いつ頃からだったか、HANAが韓国語教室に通いだした。
大学の頃から、外国の空気に数多く触れてきていたようだったので、
韓国に興味を持つことも実に自然なことのように見えた。
通勤電車の中では教科書を読み、家では「宿題がある」と言って
テーブルに向かって何やら書き取りをしていたこともあった。
僕はと言えば、仕事柄長期休みを取ることが難しいこともあって、
海外に思いを馳せることは皆無に等しい。
そんな僕に、HANAは何度も言った。
「一緒に韓国へ旅行しない?」
僕はいつも「NO」と答えてきた。
HANAは僕にこの質問をするようになってから、
相手を変え、時季を変え、実に5回以上韓国へ渡航している。
韓国という国に対して興味を持ったことがなかった僕なのだけど、
「旅費は私が持つ」というHANAの言葉に負け、
「そこまで言うなら連れて行ってくれ」と言って、1月3日にそれは実行された。
早朝の二子玉川駅。
空港へ向かうリムジンバスがロータリーへと静かに滑り込んできた。
係員が名簿を照らし合わせ、乗客の確認をしている。
僕らはスーツケースを預け、バスに乗り込む。
乗用車とは違って高い位置から眺める景色は心をわくわくさせた。
定刻通りにバスは羽田へ向かって出発した。
東京湾景。
昔のドラマのタイトルのような景色を横目に、バスはスムーズに運行を続ける。
果たして、予定時刻よりも早く空港へと到着した。
「チェックインは済ませてあるよ」HANAは言った。
ネットで既に済ませたというのである。実に旅慣れている。
「向こうでWi-Fiを使えるように、機械の手配をしてあるからそれを受け取りに行きましょう」HANAは言った。
無駄がない。実用的。旅のお供にHANAである。実に旅慣れている。
スーツケースを預けて早々に入国審査を終えると、コーヒーを飲んで休憩した。
親に電話をしたり、ネットでニュースを見たりした。
そうこうしている間に、搭乗時刻となり、手荷物を小脇に抱え、飛行機へと乗り込んだ。
飛行機に乗り込む瞬間というのはいつも不思議な高揚感に包まれる。
知らない場所へ連れて行ってくれる、魔法使いが出した不思議なアイテムのようだ。
それはたったの2時間半で僕たちを金浦空港へと運んで行った。
実にあっという間だった。
入国に際し、指紋と顔写真を採られる。ふむ。
地下鉄に乗ってソウル駅へ行き、タクシーを捕まえるとホテルへと向かった。
なんてことないといった風に、HANAはタクシーの運転手に韓国語で目的地を伝える。
そして運転手は静かに車を走らせるのであった。
我妻ながら、感動すら覚えた。
車を降りると、街はどこか黄色く見えた。
そのことをHANAに言うと、
「大陸だから、日本とは空気が違うみたいね」と彼女は言った。
ひどく合点のいく答えであった。日本は島国なのだ。
ホテルでは時間の関係でチェックインができなかったため、
荷物だけ預かってもらうことにして、街へと繰り出した。
「ほんの少し前は、日本人で溢れていたんだけどね」とHANAは言った。
そのことが窺い知れるのは、店先に必ずと言っていい程、
何かしらの日本語が書かれていることで分かった。
店に入ってみると、すぐに日本人だと分かるらしく、
こんにちは、と店員に声をかけられる。
僕もHANAも大きなマスクをしていて、
目元ぐらいしか判断材料がないのにも関わらずである。
日本語を話せる人は、たいてい流暢であった。
お昼ご飯は、HANAが行きたいと言っていたトッポキの店へと行った。
トッポキの店というだけあって、トッポキしかメニューにはない。
あるのはトッピングの種類だけだ。
それゆえ、店に入るやいなや、席に着くとほぼ同時に
トッポキの入った鍋がテーブルに置かれるのであった。
凄まじいシステムだ。
周りを見渡してみても、無駄話をすることもなく食べ終えたら席を立つ。
回転がとてもよい。
鍋の中身はすぐに沸騰し始めた。
地獄のように真っ赤な鍋である。
韓国独特のステンレスの箸やスプーンを使って食べたそれはとてもおいしかった。
しめには、雑炊ではなくチャーハンにして食べた。
これも少し独特である。
腹ごなしもかねて、古い街並が残る北村を歩いた。
日本と同じアジアで、似ているようで似てない街並。
懐かしいようで新鮮な景色を堪能した。
しばらくすると、ホテルのチェックインの時間になったので、戻ることにした。
