしますかー?」と理子が言う。「コキンちゃんください」と僕が言うと、「ダメでーす」と言って店じまいをしてしまう。
塀の上を登ってみたり、そこからジャンプしてみたりして、ようやく家に到着する。マンションの敷地内にある灯りを怖がるので、そちら側を僕が歩く。
力強く階段を自分で登り、部屋に入る。換気をし、ガスストーブに火を点ける。
園から持ち帰ったものを袋から取り出す。連絡帳にさっと目を通し、片付ける。
手洗いうがいをしアイスを食べる。
理子がアイスを食べている間にご飯の支度にとりかかる。金曜の冷蔵庫はもう中身が枯渇している。パスタを茹で、にんじんときのこを炒めたものと納豆を混ぜてめんつゆをかけ、和風パスタとして食卓に並べる。すると理子は「ごはんがいい」と泣き喚く。ごはんに納豆。それが並ばないと手をつけないということがここのところ続いている。
先月は納豆のストックを切らしてしまったことがあり、納豆なしの状態でおかずをテーブルに並べ、理子を椅子に座らせたら号泣し、手がつけられなくなったことがあった。テレビにトーマスを映し、「絶対にここから動くんじゃないよ」と言い聞かせてコンビニまで走って買いに行ったことがある。
今回はごはんも炊いておらず、冷凍したそれもなかった。納豆のストックも使い切ってしまった。パスタにかけた納豆だけでもまずは食べさせようとするが、白いご飯に乗ってない納豆は納豆にあらず、であった。
金曜日の僕の心はぽっきりと折れてしまった。理子は変わらず泣いているが、とりあえず自分は食事を続け、急いで食べた。そして炊飯器を「お急ぎモード」でセットしたのだった。
理子の機嫌はなかなか治らない。思い出したように涙を浮かべて泣いている。仕方がないのでいちごを用意し食べさせる。理子は自席から離れ、僕の席に座って右手は自分の口に、左手は僕の耳をつかんでいる。平静を保つための理子のスタイルだった。
そのうちに、花さんが帰宅し、ことなきを得た。最大の特効薬はママの存在だ。
3人でお風呂に入り、寝支度をする。理子が歯磨きに至るまでには、プーさんやミニーマウスのぬいぐるみたちの「歯」を磨かなくてはならない。
ようやく布団に入る頃には22時15分。10分くらいかけて絵本を2冊読む。3冊目を本棚から選び出そうとするところを強制的にストップさせるために照明を消す。ようやく1日が終わる。
3歳児にとってはかなり遅いけれど、23時前には寝てしまう。
花さん曰く、「理子よりも先に寝息が聞こえたよ」。
僕の金曜日は誰よりも早く終わる。金曜日のリビングを残したままに。
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