2025年2月16日日曜日

ばあちゃんのこと

 コロナの頃から、ばあちゃんは老人ホームに入居していた。実家に帰省すればいつもそこにいるというわけではなくなっていた。そしてコロナが終息してもなお、施設へとカジュアルに訪問することは難しかった。

そして今年の年末年始頃にかけて、容体があまりよくないという知らせが母から届いた。もうその最期のときを静かに迎える準備をしていく必要があるという。もう91歳であり、延命という手段を選ぶ体力も残されていないようだった。そしてそれを本人が望んでいるのかももう誰にも知ることができなかった。致命的な病気があるわけではなく老衰に至るものであるとのことだった。

せめて最期の最期に会えないものだろうかと母に聞いてみたが、コロナに罹ってしまいそれが隔離期間を終えないといけないとのことだった。

1月末、容体が落ち着き、母と父は面会に行ったと連絡があった。誰が誰である、ということもままならないような状態で、食事も口から摂れなくなってしまったとのことだった。

僕は翌週の土曜日にお見舞いに行きたい旨を母に伝えたが、施設の人たちの返答は「んー、土曜日か、うーん」と、会うことが難しいことを示唆していたらしい。

その状態になってからだと、数日程度しか体がもたないということを施設の方々は経験則で知っているのである。


2月1日、土曜日の朝、母から電話があった。電話に出る前から何が起きたかを理解した。

その時が来てしまったのだった。


僕はある意味楽観的に、僕が会いにいくまでは、体力がもってくれて会うことができ、僕であることをわかってくれることを期待していた。

僕が子供の頃のように名前で呼んでくれる、そんな場面を想像していたのだけど、叶わなかった。僕はその電話をまだ布団の中で受け取るようなそんな時間帯で、隣で寝ていた玲に、「どうしたの?」と聞かれ、言葉に詰まってしまった。

僕は予定通り、実家に帰ることにした。ただ目的が変わってしまった。


午前のうちに家をでて、新幹線に乗る。最寄りの駅まで兄が迎えに来てくれた。言葉を交わすこともあまりなかった。

自宅に着くと、ちょうどばあちゃんが自宅に運ばれてくるところだった。そのスピード感に驚くが、もうそういうシステムである。悲観的な感情でいられるのはドラマの中の話だけのことだ。


スーツを着た男性が白い布のかかった状態のばあちゃんを家に運び入れる。それを手伝った。じいちゃんは嗚咽を漏らして泣いていた。70年連れそった時間の長さにいろんなことがあっただろうけれど、それを失ってしまったじいちゃんに、僕は背中を支えることしかできなかった。


ばあちゃんを仏間に運び入れる、その体はとても軽かった。

かけられていた布がはだけて、足が見えた。その足を見たら「ああ、本当にばあちゃん死んじゃったんだな」と何故か顔を見た時よりも実感が強まった。


スピーディに色々なことが決められていく。ばあちゃんの時間は止まったままだった。

近所の方々が、顔を見にやってきてくれる。久々に会う人もいるし、半年前におじちゃんの式にも来てくれたおばちゃんたちにも会った。そして「こういうときにしか顔を合わせなくなっちゃったね」と言って虚しく笑った。


夕方過ぎに和尚さんがきて、お経を読んでくれた。この実家から家族を送ったことが今までなかったので、これが初めての経験だった。うちはこういったお経だったんだな、こういうやり方なんだなと知った。

和尚さんは父と同い年とのこと。くだけた口調で式の日取りを決めていった。


和尚さんがきたことで、線香を上げることができた。心の中でばあちゃんに話しかける。

今までありがとう。

僕のなかでは子供の頃にタイムスリップする。子供の頃に住んでいた家、2階にいる僕たちに、「くだものむいたよ」とスイカやメロンをくれた。

近所の工場で働いているばあちゃんのところへ遊びにいったり、足の裏を踏むというマッサージをすると100円のお駄賃をくれた。

成長するに連れて関わり方は変わっていったけど、僕の名前を呼ぶばあちゃんの声はいつも優しかった。


いつだったか、じいちゃんと父が同時期に入院するということがあった。見舞いに行った日の夕暮れ、一緒に地域のお祭りに行った。そういうふうに出かけるのは本当に久しぶりのことで、母がばあちゃんの手を取って歩いてる姿というのは僕は初めて見る光景だった。

正直不仲だった二人。ばあちゃんの手を取って歩く母の姿はそれは特別なことではないといったふうだったから、僕の知らない時間の過ごし方をしていたのだろうということが容易に想像できた。

そして花火を見ているばあちゃんはとても楽しそうだった。

そんな姿が今でも目に焼き付いている。


葬式の際、最期の最期にばあちゃんに話しかけたことは、もう自由に動き回れるし、行きたいところに行けるね。生まれ育った樺太に行くこともできるね。一人の時間を楽しんでねということだった。和尚さんに導かれて触れたばあちゃんの顔の冷たい感触が、いまでも指先に残っている。