理子の基本的な、落ち着くスタイルというのは、親指をしゃぶり、もう片方の手で誰かの耳をつかむというものである。テレビに映っているのがプリキュアだったら完璧。彼女が生まれてきて3年ちょっとで確立したスタイル。
意を決して、我々夫婦はそれを壊そうとしている。
大抵の子供は4歳までにそれを止めるという。しかし理子は8月に4歳の誕生日を迎えるというのに、指しゃぶりにさらに磨きをかけている。指しゃぶりをし、足の指先で我々の耳を触るというアグレッシブなプレイに興じている。
それはきっと、胎児の頃、母体の中にいたことを想起しているにちがいないと思われる。
しかし君はもう4歳になろうかとしている!
ある時「ゆびたこ」という名の絵本を使い、指しゃぶり撲滅作戦を敢行したのだ。夜、寝る前にその絵本を読んだところ、効果覿面。思わず大人もびっくりの絵面に理子は恐怖におののき、指をしゃぶらなくなった。
ところが効果が強すぎたようで、夜中に理子はうなされてしまった。夢の中にまでゆびたこが現れてしまったのだろうか。そのうなされている姿があまりに可哀想で、ついつい「ゆびたこはパパが遠くに連れて行ったから、理子のところにはこないよ。安心して」と言ってしまったのだった。
すると彼女は神を見るかのような眼差しで僕を見て感謝を述べるのであった。
当然のことながら指しゃぶりは継続されることとなる。
それから数ヶ月。
保育園の同じクラスの子達もだんだんと指しゃぶりをしなくなったらしいこともあり、ついに科学の力に頼ることとなった。
「 MVX マヴァラ SDネイル マヴァラヴァイターストップ10 ml (並行輸入品)」である。
舐めるとものすごく苦い味のする薬を指先に塗るわけである。随分前から花さんが買っておいたのだけど、奥の奥の手として考えていたものだった。
それをついに使わざるをえないようだ。
どれだけ強力なのか、試しに匂いを嗅いでみると除光液をさらに強烈にしたような匂いが鼻をつんざく。
これを塗ったら子供はひとたまりもなさそうであるが、健康には害がないのであろうから、理子に承諾を得て塗ってみることにした。「理子ちゃん塗る!」と勇ましい。
花さんも、理子を安心させるために、自身の指にも塗った。
ネイルを塗るようにそれを塗るので、ちょっとお姉さんになったような気分にもなったのかもしれない。
実際、しゃぶるそぶりは見せなかった。寝る前に絵本を読む時、指を少し口元に運ぶ気配も見せつつも我慢していた。
これはいけそうだ、と思ったのだけど、入眠し深夜になると、うなされる理子の声が聞こえる。
どうやら寝ている間に指をしゃぶったようだ。
飲み物を求める声がする。ペットボトルに入ったお茶をごくごくと飲み、それはそれでおねしょをしそうで怖いのだが、今はとにかく口の中が苦みでいっぱいなのだ。
ゆびたこの時のように、苦味をどこかに連れて行くことのできないパパは、がんばれとしか言うことができない。
のたうちまわる理子。
こう言ってはなんだけど、『トレインスポッティング』で薬抜きをするレントンが、ベッドの上でのたうち回ってるのを両親がケアしているようなものだった。
ここが踏ん張りどきだ。
しばらくすると、落ち着きを取り戻し、苦悶に満ちた表情でまた眠りに入った。落ち着くための指は反旗を翻しているのだ。
朝、おねしょをすることなく目覚めた理子。
この日から、指しゃぶりをすることはなくなった。
これをしつけと言ってしまうともどかしい部分もあるのだけど、実力行使も仕方がない。
とある日、花さんと理子がお出かけをしている時、メールが届いた。
「マックでポテト食べてうっかり親指なめて2人で悶絶している」
かなり高度なギャグに、仕事中にも関わらず僕は笑ってしまった。
薬の注意書きには効果は3日ほど続くと書かれているのだった。
理子が指しゃぶりを止めた代償に、抑圧を別の形として解消するようになった。
指で口を塞いでいたのから解放されて、口数が異様に増えたのである。
マシンガンのように紡ぎ出される言葉たち。
育児とは実に面白いものである。