そして、夜の街へ繰り出すべく体力温存のため、
ベッドへ倒れ込むようにして眠りにつくのであった。
2014年1月7日火曜日
2013年12月15日日曜日
YAMANASHI
いつの頃だったか、酒を飲んでる席で、
「キャンプしたいね」などという話がなされた。
みんなが一様に「いいねえ」「やろう、やろう」などと言っていたが
その時は酒を飲んでいるということもあったのか、話が具体的になることはなく、
食い散らかした肴の皿が店員に運ばれるように、その話はどこかにいってしまった。
それから幾ばくかの月日が流れた。
また飲んでる席で、同じような話がなされた。
前回と違うのは話が具体的になったということだった。
田代氏が以前利用していい施設だったという山梨にある「べるが」という場所を借りることになったのだった。
それぞれに役割分担が与えられ、
田代氏は幹事、横山氏は運転、貝塚氏は料理、中山氏、花松氏はレクリエーション、
スチュアートと僕は記録係となった。
矢野氏は仕事の都合が不明だったので、行けるようなら行くというところで落ち着いた。
11月24日、晴れ。
8時半に新宿駅西口に我々は集合した。
基本的に朝会うということが皆無であった我々にとってはかなりレアケースである。
レンタカーを手配している横山氏が到着するまで、
新宿のビル群の谷間でタバコをふかしながら、この時季にしては暖かい太陽の日差しを浴びていた。
しばらくしてワゴン車が到着。荷物を詰め込むと、近くにいたバスの運転手に写真を撮ってもらった。
出発前の『気合い』である。
中央道に乗って山梨までひた走る予定だったのだけど、
道の渋滞はかなりのものであった。
それでもみんなといると、大して苦になることもなく、
「いい具合にくたびれた小屋がありますぜ」と朽ちかけの建物に興奮したり、
「それは君、あれだよねぇ」と大泉洋が現れたりしていた。
途中、コンビニに寄って飲み物や食べ物を調達すると、ロングライドが始まった。
横山セレクトCDがミニマムに車体を揺らす。
車窓を流れて行く景色は、近代的な建物から次第に自然あふれるものに変わっていき、
やがて紅葉の色が美しい山並みになった。
山梨県に入ると空の色と紅葉が一段と美しくなった。
車は順調に目的地へと進んでいった。
前衛的且つ都会的な音楽が車内では流れており、車窓とのギャップがあった。
べるがの借りた部屋で調理ができるということもあり、
スーパーで食材を調達する事にした。
その土地に根付いた庶民的なスーパーマーケット。
東京に比べてあれが安い、これが安いなどと話しながら買い物かごを埋めていった。
料理係の貝塚氏に確認し、必要な物を買いそろえると再び車に乗り込んだ。
長い一本道をしばらく進むと、そこには森に囲まれた、べるががあった。
到着時間が押していた事もあり、田代氏は颯爽と車を降りると、チェックインを済ませ、
施設の見取り図を手に、部屋まで向かった。
借りたコテージは、入った瞬間、外よりも寒く感じた。
しかしながらかなりグレードのよいものだった。
清潔感があり、奇麗にベッドメイキングされた寝室があり、なによりも森のなかにある雰囲気は抜群だった。
すぐさまガスストーブに火をつけると、手早く荷物を然るべき場所へと移動した。
イベントとして、たき火をしたいと僕は提案していて、田代氏はそれを手配してくれていた。
受付でさつまいもを人数分確保し、スーパーで買ったしいたけとともに、新聞、アルミホイルにくるんだ。
たき火ができるスペースに移動すると、係のおばさんから手ほどきを受けた。
「天気がいい日が続いたから、枯れ葉も乾いていてすぐに火がつくよ」と彼女は言った。
教えられた通りに枯れ葉を集め、火をつけるとすぐに煙が立ち上った。
自然に各々が役割を担い、円滑に作業は進められた。
誰かがここで酒を飲みたいと、割と自然の摂理にでも乗っ取ったかのようなことを言って、
買ってきたワインが用意された。
グラスに注ぐ事なく、それはラッパ飲みでみんなに回された。
控えめに言っても、それはすごくおいしかった。
火を見ると人は何故か落ち着くらしかった。
森に落ちる木漏れ日。立ち上る乾いた煙。
時間が経つのも忘れて僕たちはその空間にとけ込んでいった。
果たして焼き上がったさつまいもはおいしく、
