早朝の飛行機に乗るため、前夜はパジャマではなく洋服を子供達には着させた。一通りの準備を済ませると眠りにつく。
カーテンから漏れる光が、天井に独特な模様を作り出していて、そういったものを見るのがだんだんと日課となってもいたのだけど、これでお終いである。
目覚ましを何重にもかけていたのだけど、それよりも少し前に目が覚める。すでに花さんは起きていた。大人たちは言葉少なに準備をした。花さんたちはこれからシンガポールに行くので、それには不要なものを僕が持ち帰ることにした。
支度が終わると、玲さんはすんなり起きて、花さんの抱っこ紐に収納された。そして理子は僕が抱っこして部屋をでた。
スーツケースを持ってフロントで花さんがチェックアウトをする間、理子はソファでぐずっている。無理もないのだけど、こういったぐずりにこれからは花さんが一人で対応していくのかと思うと、タフだなと思わざるをえない。『旅をしている』というのが彼女を奮い立たせるのだろうか。
チェックアウトが済むと、やはりGRABでタクシーを配車した。早朝にもかかわらず、それはすぐに到着した。
運転手はものすごく若い。20代前半くらいの男性だった。車は新車のように清潔で、座席には GRABの文字が刺繍されていた。
車窓から見えるのはやはり建設中の工事現場ばかり。これ以上なにが必要なのだろうか。作ってから考えているのかもしれない。高速道路のようなところをひた走る。この道はパトゥ洞窟に行った時と同じだ。
そんなことを考えながら、花さんと旅を反芻する。マレーシアにはマラッカなど他にもみどころはあるのだけど、今回はクアラルンプールだけにとどまった。理子や玲さんのことを最優先に考えてのプランニングを花さんが組んでいたわけだけど、理子は出かけるということに対してのモチベーションが低い。部屋でYouTubeを見ている方が断然楽しいようだ。それは知らないところに行くのが怖いということなのかもしれない。
プールに行ったりペトロサインスで遊んだりしても、瞬間的には楽しんでいるようだけど、旅行は親についてきているだけ、という感覚なのだと思う。
玲さんもイヤイヤ期が始まっているので、これからの旅行の仕方はどうしていくのか、考えなければいけないのかもしれない。
そんな話を花さんとしていると、空港に到着する。数十分の乗車にもかかわらず、日本のそれと比べるとだいぶ安い料金だった。
まずはANAで僕の手続きを済ませる。4人でカウンターにいるのに、僕だけ搭乗することになるので、係りの人は不思議そうな顔をしていた。
その後、花さんたちはシンガポール行きの搭乗手続きを別の場所で行った。
空港内で店を見ている余裕というのもなく、そそくさと出国手続きを済ませる。荷物チェックなどはかなり適当に思えるほど簡易だった。こんなので大丈夫なのだろうか。
偶然にも僕たちの搭乗口は近く、直前のところまで一緒に行くことができた。マレーシアにやってきたときと同じ電車のようなものに乗る。ついこの前これに乗ってきたような気がするのだけど、と感慨に耽る。
そしてお別れの時はやってくる。外国にいるのにこうやって家族が離れることもあるんだなと不思議だ。理子はちょっと泣いていて、僕も離れるのは嫌だなと思う。そしてこれから数日とはいえ二人の世話をしながら外国で過ごすという花さんに、やっぱりこの人はタフな人だとも思う。
搭乗口で別れる。3人とも楽しんでねと言って後ろ髪を引かれながら歩きだす。少ししてから振り返ってみたけど、理子は泣き止んでいるようだった。花さんがなにか魔法の言葉を言ったのかもしれない。母親は子供を泣き止ませるものを持っている。
僕が乗る飛行機の搭乗口へ行くと、当然のことながら日本人が多くいて、安心した。そしてここでまた身体検査が行われた。今度は丁寧に行われている。
搭乗時間まで待っていると花さんからLINEがくる。それは音声で「パパだいすきだよ」と理子からのメッセージだった。
座席は花さんが気を使ってくれて、3人席の通路側を指定してくれていた。定刻通りに進んで、無事に飛行機は飛び立った。それと同時に僕は眠ってしまったのだけど、30分ほど経った時、凄まじい揺れで目が覚める。気流が悪いらしく、今までに経験したことがないくらいに揺れている。日本人CAさんが説明してくれていたのだけど、機長の指令でCAさんも業務を止めて着席してしまうくらい揺れている。備え付けのモニターで飛行機の運航状況を示す画面にしていたのだけど、どんどん高度を上げていくのがわかった。そしてしばらくするとどうにかこうにか落ち着いた。しかしそんなことが日本に着くまで数回あって、生きた心地がしなかった。
心を落ち着かせようとバラエティコーナーから水曜どうでしょうのヨーロッパリベンジ完結編を見てみたらなんと2話までしかなかった。がっかりして気分が落ちた。
結局それから到着までは寝ることはなかった。
成田は雨が降っていた。窓に雨が当たる。iPhoneの電源を入れるとLINEが届いている。花さんたちが乗った飛行機も無事に到着していたようだ。
その後入国手続きをし、荷物を受け取った。ちょうど時間よく二子玉川行きのバスがあったので、コンビニで納豆巻きとお茶とチョコレートを買って乗り込んだ。バス乗り場で対応していた係りの人は、マレーシア人のように見えた。『世界はつながっている』ということを妙に強く感じた。
4時過ぎにバスに乗る。空は曇っていたけれど、遠くにある建物のてっぺんが見えないということはなかった。マレーシアと比べると日本のほうが空気は澄んでいるようだった。
そして明らかに季節が変わったことを実感した。半袖だとむしろ寒いくらいだ。
結局家に着いたのは7時を過ぎていた。家まで帰る道中、松屋で牛丼の大盛りを買い家で食べることにした。旅の余韻なく、いきなり日常が戻ってきた。家には僕だけしかいないのだけれど。
これを書いているのは10月2日で、花さんは仕事に復帰している。それでもきっと頭の中ではもう次の場所を探して、どこかに旅をし始めているにちがいない。彼女はタフなトラベラーだからである。