しいたけも調味料がなくとも素材のうまみが引き立つものだった。
火の始末は係の人にお任せをして、部屋に戻る。
ガスストーブのおかげで部屋は暖まっていた。
缶ビールで乾杯すると、ゆるゆると宴がスタートした。
長くなりそうな夜だった。
続く
2013年11月5日火曜日
その昔の話
「私がこの家に嫁に来たばかりの時にね、台所で夕飯の支度をしていたのよ。ふと後ろに気配を感じたものだから振り返ってみたんだけど、知らないおばあさんがいたのよね」
母は言った。
「この辺の人は呼び鈴鳴らさなくても家に入ってきちゃうじゃない?だから近所の人かなって思って、気にしてなかったんだけど、また振り返ってみたら、そのおばあさんいなくなってたのよね」
母はなんてことないと言った風に話を続けた。
「それからしばらくして、昔のアルバムを見る機会があって、よくよく見てたらあの時のおばあさんが写真に写ってたのよ。この家の亡くなったおばあさんだったのよ」
僕と兄は、幼少の頃から怖い話が大嫌いだった。
その話を聞いて以来、台所も、その隣の仏壇の部屋も怖くなってしまい
暗がりの一階全般が恐ろしくて仕方がなかった。
夏休み、両親も祖父母も不在の日があった。
その日の天気は雨が吹き荒れていて、嵐のようだった。
母は言った。
「この辺の人は呼び鈴鳴らさなくても家に入ってきちゃうじゃない?だから近所の人かなって思って、気にしてなかったんだけど、また振り返ってみたら、そのおばあさんいなくなってたのよね」
母はなんてことないと言った風に話を続けた。
「それからしばらくして、昔のアルバムを見る機会があって、よくよく見てたらあの時のおばあさんが写真に写ってたのよ。この家の亡くなったおばあさんだったのよ」
僕と兄は、幼少の頃から怖い話が大嫌いだった。
その話を聞いて以来、台所も、その隣の仏壇の部屋も怖くなってしまい
暗がりの一階全般が恐ろしくて仕方がなかった。
夏休み、両親も祖父母も不在の日があった。
その日の天気は雨が吹き荒れていて、嵐のようだった。
家には僕と兄の二人だけが2階の一番奥の部屋にいて
教育テレビや、アラレちゃんの再放送を見たりしていた。
そんな時兄が言った。
「なんか下の階から物音が聞こえないか?」
「え??」
誰もいないはずの階下から物音がする。
我々を包む空気は一転した。
当時、エアコンなどをめったに使わなかった我々は汗だくで過ごしていたのだけど
瞬間的に冷や汗が出てきた。
「そんなはずはないよ」
と僕は気のせいであることを主張した。
「いや、絶対聞こえる」
と兄は現実的な主張をした。
実際聞こえていたのだ。物音が。
アラレちゃんの再放送は終わり、いつのまにか『どうなってるの?』の枠の
番組になっていた。
そしてよりによって真夏の怪談スペシャルで稲川淳二がゲストで現れた。
笑いを生み出すはずのテレビから青白い怖そうな映像が垂れ流されていた。
テレビを消せば消したで、階下で起きている問題を直視しなくてはならない。
僕たちは、まじめな顔で武器になり得るものを探して手にとり、
まずは部屋からでることにした。
外では風が勢いを増し、雨が窓を打ち付けていた。
時折雷も聞こえてきて恐怖を助長している。
ようやく階段のところまでたどり着くと、1階がいつもよりも薄暗く見える。
「にいちゃん先行ってよ」
こういうときは都合良く弟面する僕。
兄は恐る恐る一段一段、階段を降りて行く。
僕はその後を追う形だ。
仏壇のある部屋を過ぎ、台所を過ぎ、物音がするほうへ歩みを進める。
すると物音の原因が判明した。
うっすらと開いた窓に傘が当たってバサバサと音を立てていただけであった。
僕たち二人は安堵の表情を浮かべ、ちょうど昼時になったこともあり、
台所で母が作っておいてくれた昼食を食べた。
その時は不思議と台所は怖くなかった。なぜだろう。
母からブログに兄のことも書いてみてよと言われたので、
昔のことを思い出してみたらこんなことがあったので書いてみた。
オチもないけど。
次書く時はもう少しまじめなトーンで書いてみようと思います。
2013年10月30日水曜日
母
その昔、DCブランドブームなるものがあったとき、
僕は生まれたてのホヤホヤであった。
母の洋服屋での販売員経験も相まって、
僕たち兄弟には挑戦的とも言えるような格好を物心つく前からさせられていた。
人と同じ格好はさせたくないをモットーに、
HYSTERIC GLAMOURのキッズライン(FUCKだのSEXだの書かれた服)を、
母はよく着させていた。
今でも覚えているのは、紫色のスウェットトレーナーに、
HYSTERIC MINIの赤ちゃんのキャラがプリントされたものだ。
まだ赤ちゃんに毛が生えた程度の僕が
赤ちゃんがプリントされた服を着ているのだからおかしな話だ。
幼稚園に着ていくのがとても恥ずかしく、
僕は手で前を隠しながら過ごしていたものだった。
小学校を卒業するまでは、基本的に母親が買った物を着ていた。
学校では友人たちはジャージを着て三歩当てやらドッジボールに励んでいるのだけど
僕はやけにカットがこだわっている服を着ていた。
ジャージを着たのは遠足の時ぐらいである。
小学生というのは、周りととけ込む事を最重要項目としている部分もあるので、
僕は母に普通の服が欲しいと何度も嘆願したものだったが、聞き入れられなかった。
アディダスのTシャツを欲しても、
「うちのじいさんが着ているでしょ!そんなの着させられない!」と
訳の分からない事を言われたりもした。
そんな子供だった僕も、中学に入学するに連れて自尊心やら異性の目やらが
気になり始めており、洋服に関しても母に対して意見するようになった。
そして、当時はスニーカーブームやらビンテージブームなどが起きており、
兄が買ってきたBoonを読んでその世界にのめり込んでいった。
初めて自分の意志で買ったのはリーバイスのジーンズだった。
それから、ためた小遣いでせっせと自分で服を買うようになっていった。
中学三年の時、受験をがんばるからNIKE AIR ZOOM FLIGHTを買ってくれと
おねだりをしたことは恥ずかしい思い出である。
高校に入ると服への熱は勢いを増していき、市内にある古着屋を周り、
買う予定もないのに店に入り浸っていたりもした。
2年生の時、進路相談会があったのだけど、
僕はまったく進路が定まっていなかった。
そんな時、今は亡き山本先生が言った「興味のあることをとりあえず書いておけ」という
何気ない一言に押されて「服飾学校」と記入した。
調べていくうちに、ファッション雑誌に携わる仕事がしたいなどと夢見た結果、
親の反対も全くないままに、文化服装学院に入学し、上京した。
長期休みで実家に帰る度に、母は「東京にいるくせに面白くない格好だ」
などと僕の服装にケチをつけた。
しかし、本当は、僕の帰省時の格好を楽しみにしていたと、
母は僕の結婚式の時に語ったのであった。
結局のところ、父がなりたかったグラフィックデザイナーという職業に就き
母が僕に与えてくれたファッションへの憧憬が
今の僕を形作っている訳である。
なんとうまく配合された息子であろうか。
そんな僕は、今H&Mの服を着ているのだけど、
母にしてみたら、やっぱりつまらなく映るのかもしれない。
「東京にいるんだからもっと攻めた格好しなきゃ」
母の叱咤激励はいつでも若い。
僕は生まれたてのホヤホヤであった。
母の洋服屋での販売員経験も相まって、
僕たち兄弟には挑戦的とも言えるような格好を物心つく前からさせられていた。
人と同じ格好はさせたくないをモットーに、
HYSTERIC GLAMOURのキッズライン(FUCKだのSEXだの書かれた服)を、
母はよく着させていた。
今でも覚えているのは、紫色のスウェットトレーナーに、
HYSTERIC MINIの赤ちゃんのキャラがプリントされたものだ。
まだ赤ちゃんに毛が生えた程度の僕が
赤ちゃんがプリントされた服を着ているのだからおかしな話だ。
幼稚園に着ていくのがとても恥ずかしく、
僕は手で前を隠しながら過ごしていたものだった。
小学校を卒業するまでは、基本的に母親が買った物を着ていた。
学校では友人たちはジャージを着て三歩当てやらドッジボールに励んでいるのだけど
僕はやけにカットがこだわっている服を着ていた。
ジャージを着たのは遠足の時ぐらいである。
小学生というのは、周りととけ込む事を最重要項目としている部分もあるので、
僕は母に普通の服が欲しいと何度も嘆願したものだったが、聞き入れられなかった。
アディダスのTシャツを欲しても、
「うちのじいさんが着ているでしょ!そんなの着させられない!」と
訳の分からない事を言われたりもした。
そんな子供だった僕も、中学に入学するに連れて自尊心やら異性の目やらが
気になり始めており、洋服に関しても母に対して意見するようになった。
そして、当時はスニーカーブームやらビンテージブームなどが起きており、
兄が買ってきたBoonを読んでその世界にのめり込んでいった。
初めて自分の意志で買ったのはリーバイスのジーンズだった。
それから、ためた小遣いでせっせと自分で服を買うようになっていった。
中学三年の時、受験をがんばるからNIKE AIR ZOOM FLIGHTを買ってくれと
おねだりをしたことは恥ずかしい思い出である。
高校に入ると服への熱は勢いを増していき、市内にある古着屋を周り、
買う予定もないのに店に入り浸っていたりもした。
2年生の時、進路相談会があったのだけど、
僕はまったく進路が定まっていなかった。
そんな時、今は亡き山本先生が言った「興味のあることをとりあえず書いておけ」という
何気ない一言に押されて「服飾学校」と記入した。
調べていくうちに、ファッション雑誌に携わる仕事がしたいなどと夢見た結果、
親の反対も全くないままに、文化服装学院に入学し、上京した。
長期休みで実家に帰る度に、母は「東京にいるくせに面白くない格好だ」
などと僕の服装にケチをつけた。
しかし、本当は、僕の帰省時の格好を楽しみにしていたと、
母は僕の結婚式の時に語ったのであった。
結局のところ、父がなりたかったグラフィックデザイナーという職業に就き
母が僕に与えてくれたファッションへの憧憬が
今の僕を形作っている訳である。
なんとうまく配合された息子であろうか。
そんな僕は、今H&Mの服を着ているのだけど、
母にしてみたら、やっぱりつまらなく映るのかもしれない。
「東京にいるんだからもっと攻めた格好しなきゃ」
母の叱咤激励はいつでも若い。
2013年10月27日日曜日
記録
思えば僕の父親は、僕が物心つく前、というよりも父親自身が幼少の頃から
何かにつけて記録をとるタイプだったようだ。
実家のリビングの本棚には大量の本があり、
何気なく手に取った本の表3部分には、
「○年○月」といったように、日付と父親の名前が書かれていた。
その日付が本を購入した日なのか、読了した日なのかは確かめた事はないが、
そういう父親だった。
まだ僕が幼い頃、父親が寝る直前に布団の中で革張りの手帳に何やら書き付けている姿を見た事があった。
どうやらそれは日記だったらしい。
彼は朝の7時には家を出て、夜の9時に家に帰ってくるような生活サイクルだったと記憶しているが、1日が終わった後、どのようなことを書いていたのか僕は知らない。
記録をとると言う事に関して言えば、日記を書く事に止まらなかった。
兄や、僕が誕生した日にはビデオをまわし、母親の体内から心音まで録音していた。
そしてそれを編集し、音楽をのせ「優の誕生」とタイトルをつけ
ビデオの背にオリジナルのネームテープを貼っていた。
僕たち兄弟が、思春期を迎える頃にはビデオに収めると言う行為は
少なくなっていった。
僕たちが幼少の頃はそういったことを当たり前のことのように思っていたのだけど、
それは当たり前の事ではなかったことを成長して行く過程で知って行く事になる。
普段の生活においては母親との比重が大きく、
父は一歩引いたところにいるようなタイプだったと記憶している。
母は、そんな父に対してもっと積極的に子育てに参加して欲しそうではあったのだけど
今振り返ってみると、父は記録におさめることや、
またはカメラのファインダー越しに家族との接触をはかっていたようだ。
人との距離の取り方と言うのは、人それぞれで、
家族間においてもそれは例外ではないようである。
先日私の従姉妹が東京の我が家へ泊まりにきた際に、
兄夫婦が育児日誌をつけていて、その内容が面白いのだと言っていた。
血は争えないのである。
僕はと言えば、高校時代から専門学校時代にかけて、
至って普通のキャンパスノートに日記を書いていた。
誰に見せるともなく書かれたそれには、
16歳の小さな悩みを恥ずかしげもなく書いており
未来にいる僕とHANAを多いに笑わせるのであった。
自分に子供が出来たら、父親である僕の名前を検索してこの日記を見つけるのであろうか。
それはちょっと恥ずかしい気もする。
何かにつけて記録をとるタイプだったようだ。
実家のリビングの本棚には大量の本があり、
何気なく手に取った本の表3部分には、
「○年○月」といったように、日付と父親の名前が書かれていた。
その日付が本を購入した日なのか、読了した日なのかは確かめた事はないが、
そういう父親だった。
まだ僕が幼い頃、父親が寝る直前に布団の中で革張りの手帳に何やら書き付けている姿を見た事があった。
どうやらそれは日記だったらしい。
彼は朝の7時には家を出て、夜の9時に家に帰ってくるような生活サイクルだったと記憶しているが、1日が終わった後、どのようなことを書いていたのか僕は知らない。
記録をとると言う事に関して言えば、日記を書く事に止まらなかった。
兄や、僕が誕生した日にはビデオをまわし、母親の体内から心音まで録音していた。
そしてそれを編集し、音楽をのせ「優の誕生」とタイトルをつけ
ビデオの背にオリジナルのネームテープを貼っていた。
僕たち兄弟が、思春期を迎える頃にはビデオに収めると言う行為は
少なくなっていった。
僕たちが幼少の頃はそういったことを当たり前のことのように思っていたのだけど、
それは当たり前の事ではなかったことを成長して行く過程で知って行く事になる。
普段の生活においては母親との比重が大きく、
父は一歩引いたところにいるようなタイプだったと記憶している。
母は、そんな父に対してもっと積極的に子育てに参加して欲しそうではあったのだけど
今振り返ってみると、父は記録におさめることや、
またはカメラのファインダー越しに家族との接触をはかっていたようだ。
人との距離の取り方と言うのは、人それぞれで、
家族間においてもそれは例外ではないようである。
先日私の従姉妹が東京の我が家へ泊まりにきた際に、
兄夫婦が育児日誌をつけていて、その内容が面白いのだと言っていた。
血は争えないのである。
僕はと言えば、高校時代から専門学校時代にかけて、
至って普通のキャンパスノートに日記を書いていた。
誰に見せるともなく書かれたそれには、
16歳の小さな悩みを恥ずかしげもなく書いており
未来にいる僕とHANAを多いに笑わせるのであった。
自分に子供が出来たら、父親である僕の名前を検索してこの日記を見つけるのであろうか。
それはちょっと恥ずかしい気もする。
2013年10月17日木曜日
HARD DRUNKER
土曜
休日ではあったのだけど、仕事に行った。
その時はまだ曇り程度の天候で、自転車で通勤した。
会社につくと、とある学校のパンフレットのレイアウトを進めた。
突発的に入ってきた仕事で、それ故に入稿まであまり時間がなく、
休日を返上しての仕事だった。
15時からスタートし、20時前には終える事が出来た。
僕は自転車に乗って会社を出た。
HANAはその頃、新宿へと向かっていた。
友人と待ち合わせをしていたのだ。
僕はHANAに連絡をし、新宿にいることを確かめた。
その頃雨が降り出していて、自転車を駅前の駐輪場に止めると
山手線に乗って新宿へと向かった。
新宿に着くと、カメラ屋に入り、フィルムを5本買った。
伊勢丹前で待ち合わせをしていたので、そこに向かったのだけど
HANAの姿はなかった。
電話をかけ直してみると、三丁目方面へと移動していた。
ようやく姿を見つけると、HANAは既に友人と落ち合っており、二人一緒だった。
挨拶もそこそこに近くにあったメキシコ料理屋へと入った。
普段なら明るく元気な彼女ではあったのだけど、
この日は心ここにあらずといった風だった。
その証拠に、まずノンアルコールであった。
「さっきまで仕事をしてきたの」と彼女は言った。
なぜそのように元気がないのかという理由は、事前に聞いていた。
それなりに事情に詳しい僕であったので、
少しでも気がまぎれるように話をした。
顔の似た夫婦がステレオで慰める。
しかしあまり効果はなかったようだ。
飲み始める前は、カラオケに行きたいと言っていたのだが、
会計を済ませた後、彼女は家に帰って行ったのだった。
僕とHANAは、そんな彼女を見送ると、
悩みの深さをその背中に感じるのであった。
カラオケをして、タクシーで帰るのだろうと思っていた我々は
健全に地下鉄に乗って帰宅した。
日曜
休日ではあったのだけど、HANAは仕事に行った。
彼女を見送ると、昼食を作って食べた。
そして洗い物をし、洗濯をした。
HULUで映画を見て、読書をした。
実に日曜日であった。
夕方過ぎて、シャワーを浴び、身支度を整えた。
少し風が冷たくなってきていたので、ジャケットを羽織った。
そしてカメラを持って、家を出た。
電車に乗って、三軒茶屋で降りると、改札の向こうにHANAはいた。
白いシャツにレザースカート、KENZOのバンズを履いていた。
HANAの手を取り、階段を上り、赤鬼へと向かった。
店には次から次へと新規の客が入って行くのだけど、
予約をしていなかったようで、すぐに外へ出て行った。
HANAが予約をしていたので、僕たちはすぐに席に着く事ができた。
ビールを飲み、しばらくすると、待ち人が現れた。
日本酒を飲みたいと言ってこの店を選んだ彼女は、なんと和服を着ていた。
自分で着付けて、やってきたらしい。
はじめ、彼女はビールを飲んでいたのだけど、
2杯目はもちろん日本酒だった。
そして僕も酌をしてもらったのだけど、これ以上にないシチュエーションであった。
遅れてやってきた一人も加わり、おちょこを重ねていった。
日本酒を飲む際にありきたりな台詞である「水みたいにぐいぐい飲める」と
調子づいて飲んでしまい、かなりの量を飲み、かなりの会計をするハメになった。
しかしながら、だれからともなく2件目へ、という話になって
酒の飲める中華屋へと入った。
店に入るや否や、僕はテーブルに突っ伏してしまった。
思い出したように目を覚まし、トイレに入ると胃の中の物を吐き出した。
そして何食わぬ顔をしてまたテーブルに突っ伏すのであった。
自分で言うのもなんではあるが、お店で寝る事は珍しい。
次に目を覚ましたときは、僕は家のソファにいたのだった。
僕の記憶は赤鬼に置いてきてしまったようだった。
月曜
実に休日であった。
ソファで目を覚ました現実を受け入れる事は出来なかったらしく、
またソファで寝た。
しかし、この日、15時に友人夫婦を家に招く予定だったために、
それなりの時間に起き、ご飯を食べ、掃除をし、近所のスーパーに買い物へと出かけた。
ビールを購入したのだけど、僕はその時はまったく飲みたいと思わなかった。
彼らは15時を少し回った頃にやってきた。
紳士は約束の時間から少し遅れてやってくるものなのだ。
手みやげにケーキを買ってきてくれていた。
彼らをソファに通し、ビールをグラスに注いだ。
それを見ていたら、ビールを飲みたくなったので僕も飲む事にした。
HANAは前日から料理の下ごしらえをしていて、冷蔵庫には所狭しと食材が並んでいた。
休日ではあったのだけど、仕事に行った。
その時はまだ曇り程度の天候で、自転車で通勤した。
会社につくと、とある学校のパンフレットのレイアウトを進めた。
突発的に入ってきた仕事で、それ故に入稿まであまり時間がなく、
休日を返上しての仕事だった。
15時からスタートし、20時前には終える事が出来た。
僕は自転車に乗って会社を出た。
HANAはその頃、新宿へと向かっていた。
友人と待ち合わせをしていたのだ。
僕はHANAに連絡をし、新宿にいることを確かめた。
その頃雨が降り出していて、自転車を駅前の駐輪場に止めると
山手線に乗って新宿へと向かった。
新宿に着くと、カメラ屋に入り、フィルムを5本買った。
伊勢丹前で待ち合わせをしていたので、そこに向かったのだけど
HANAの姿はなかった。
電話をかけ直してみると、三丁目方面へと移動していた。
ようやく姿を見つけると、HANAは既に友人と落ち合っており、二人一緒だった。
挨拶もそこそこに近くにあったメキシコ料理屋へと入った。
普段なら明るく元気な彼女ではあったのだけど、
この日は心ここにあらずといった風だった。
その証拠に、まずノンアルコールであった。
「さっきまで仕事をしてきたの」と彼女は言った。
なぜそのように元気がないのかという理由は、事前に聞いていた。
それなりに事情に詳しい僕であったので、
少しでも気がまぎれるように話をした。
顔の似た夫婦がステレオで慰める。
しかしあまり効果はなかったようだ。
飲み始める前は、カラオケに行きたいと言っていたのだが、
会計を済ませた後、彼女は家に帰って行ったのだった。
僕とHANAは、そんな彼女を見送ると、
悩みの深さをその背中に感じるのであった。
カラオケをして、タクシーで帰るのだろうと思っていた我々は
健全に地下鉄に乗って帰宅した。
日曜
休日ではあったのだけど、HANAは仕事に行った。
彼女を見送ると、昼食を作って食べた。
そして洗い物をし、洗濯をした。
HULUで映画を見て、読書をした。
実に日曜日であった。
夕方過ぎて、シャワーを浴び、身支度を整えた。
少し風が冷たくなってきていたので、ジャケットを羽織った。
そしてカメラを持って、家を出た。
電車に乗って、三軒茶屋で降りると、改札の向こうにHANAはいた。
白いシャツにレザースカート、KENZOのバンズを履いていた。
HANAの手を取り、階段を上り、赤鬼へと向かった。
店には次から次へと新規の客が入って行くのだけど、
予約をしていなかったようで、すぐに外へ出て行った。
HANAが予約をしていたので、僕たちはすぐに席に着く事ができた。
ビールを飲み、しばらくすると、待ち人が現れた。
日本酒を飲みたいと言ってこの店を選んだ彼女は、なんと和服を着ていた。
自分で着付けて、やってきたらしい。
はじめ、彼女はビールを飲んでいたのだけど、
2杯目はもちろん日本酒だった。
そして僕も酌をしてもらったのだけど、これ以上にないシチュエーションであった。
遅れてやってきた一人も加わり、おちょこを重ねていった。
日本酒を飲む際にありきたりな台詞である「水みたいにぐいぐい飲める」と
調子づいて飲んでしまい、かなりの量を飲み、かなりの会計をするハメになった。
しかしながら、だれからともなく2件目へ、という話になって
酒の飲める中華屋へと入った。
店に入るや否や、僕はテーブルに突っ伏してしまった。
思い出したように目を覚まし、トイレに入ると胃の中の物を吐き出した。
そして何食わぬ顔をしてまたテーブルに突っ伏すのであった。
自分で言うのもなんではあるが、お店で寝る事は珍しい。
次に目を覚ましたときは、僕は家のソファにいたのだった。
僕の記憶は赤鬼に置いてきてしまったようだった。
月曜
実に休日であった。
ソファで目を覚ました現実を受け入れる事は出来なかったらしく、
またソファで寝た。
しかし、この日、15時に友人夫婦を家に招く予定だったために、
それなりの時間に起き、ご飯を食べ、掃除をし、近所のスーパーに買い物へと出かけた。
ビールを購入したのだけど、僕はその時はまったく飲みたいと思わなかった。
彼らは15時を少し回った頃にやってきた。
紳士は約束の時間から少し遅れてやってくるものなのだ。
手みやげにケーキを買ってきてくれていた。
彼らをソファに通し、ビールをグラスに注いだ。
それを見ていたら、ビールを飲みたくなったので僕も飲む事にした。
HANAは前日から料理の下ごしらえをしていて、冷蔵庫には所狭しと食材が並んでいた。
それらを少しずつ彼らに提供した。
春先に自身が結婚式を挙げる予定なので、その前に、僕たちの結婚式のビデオを
見せてほしいというのが彼らの訪問の目的であった。
ビデオを見たいと進んで言う紳士は稀だったので快諾して、今日に至ったわけである。
僕とHANAは「この場面は、プロポーズの起源から習って、それを再現しているのだ」とか
「両親にまんべんなく式に参加してもらうために、
役どころを作ったんだ」などと説明をした。
彼らは「ふむふむ」と興味深そうに見てくれていた。
話をして行く中で、やらないつもりだったことも、
ビデオを見ていたらやってみようか、などと思いが変わったものもあったようだった。
ビデオを一通り見終わると、
僕が毎年HANAの誕生日に作っているHANA BOOKを、彼らに見せた。
カメラが趣味な彼には、プリントして形にすることの大切さを説いた。
そして、記録とともに記憶にもきちんと残せるように日記を書いたらいいなどと
偉そうに言った。
少し酔っていたのだ。
しかしながら、彼らはそんな僕の発言を茶化す事なく、真剣に耳を傾けてくれていた。
僕のような人間の存在を、彼らの心の片隅に置いてもらえれば、
何をやったって恥ずかしくはないと思ってもらえる事であろう。
好きな人の写真を一冊にまとめて製本して毎年プレゼントするなんて
どこのだれがやるというのだ。
宴もたけなわ、酔いきる前に彼らは帰っていった。
こうして酔いどれの3連休が終わったのであった。
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